ホツマツタヱ暦学講座
ホツマの世界
ホツマツタヱ暦学講座
New !! 注記、スス暦の西暦年代への換算は、下記の二つのホームページを引用しました。クリックして読んで下さい。
ホツマツタヱの意味は?
神話の時代の天御祖神、天御中主、国常立に続く、クニサツチの八人の皇子の一人の「ホ」の皇子が建国したと云う「ホツマ」国の伝記に由来する伝えと云われている。詳しくは、ホッマツタエ_ウイキペディアをご覧下さい。
天皇の祖先は弥生時代に大量に渡来人でしょうか?
天皇の祖先は、日本を造られ「アメのミオヤ(天御祖神〉」です。子孫に、イサナギ、アマテル神、ニニギネ、神武天皇などが続きます。 詳しくは、ホッマツタエのWebを読んで下さい。
大国主命とは、個人名でしょうか?
大国主は、アマテル神の弟であるソサノオの子〔長男)のクシキネが、初代大物主で、役職の名前です。 その後、大物主は、6代続きます。 そして、大物主家を祭る神社は、奈良の大三輪神社になります。 詳しくは、ホッマツタエのWebでご覧下さい。
アマテル神とソサノオとの関係は?
アマテル神、ツキヨミ、ソサノオは、男の三人兄弟神です。 詳しくは、ホッマツタエのWebをご覧下さい。
ホツマツタヱ、古事記、日本書紀の関係は?
歴史ファンに同じの古事記、日本書紀の二書が国書と云われて久しいですが、二書の内容を網羅して更に内容が豊富な歴史書がホツマツタヱとなります。私はホツマツタヱに出会って約30年を超えましたが、その中でも解読が難しいと云われた「暦」の解読に挑戦しました。そして、解読が完了しましたので、皆さんに「ホツマツタヱ暦学講座」として、楽しんで頂きたくホームページにしました。
1、アマテル神の御世~神武天皇の父の御世
神代には暦がないとされたが、ホツマツタヱを見るとこの御世に「スス苗」の成長を基準とした「スス暦」があったと記述されており、そして、暦には基準となる「ルール」が残されておりました。このことより、スス暦の解読を完結させました。
2、神武天皇の父~神武天皇の御世
神武天皇の父に使え、また、神武天皇に使えた臣の年齢の年代を見ますと、神武天皇の父の頃はスス暦であった。そして、神武天皇の暦はアスス暦であった。だが、ホツマツタヱに記述される年齢は、約192歳などが記述されておりました。
3、神武天皇~33代推古天皇の御世
赤線の年代
この年代線が、日本の本来の天神、天皇の年代線である。そして、日本の稲の伝来時期まで遡る年代線であった、
青(黒)線の年代
この年代線は、天皇の歳が100歳以上と高齢であり、世界に通用しない天皇の年代線である。
解説
神武天皇からの御世は、日本書紀暦として暦が説明されております。そして、神武天皇の薨御歳は126歳と現在人と比較しても異常な年齢を記述されておりました。だが、多くの年月日の記述より暦の構成を解読しますと、太陰太陽暦と同じ手法の暦でした。だが、第16代と第17代天皇では、寿命に大きな違いの段差があり、第17代天皇以降は現在人並みの寿命となっていました。このことより、第17代天皇~暦が近代の暦に改訂されていました。このため、赤線では、この改訂した年代に線を改暦しております。
在位年数比較表
在位年数比較図
私が、ホツマツタヱを手にした平成六年頃には、ホツマツタヱの暦、不知火の現れる月を精密に解読した資料は皆無であった。そのため、ホツマツタヱより暦日を抜粋し、直接に統計、品質管理手法を用いて分析、解読、検証を繰り返した。その結果、不知火の現れる月が3ヶ月も違う原因の究明、スス暦の一日の穂数の発見の研究を重ね、すべての研究期間は30年(平成6年・1994年~令和6年・2024年)にもなった。だが、このような時間の使い方は、現在の大学、学会等の論文では考えられないことである。そのため、他研究者の「引用文献」は存在しない。そのため、皆さんにも、査読を御願いしたいが、本研究が、ホツマ暦の先行研究のため、この点を含みおき、高学歴のホツマファンに読んで頂けると幸甚です。
日本の古代文献の代表は、古事記、日本書紀になる。だが、昭和の世に再発見されたホツマツタヱ(漢訳;秀真伝)の内容は、先の二書より遥かに古(神世)の年代でもあり、また、多量な歴史的行動記録などで書かれた資料(古文献)であった。そして、古(神世)の年代は、現在人が目にしたことがないスス暦と云う古代暦で書かれていた。また、スメラギ(天皇)の世からは、日本書紀暦の原暦となったアスス暦で書かれていた。本ホームページでは、この未開な二つの暦について、精密に解読した結果を解説しております。
基準には、二つの方法がある。
1、ホツマツタヱの記述の暦日を基準とする方法
2、1項をより分析、解読、検証し、近代の自然科学(含む太陰太陽暦、太陽暦)に変換した暦日を基準とする方法
事例
長男ヲシヒトに天日嗣した時のアマテル神の年齢を上記の基準で算出すると、
1、 スス暦での歳 240,327穂
2、 スス暦を解明し西暦に換算した歳 約 41.1歳
になる。
当該「日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立」本は、上記2項の自然科学の暦日を基準にし、古代の年代を西暦に算出できている優れものである。
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
神武天皇が東征する頃の29アヤの記述に、「光重ねる 年の数 一百七十九万 二千四百 七十穂経るまで」がある。この記述はスス暦の穂(年)を示すとホツマツタヱに記述されている。それに対し1アヤには、「この教ゑ 天の巡りの 三百六十五ゑ 四つ三つ分けて 三十一なり」との記述があり、恰も近代の太陽暦の一年の日数を暗示している記述があった。本研究は、前述のスス暦の記述と近代の太陽暦の相関性が見出せるかとの研究である。その研究期間は約30年にも及んだ。その結果、「スス暦の当時の一日において、ホツマのヱトが駆使されていた。」ことが判明した。
ホツマツタヱの29アヤは、タケヒト(神武天皇の即位前)の御世であり、アスス暦の51穂の頃の記述となり、タケヒトの45歳の物語の一文として記述されたものである。それを証明するように、28アヤには「五十鈴の 千枝の二十年」と記述されるのに対し29アヤの「光重ねる 年の数 一百七十九万二千四百七十穂経るまで」の「30鈴874枝30穂」と、逆に若い穂数となる。そこで、本来のスス暦の記述方法を考えると、スス暦の初穂より記述されるべきである。だが、ホツマの作者は、端折り、アマテル神の生まれ日を穂数の起点と変更し記述していた。このため、「光重ねる 年の数 一百七十九万二千四百七十穂経るまで」の記述が、アマテル神の歳と錯覚されていた。読者としては、アマテル神の歳を推定する前に、アマテル神、長男のヲシヒト、キヨヒト、ウツキネ、カモヒト、タケヒトの在位年数の合計を調べるべきである。このことを理解されると、「一百七十九万二千四百七十穂」はアマテル神の歳と推定できないことになる。強いて云えば、アマテル神の生まれ日~タケヒトの45歳(約アスス55穂)までの経過穂数である。
日本史の文献の初めは古事記や日本書紀になるが、神武天皇以前の御世は暦や年代の記述がないため「神話」となっている。だが、非公式のホツマツタヱ文献には、神武天皇以前の御世において、暦、年代の記述を含む膨大な歴史の史実が隠れていた。一つの例を挙げると、「神話」と称される時代の神々が、現在の天皇のように、年代、諱、誕生、立皇子、即位、薨御歳が記述されていたのである。また、暦は、現在の単純な太陰太陽暦や太陽暦ではないが、「古代のある法則の元に暦が成り立っている」ことが掴めた。また、神武天皇以降の天皇の薨御歳は、100歳以上が60~70%を占める変な時代が存在していた。だが、この国の歴史学者は、国学の日本書紀らを丹念に、自然科学と暦学を対比し調査して来なかった。そのため、この国の建国のある年代は、天皇の薨御歳が現在人と比較し約2倍の年代で遡られた「紀年」が設定されていた。
筆者は、ホツマツタヱ研究者で日本書紀の研究家でないが、ホツマツタヱの年代の範囲には「天皇の2倍暦の原因の文」が記述されてなく、ホツマツタヱの年代を超過した日本書紀の範囲の年代も研究することになった。その結果、日本書紀の年代に「天皇の2倍暦の原因」が潜んでいた。だが、このことは、日本の歴史家は、朝夕に接して来たと思えるが、「天皇の2倍暦の原因」を究明することができなかったようだ。そのことを当該ホームページで解説する。また、神話時代の暦、天皇の御世の年代についても、その「法則の暦法」を詳しく当ホームページで公開中。是非、ご覧頂けると幸甚です。
(ご参考) 本ホームページは、今や全世界のホツマファンよりご覧頂いていることをお知らせしたい。
ホツマツタヱとは、神話の時代の天御祖神、天御中主、国常立に続く、クニサツチの八人の皇子の一人の「ホ」の皇子が建国したと云う「ホツマ」国の伝記に由来する伝えであり文献である。
文献性としては、紀元前1000年頃(縄文・後期)~紀元262年頃(古墳・前期)までのアマカミ(天神)、アマキミ(天君)、スメラギ(天皇)の歴史・文化を今に伝える。
現在に残される写本は、1775年(天永3年)に和仁估安聡によるものが最新である。また、文体はヲシテ(オシテ)文字の五七調になり、法呈文、1~40アヤ(綾)の全1万行の10万文字にも及ぶ大作であり、編者は、1~28アヤ(綾)までを ワニヒコ(クシミカタマ、ウガヤ時代のツルギ大臣)、後半の29~40アヤ(綾)までがスエトシ(オオタタネコ、景行天皇時代の三輪の臣)になる。
近年のホツマツタヱのブームを作られた先駆けは、私の先生である故松本善之助先生になり、神田の古書店でホツマツタヱを再発見されたことに始まる。
ホツマツタヱの40章は、二つの暦で年代を記述しており、1~28アヤまでは「スス暦」と云う暦になる。29~40アヤまては、次の暦の「アスス暦」になる。本研究では、ホツマツタヱ40章の解説を主眼としているが、その前に、スス暦、アスス暦の暦法が、近代の太陽暦、西暦と相違するため、本研究では、スス暦、アスス暦の解読に主眼を置くため、研究会の総称を「ホツマツタヱ史学」と称する。
研究としては、まず、スス暦、アスス暦の古代暦の暦法の解明を行い、次に、近代暦では、「ヱトが動くと日が変わる」と云われているため、その基本を古代暦のスス暦、アスス暦に応用し、スス暦、アスス暦を太陽暦、西暦で計算し、古代日本史の遡り年表を作成することとする。
注記:スス暦とは、ホツマツタヱのスス暦の御世当時の暦には名称がない。そのため、筆者の吉田六雄が「スス暦」と命名した造語である。スス暦を流用される場合は説明が必要になる。
スス暦は、鈴枝穂、大きい暦数字で記述され、最初の記述は、4- 7「二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に」になる。鈴枝穂の最初の記述は、4-24「二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日」になる。そして、鈴枝穂の記述の間に、神名(古代の人名)が記述される。だが、人が何歳まで生きたかは記述がないが、人名の前後の鈴枝穂の記述を抜粋することで、人が活躍した年数が判明できる。右図は、アマテル神の臣の「オオヤマスミの家系」を示す。だが、27鈴を境に年代が極端に違っていた。
スス暦の解読方法は後に解説するが、解読結果、現在の一代当たり30年に対し古代でも平均28年の在位年数が隠れていた。
アスス暦の初年はアスス21穂になる。スス暦の最後は50鈴1000枝20穂であり、翌年より暦が変わりアスス21穂になる。アスス暦の最後は、アスス843穂である。その間、初代神武天皇から12代景行天皇まで続く。だが、この間の天皇の歳は、100歳以上が多く、異常な歳の天皇の御世である。右図は、天皇の歳の推移を示すが、近代人と違う歳のグラフである。
2代以降~32代天皇の薨御歳を日本書紀より抜粋した。すると、アスス暦では不明だった天皇の薨御歳が変化していた。推移を見ると、17代履中天皇前後により、前は平均104歳、後は平均64歳と短命になっていた。また、15代天皇の御世にワニ博士が来日していた。
薨御歳の比較図
前述で説明したスス暦、アスス暦、日本書紀の御世に生きた古代人の歳であるが、
1、スス暦の27鈴を境に以後は異常歳になっていた。(人名の直前後の月日の記述でないため誤差大。)
2、アスス暦の12人の天皇の平均歳は110歳と近代人と比較し異常である。
3、アスス暦、日本書紀暦の32代の推移から17代以降が短命に推移しており、これが本来の薨御歳と思われる。だが、日本書紀暦には、32代までに暦が改暦されたとの記述がない。
スス暦
1、現代人はホツマの穂と年を太陽暦の年と錯覚し、古代人を長生きの100数万余歳としていた。
・正しくは、ホツマのスス暦の穂、歳、年は、ホツマ・エトの60分の1のことであった。
・そして、穂を一日の刻み(時計)に利用していた。
・このことより、スス暦と太陽暦との相関が決定的に解明された。「2、(4)式)」参照
2、条件
(1)スス暦時代の一日の穂数(h)
a、 1~26鈴の範囲(h1)
〇 4- 39 天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ
(訳)アマテル神、ヲシヒトの御世の一日の単位は、16穂であった。
b、27~50鈴の範囲(h2)
〇21- 64 これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて
(訳)皇孫のニニキネの御世の27鈴以降、一日の単位が、2日で16穂になっていた。(2倍暦に変化)
(2)太陽暦の1年の日数 (d)
(3)太陽暦の経過の年数(T)
(4)スス暦時代のホツマツタヱに記述の穂数、または、大きい暦数字の穂(H)
式
・H = h × d × T
3、スス暦の一日の単位が、近代の太陽暦で証明される(国民の新たな常識の照明) New !!
1~26鈴の範囲
〇・アマテル神、ヲシヒトの御世の一日の単位は、16穂であった。
この御世の21鈴~26鈴間には、たまたま「弥生朔日」を記述する下記の二つのスス暦の記録がある。この二つの記述について、先ず、スス暦の大きい数字の「穂」に換算する。次に、スス暦の一日は1日当たり16穂のため、大きい数字の「穂」を1日当たり16穂で割り算し、近代の太陽暦の年日を求める。そして、二つの暦日の記述は、同じ「弥生朔日」のため、年数の経過年の差はあるが、日数の差は0日である。そして、今迄1日当たり16穂と想定して計算して来たが、今回は一日当たりの穂数を検証するため、一日当たりの穂数を変動、または、可変させる。その結果、1日の穂数(X)が「15穂<X>17穂」の条件をクリアした場合は、スス暦の1日の穂数が16穂であった。また、正しいかったことになる。なお、近代の太陽暦で計算するため、1年の日数は、365.2422日を借用した。
スス暦の暦日の記述 大きい暦数字の穂(H)
6- 1 二十一鈴百二十六枝年サナト 弥生朔日 1207618穂
21-1 二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生初日 1501043穂
穂の差 1501043穂 - 1207618穂 = 293425穂
式
293425穂÷16.067穂/日÷365.2422日/年=50年と0.477913114日
答え
二つの弥生朔日の誤差 0.477913114日の場合
一日の穂は、16.067穂と計算される。
結果
スス暦の二つの暦日の記述は、1日16穂として、運用されていたことになる。思い起こせば、これまでのホツマ研究者は、ホツマ文「天の原 16穂居ますも 1日とぞ」を「十年一日の如し」に準えて、「10年16日の如し」と述べていた。だが、意に反し、『アマテル神の世は、ホツマ・エトの数えで「1日を16穂」数えていた』ことが証明されるに至った。
27~50鈴の範囲
〇・皇孫のニニキネの御世の27鈴以降、一日の単位が、2日で16穂になっていた。(2倍暦に変化)
24- 6 時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月 朔日
27- 41 四十九の鈴の 九百十一枝 初穂キアヱの 初三日
この二つの暦日の記述を上記と同様に検証すると、
結果
スス暦の二つの暦日の記述は、1日8穂に対し「8.0002855穂」が求められる。
その結果、1日当たり8穂、2日で16穂で運用されていたことになる。
式の詳細は、省略する。
スス暦の解読バイブル
ホツマツタヱ 神話時代の暦 スス暦の解説 必読 New !!
スス暦~アスス暦
アスス暦の御世の穂は、百歳以上の天皇が存在するため、太陽暦の歳、年の意味と違っていた。そのため、二つの御世に生きた6代大物主のワニヒコは、アスス135穂の年に192歳と記述されていた。逆算すると、スス暦の御世に78穂の歳、および、アススの年に114穂(歳)生きていた。(2倍暦が存続)
アスス暦、日本書紀暦
暦は、毎日の繰り返しである。そして、スス暦のニニキネ以降の暦は、アマテル神の御世と比較し2倍暦であった。その流れの中に、ワニヒコはスス暦とアスス暦の御世に生きており、その延長線上にアスス暦、日本書紀暦がある。(2倍暦が存続)そして、やっと、17代履中天皇の元年(399年)を境に、天皇の在位年数、薨御歳も太陽暦の年数になっていた。だか、この一因を誰一人として学会で発表できてなかった。
スス暦の新古代史年表
特出
・ホツマツタヱに記述される「ゾロ(稲)の記述」年代の-329~315年に対し考古学の「炭素14年代測定法」で求めた稲作の開始の年代について、東北(日高見)BC350年、根の国(丹後)BC450~350年、関東(新治)BC250年と発表されており、この年代はホツマの記述の-329~-315年と整合する。
アスス暦、日本書紀暦の新古代史年表
特出
・アスス暦、日本書紀暦の不知火の現れる月日の記述は旧暦の五朔であるが、経過日数を2分の1暦にすると現代の不知火が現れる旧暦八朔にほぼ一致する。
・ヤマトタケの出生までの日数は、現代の2倍の21ヶ月であった。
・日本書紀暦の天皇の初年はすべての即位年に春が記述されているが、ホツマの春はアスス暦の奇数穂(年)のみであった。4人の天皇が奇数年に即位していた。
紀年とは、日本書紀の紀元前660年を起点とする日本創始の暦を意味する。
コメント
・紀年の年代(黒線)
紀元前660年の初代神武天皇~399年年の17代履中天皇までの年代線になるが、この線は急に立ち上がっており、そして、17代以降は「くの字」曲がり、その後は「なだらか」になっている。このことは、神武天皇~16代天皇までの年代が、旧の2倍暦で書かれた年代と云うことが判明する。
・新古代史年代は、紀元前850年頃の稲作の開始~32代天皇まで、全体的に「なだらか」である。
・紀年と新古代史年代の差
紀年 新古代史年代 差 評価
神武天皇元年 紀元前660年 紀元前133年 527年 暦法が違うため
線図の色 黒色線 桃色線
暦法 太陰非太陽暦 太陰太陽暦
横軸の説明
X(横)軸、初見・即位のNO,と項目(上表のNO,を示す)
炭素14測定
1稲作開始、九州北部、2、3、4、5、6瀬戸内海西部、7、8、9河内、10、11、12奈良盆地、13、14、15中部地方、東北北部、22南関東
ホツマ・イネ、遺跡、自然現象の記述
17 5-12 ゾロの初見(紀元前330年~290年より古い)、18 5-15 ヰツクリ、20 13-36 イネの初見、36 34-60 ミソコタカラノミカラヌシ(紀元179年~紀元180年)、38 37-10 ハシモノ、40 38-65 不知火
ホツマ、アマカミ(天神)の初見
16 4-24 アマテル神の生まれ(紀元前330年)、19 6-25 ヲシホミの生まれ、21 20-20 キヨヒト、23 25-17 ウツキネ、24 26-14 カモヒト、25 27-64 タケヒト
ホツマ、日本書紀のスメラギ(天皇)の即位
26神武天皇(紀元前133年)27綏靖天皇、28安寧天皇、29懿徳天皇、30孝昭天皇、31孝安天皇、32孝霊天皇、33孝元天皇、34開化天皇、35崇神天皇、、37垂仁天皇、39景行天皇
日本書紀のスメラギ(天皇)の即位
41成務天皇、42仲哀天皇、43神功皇后、44応神天皇、45仁徳天皇、46履中天皇(紀元399年)47反正天皇、48允恭天皇、49安康天皇、50雄略天皇、51清寧天皇、52顕宗天皇、53仁賢天皇、54武烈天皇、55継体天皇、56安閑天皇、57宣化天皇、58欽明天皇、59敏達天皇、60用明天皇、61崇峻天皇、62推古天皇
スス暦の棒グラフは、27鈴を境に年代が極端に違っていたと解説されておりますが、その根拠があれば説明方。(ホツマ読者より)
27鈴の直前に1日8穂を示す言葉が、ホツマツタヱより発見されている。その言葉は「アヱよりヤヱの中五日」になる。これをホツマツタヱの暦法で計算すると40穂で5日となり、1日が8穂で刻まれたことが判明する。また、21鈴~50鈴までの各々大きい暦の穂の後には、「月日」の記述がある。そこで「大きい暦の穂」を、1年365日、1日16穂で割り算し「月日」を求める。下の表はホツマに記述の月日に対し計算した月日を右に記載した。
その結果、1~26鈴までは1日16穂での一致、±1日での一致率が高く、また、27鈴~50鈴までは1日8穂の方が一致、±1日での一致率が高かった。このことより、27鈴以降はスス暦が改訂されていたことが判明する。そして、27鈴以降の「大きい暦の穂」は、1穂~26鈴より棒グラフが高いが、「大きい暦の穂」を2分1にし月日を求めると、記述の月日と計算の月日が、ほぼ一致する。このことより、27鈴以降は、2倍暦であったことが判明する。そして、この傾向は、アスス暦、日本書紀暦に引き継がれていた。
スス暦の在位年数を西暦年に換算した在位年数。但し、27鈴以降は、2倍暦も修正する。
この結果、1鈴~26鈴まで在位年数と27鈴~50鈴までの在位年数を比較しても、現在人並み(平均30年)の在位年数が隠れていた。
西暦への補正式 a 1鈴~26鈴 鈴枝穂(大きい暦数字)÷16穂/日÷365.2422日/1年
西暦への補正式 b27鈴~50鈴 鈴枝穂(大きい暦数字)÷32穂/日÷365.2422日/1年
(注)32穂/日は、2倍暦の修正値
新古代史年表と天文(天体に起こる諸現象)との相関性の有無について、もう少し説明して下さい。(ホツマ読者より)
Ⅰ、1、満月の月相について、アスス暦をシナ暦の儀鳳暦(日本書紀暦日原典・内田正男著に計算式あり)で検証済。
計算方法としては、11個のそれぞれの経過日数を計算し、経過日数をオリジナル、2分1、3分の1、4分の1に算出し、それぞれを1朔望月で割り算し月相を計算する。結果の判定を、満月(15日)に対する誤差で決定すると、その結果、満月の再現率は、2分1暦の場合が最大であった。
2、1項の儀鳳暦で計算した満月の再現率について、2分の1倍暦(黒線)、オリジナル暦、または、2倍暦(赤線)、3分の1倍暦(青線)の満月における誤差の分布を比較した。すると、2分の1倍暦に比較し、他は、中央より離れ、バラツキ幅も大であった。但し、現アスス暦は、オリジナル暦である。
黒線 2分の1倍暦の月相(儀鳳暦・西暦)
標準偏差 σ=0.458 ±3σ=月相 約2.8日以内
赤線 オリジナル、または、2倍暦(アスス)暦の月相(儀鳳暦・紀年)
標準偏差 σ=0.632 ±3σ=月相 約3.79日以内
青線 3分の1倍暦の月相(儀鳳暦・仮想)
標準偏差 σ=1.98 ±3σ=月相 約11.92日以内 単位;日数
2、満月の月相について、アスス暦を古天文学(斉藤国治・著に計算式あり)で検証済。
計算方法としては、11個の満月に対し(1)アスス暦(紀年・西暦)、(2)新古代史年表(太陽暦・西暦)の月日を古天文学の月位置を計算するプログラムに代入し満月の再現率を計算する。その結果、満月の再現率は、誤差±1日以内の再現率を見ると、(1)アスス暦(紀年・西暦)では約27%であった。それに対し(2)新古代史年表(太陽暦・西暦)は約64%で2倍の再現率であった。また、誤差±3日以内とすると、(1)約55%に対し(2)約82%が更に再現率が高くなった。
Ⅱ、 Ⅰ、1項で計算した満月の再現率に関連し、(1)アスス暦(紀年・西暦)、(2)新古代史年表(太陽暦・西暦)の月日において、満月になるまでの分布も調べて見た。その結果、オリジナル暦、または、2倍暦(黒線)に対し2分の1倍暦(赤線)の方が、満月(180°)の中央に寄り添い、また、バラツキ幅が小さく満月のまでの誤差日数が少い。±3σにおいても、1.6倍も精度が高い。(誤植を訂正済)
赤線
2分の1暦、または、1倍暦の月相(新古代史の西暦)
標準偏差 σ=20.35 ±3σ=月相 約10日以内
黒線
オリジナル暦、または、2倍(アスス)暦の月相(紀年の西暦)
標準偏差 σ=51.6 ±3σ=月相 約25日以内
奈良の箸墓古墳は、卑弥呼の墓と云われるが、有無について論説はありますか。(一般読者より)
箸墓古墳の史跡指定は、倭迹迹日百襲媛命の大市墓と云われる。そこで、倭迹迹日百襲媛命の①生まれ年と②罷る年を前述の「古代史新年表」より算出すると、①生まれ年は、紀元55年(孝霊天皇3年夏)、②罷る年は、紀元155年(崇神天皇10年10月)(満100歳)になる。更に、倭迹迹日百襲媛命の罷る年と卑弥呼の死去年を比較すると、紀元155年に対し紀元248年頃になり、卑弥呼が93年も後世の人であった。
32-5 三年夏 内待妃・・・・三つ子生む 名はみなヤマト モモソ姫
34-18 十年十月 箸にみほど御陰お 突き罷る 大市に埋む
箸墓古墳の築造年代
前述の「古代史新年表」より判断すると箸墓古墳は紀元155年(2世紀の前半)の築造になる。また、ホツマツタヱの37-10アヤの記述(アスス721年、西暦201年、3世紀)には、「ハシモノ(土師物)をノミのスクネが、ヰソサチ(垂仁)に、殉死の風習を改め埴輪を作って稜墓に供える」ことを提案したとの記述がある。それでも、現在の論争を解決するためには、考古学的に箸墓古墳の内部を調査しないと判明しない。況して、古墳の造形部に対し周辺部は、長い年月の風雨等により損壊等があり、土器等により補修された恐れもある。そのため、周辺で発見される物は3世紀より新しいことも考えられる。
卑弥呼と同世代の姫は「だれか?」
ホツマツタヱには、景行天皇の御世にヤマト姫がいる。この姫は、後に、アマテル神の宮を巡行させた姫として有名である。ヤマト姫の年代を「古代史新年表」で調査し西暦に換算すると①紀元190年生まれ、②紀元256年~紀元257年(満66歳~満67歳)薨御になる。そこで、ヤマト姫と卑弥呼の生きた年代を比較すると、ヤマト姫が紀元190年~約紀元257年となり、また、卑弥呼の死去は紀元248年頃のため、ヤマト姫と卑弥呼は、同一世代に生きていたことになる。
卑弥呼が記述される邪馬台国の検証
(1)魏志倭人伝に記述の「倭人」の方角が正しいか検証した。
魏志倭人伝(訳)の記述
倭人は帯方東南、大海の中に在り。
検証結果
3世紀の東アジア(三国時代)の地図を引用すると、帯方の東南方向の延長線上に「北九州」があり、「魏志倭人伝」の記述の方角はほぼ正確であった。
(2)末盧国(バツロ国)~邪馬台国までの陸行、水行のコースを整理
魏志倭人伝(訳)の記述
・又、一海を渡ること千余里にして末盧国(バツロ国)に至る。
・東南に陸行すること五百里にして伊都国(イト国)に到る。
・東南、奴国(ドゥ国)に至る。百里なり。
・東行し、不弥国(フウビ国)に至る。百里なり。
・南、投馬国に至る。水行二十日なり
・南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。
検証結果
末盧国(バツロ国)の地
末盧国(バツロ国)の発音に近い現在の地名は、松浦郡である。そこの大きな町は唐津市になる。また、南にズレたと仮定すると、平戸市がある。検証は、この松浦郡と平戸市の2点を起点に検証することになる。
(3)現実の九州に、(2)のコース、方角を記載した。
結論
末盧国(バツロ国)を松浦郡、唐津市、および、平戸市と想定し、末盧国(バツロ国)を起点に邪馬壱(ヤバヰ)国までの道程を検討した結果、福岡県、佐賀県、長崎県の陸地を東南に陸行し、更に、福岡県、佐賀県、長崎県の陸地を東に陸行し、次に南に水行するため、水行の海は有明海 になる。このことより
(1)松浦郡、唐津市を起点すると、邪馬壱(ヤバヰ)国は、熊本県、鹿児島県の県内なる。
(2)一方、平戸市を起点にしても、邪馬壱(ヤバヰ)国は、熊本県、鹿児島県の県内なる。
評価
作図より邪馬台国は、九州のどこかであった。そして、邪馬台国の近畿説は完全に否定された。
そして、昭和42(1967)年に、盲人の宮崎康平が「まぼろしの邪馬台国」で提唱したように、邪馬台国は島原半島であったとの説は、近畿説より濃厚であった。
ヤマトタケ(大和武)のヤマト討ちで歩いた全行程を教えて下さい。また、その時のオトタチバナ姫の年齢を教えて下さい。(ホツマ読者より)
全御幸の行程
景行天皇40穂6月(西暦254年9月)・日代の宮(桜井市)出発 ⇒
10月7日(西暦254年11月20日)・伊勢 ⇒ 磯の宮(伊勢市磯町、磯神社) ⇒ 裾野⇒焼津野 ⇒ 草薙 ⇒ 足柄山 ⇒ 相模の小野 ⇒ 櫓の岳 ⇒
12月8日(西暦254年12月28日)・大磯 ⇒ 大山の北 ⇒ 大磯 ⇒ 上総 ⇒ アシ浦 ⇒ 勿来の浜 ⇒ カリ宮 ⇒ タケの湊 ⇒ 新治 ⇒ 筑波山 ⇒ 西南 ⇒ 酒折の宮 ⇒
41年1月28日(西暦255年1月15日)・相模の舘 ⇒ 吾妻森 ⇒ 大磯 ⇒ 川合の野 ⇒ 秩父山 ⇒
2月8日(西暦255年1月28日)・国巡り ⇒ 箱根のウスイの坂 ⇒ (東南を望みて) ⇒ 追分 ⇒ 信濃木曽路 ⇒ 美濃⇒
41年春(西暦255年2~3月)・尾張 ⇒ 至る神路 ⇒ 伊吹神 氷柱降らして⇒ 泉に冷えます 醒が井や ⇒ 尾張 ⇒ 伊勢の道 ⇒ 尾津の一松(三重県桑名市) ⇒ 三重村 ⇒ 能褒野
スス暦、アスス暦と考古学の年代には相関関係がありますか?(ホツマ読者より)
スス暦の初年は紀元前536年であり、アスス暦の終焉は紀元262年の古墳時代になる。そして、この間の紀元前6世紀~紀元3世紀は、日本の暗黒史の年代でありホツマツタヱが照らしていた。
ホツマツタヱの文章は神代文字ですが、パソコンで書けるソフトはありますか?(ホツマ読者より)
安聡字体用フォント
ホツマツタヱ文献に書かれている安聡字体(似)をパソコン用フォントに置き換え揃えております。
フトマニ用フォント
フトマニ図に書かれている字体をパソコン用フォントに置き換え揃えております。
当「ホツマツタヱ暦学講座」の評価は、良いですか? また、どのような点が評価されているでしょうか?(ホツマ読者より)
神武天皇元年は、西暦660年とされておりますが、日本書紀が編纂された養老4年(720年)頃に西暦年代が判明していたでしょうか(ホツマ読者より)
このように、西洋の情報が渡来する前は、遣隋使、遣唐使が当時の近代的な情報をシナ(支那)より入手していた。そして、神武天皇等の年代はシナ(支那)の王朝の年代と対比されていたことが判明する。
〇ホツマツタヱのご紹介
ホツマツタヱに親しんで戴くため、過去、5年間について、私のホームページへのアクセス数の多い順に順位を付与させて戴ました。好評です。
〇これを見ると、ホツマツタヱに記述の年代がわかる
〇富士山の噴火とアマテル神の宮遷し
富士山の最後の活発期噴火とアマテル神伊雑宮への宮遷し(遷都) アクセス数 3 位
〇ホツマツタヱ講座
ホツマツタヱ 奉納文~7アヤを解説を公開中。
2024 ホツマツタヱ講座 アクセス数 1 位
〇ホツマ選書 三書本 ミカサフミ ホツマツタヱ、フトマニの解説本
ミカサフミ・・・・三笠文 (天皇家の歴史書、全64アヤと云われるが一部の発見。)
ホツマツタヱ・・・秀真伝 (物部家の歴史書、40アヤの大作)
フトマニ・・・・・太占 (アマテル神が作ったと云われる占い。128アヤ)
ホツマツタヱ選書 三書解読本のご紹介 アクセス数 17 位
ホツマツタヱ三書は、ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニを総称した造語です。
解説書本を購読希望の方は、ご連絡下さい。
フトマニの歌 アクセス数 7 位
ミカサフミ 解説 アクセス数 14 位
ホツマツタヱ 奉納文~7アヤの解説 アクセス数 38 位
〇ホツマツタヱの入門書
写本 Web復刻版 ホツマツタヱ アクセス数 21 位
ホツマツタヱ入門書 勉学のすすめ アクセス数 34 位
検証 ホツマツタヱ ホツマ暦 解読編 東京・赤坂ホツマ研究 イッコム ダウンロード可
東京・赤坂ホツマ研究 ダウンロード可 アクセス数 33 位
〇ホツマツタヱゆかりの地を歩く
ホツマの旅 ホツマツタヱゆかりの地を歩く アクセス数 3 位
隠れた古代を見る 岩木山神社 アクセス数 8 位
箱根連山には、駒ケ岳以外に「神山」と呼ばれる山があります。この名称より、ヲシホミが神上がりされた地を持って「神山」と呼ばれたとも思われます。
景行天皇が巡幸した高田宮 アクセス数 39 位
〇ホツマ文字の照会
ホツマツタヱの基本は、ヲシテ(文字)です。 アクセス数 5 位
ホツマ ホツマツタヱ ヲシテ(文字) 安聡フォント アクセス数 6 位
〇アマテル神の研究
天照御大神(アマテル神)の崩御と天の真名井伝説 イッコム アクセス数 16 位
販売およぴ査読募集 日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立 メール受付中
天照太神の初め 紀年で紀元前1000年、太陽暦で紀元前330年が起源だった アクセス数 25 位
ホツマツタヱの暦を解読すると、一番古い年月はアマテル神の誕生日になります、そのため、17代履中天皇元年(399年)より日本書紀暦が改訂されているため、この399年より遡りますと、一番古いアマテル神の生まれ日は、紀元前330年になります。本書では、このことを暦学的に解説しております。
〇神武天皇の生誕地
日本書紀とホツマツタヱの比較
神武天皇が生まれられた京都下鴨茂神社、その境内を南北に流れる瀬見の小川
神武天皇の生まれ地は宮崎でなく、 京都の下賀茂神社 または 滋賀の多賀大社であった
〇神武東征の解説
考古学と見地した神武東征
日向国より大和の饒速日の国に入られた神武天皇と日本国の誕生伝説 アクセス数 36 位
神武東征の折り、タケヒト軍は大阪方面より奈良方面に進軍しようとされた。だが、ナガスネ軍に抵抗され八尾方面に退却し、そして、南紀を回り熊野方面より進軍し奈良の橿原に入られ都を開かれた。世間ではこの迂回を「天皇軍は太陽に向かい進行はできない」とし、大きく南紀を回られたとする説がある。だが、日本書紀、ホツマツタヱには記述されてないが、考古学的には大阪~奈良の間に「河内湖」と云う大きな湖が存在したとされる。そのため、大阪~奈良への道は、湖沿いの一本道でナガスネ軍に抵抗されたため、進軍できず退却を迫られたことが本来の説になります。
〇神武天皇の生涯の年齢と暦法の解説
神武天皇の実存説と証明される2倍暦の終焉 アクセス数 18 位
〇ホツマツタヱ暦(スス暦、アスス暦)の総合Web解説
ホツマツタヱ暦学講座 アクセス数 1 位
〇ホツマツタヱ暦(スス暦、アスス暦)の解読本
ホツマツタヱ 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」 アクセス数 27 位
スス暦、一百七十九萬二千四百七十餘歳の解読スス暦 アクセス数 22 位
日本書紀、ホツマツタヱにも記述される「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の記述。多くの人は、この意味が不明のため、古代に不信を持っているようです。本Webではやさしく解説しております。
「 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」(2018年発行 A3版)」← クリックする
ホツマツタヱ 神話時代の暦 スス暦の解説 アクセス数 10 位
スス暦の暦を勉強する人の解読パイプルとして、アクセス数が伸びてます。
〇ホツマツタヱ史学会のご紹介
ホツマツタヱ史学研究会 設立趣旨 アクセス数 4 位
〇ホツマツタヱアヤ、言語の解説
アマテル神より「ワカ姫」の称号を授かったヒルコ姫 new!! アクセス数 35 位
ホツマツタヱ 1アヤ 東西の名と穂虫去るアヤ アクセス数 13 位
ホツマツタヱ 20アヤ 皇孫十種得るアヤ アクセス数 32 位
オノコロ。語源はアメミオヤノココロであり、古代人は短縮し「オノコロ」と云た
〇ホツマツタヱ、スス当時の人物像
三島大社のツミハと富士山の裾野に存在したハラの宮 アクセス数 9 位
アマテル神が富士山の裾野の「ハラ」で生まれられたと云う。だが、その痕跡が消えていた。そのため、周辺の神社の祭神の名を調べると、三島神社の神として「アマテル神、ソサノオ」の末裔で大物主の「ツミハ」の名が残されていた。このことにより、富士山の周辺の地は、アマテル神の勢力範囲であったことが偲ばれる。
伊吹山の由来の考察とモチタカ(イフキ神) アクセス数 26 位
アマテル神の後に、日本を動かしていたモチタカ(イフキ神)、この足跡が滋賀県の伊吹山の名として残されていた。
伝説の「コノハナサクヤ姫」を訪ねて > アクセス数 12 位
ヤマトタケ ホツマ(国)討ち 西南へて至る 酒折の宮に (2) アクセス数 19 位
箸墓古墳の築造年代が、日本書紀暦、ホツマツタヱ暦より判明する。 アクセス数 28 位
〇アスス暦と太陽暦の相関研究
ホツマツタヱのスス暦、アスス暦は、縄文、弥生、および、古墳時代に該当した
不知火とアスス暦の解読 アクセス数 11 位
熊本県八代海に見られる不知火、多くは旧暦の八朔の前(六朔~八朔)に見られるとされる。だが、日本書紀、ホツマツタヱでは、五朔に見られた記述される。この違いを追及したWebです。
ホツマツタヱに記述される内容と月日を丹念に、暦に写して見ると、ヤマトタケは、21ヶ月後に生まれていた。人間の誕生は、10月10日のため、この当時の暦は、現在の暦の2分の1暦で一年が運航されていたことが判明する。
〇ホツマツタヱの年代と他国の年代比較
漢風諡号よりホツマの成立は760年以前だった アクセス数 29 位
シラキ(新羅)皇子の来日時期 アクセス数 37 位
古代の挑戦に、新羅と云う国が存在した。その皇子が日本に来たとの記述がホツマツタヱにあります。だが、朝鮮の暦、日本書紀の暦の年月が太陽暦で一致してないため、双方に異論があるようです。本書では、スス暦、アスス暦を解読した年代より、シラキ皇子の来日時期を述べております。
〇他ホツマ研究者との論文比較
ホツマツタヱ 現代語訳文の比較 アクセス数 21 位
日本書紀暦(2倍暦)では応神天皇は、仲哀天皇の子でなかった、意外!! アクセス数 15 位
学問ホツマツタヱ辞典「月刊ほつま・普及PR版 アクセス数 23 位
四倍暦説、それは一と月の25~30日を無視した暦であった アクセス数 31 位
世間で発表されている四倍暦を検証して見ると、「1ヶ月を15日」としている説が多い。この説は自然科学に一致しない。あくまで、大空に太陽、月が見える世界では、太陽の運行、月の満ち欠けより「1と月」は、平均約30.43日、平均約29.53日を基準として論じるべきと思われます。
〇自然現象
日の出の底
1月 5日現在
日の出の底日は、秒単位で1月4日であることが立証された一瞬であった。気象庁のHPでは、「1月4日頃」と ファジィーの記載である。そのため、明確にしたく、2020年~2022年に渡り調査した結果、1月4日であることを確認できた。また、底日までの下り曲線と底日からの昇りの曲線は、上りが「1秒早かった」
月の朔望月の変遷
地球を周回する月の楕円軌道
調査結果
2019年より新聞の月相より、毎月の「1朔望月」をウォッチングしている。その結果、過去に比較して、ここ1~2年の周期性が崩れている。変だね。この現象を要約すると、地球に対する月の周回時の楕円率が小さくなり、むしろ、真円化に移行している現象である。そのため、この現象が続くと、海水の満ち引きが減少傾向になり、海水の攪拌率が減少する。引いては、地球の温暖化に繋がることも考えられる。貴方の意見は、どうですか。
下図の説明
2019年の楕円度0.6日に対し2021~2023年の楕円度は0.3日となり、円に近くなっていた。そのため、地球の引力の変動が少なく、地球の温暖化を助長していた。
〇ふるさとの研究
長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り) アクセス数 24 位
受け付けております。2件のメールアドレスよりご気軽にどうそ゛!!
ヤフーメールアドレス : woshite@ymail.ne.jp
最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。