ホツマ伝説「コノハナサクヤ姫」を訪ねて  
       伝説の「コノハナサクヤ姫」を訪ねて 

 

過去に発表した原稿を、リニューアルし公開しております。
横浜市子安通に鎮座する子安神社 (本人の撮影)
  • ヲシテで記述されたホツマツタヱの古代を読む
  • koyasu_asama_jinjya

    地図のJR子安駅の近くに浅間神社がある。コノハナサクヤ姫は、浅間神、三つ子の親のため「子安神」と云われた。そのためだろうか、近くに子安を被せた「子安駅」があった。

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    地図は、約10年以上前に購入したゼンリンの地図を引用した。

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                                      平成24年3月19日

     

    ホツマの世界

             伝説の「コノハナサクヤ姫」を訪ねて

     

                                                                         

                           ホツマツタヱ史学研究会    吉田六雄

     

    あらすじ

     磯輪上の秀真(ホツマ)国、その西隣りに「コヱ国」がある。このコヱ国に日本中で一番高い山、「ハラミ山、こと富士山」がある。そしてハラミ山の祭神は、「コノハナサクヤ姫 」である。今では、浅間神社や子安駅は知っていても、この「コノハナサクヤ姫」のことを知っている人が少なくなった。今回はこの「コノハナサクヤ姫」について、自宅から近い、横 浜市神奈川区にある京浜急行の「子安駅」の駅付近の「子安通り」より「コノハナサクヤ姫」の足跡を現地調査した。その結果、「浅間神社」の石碑には、祭神の「コノハナサクヤ姫」 のことが刻まれてなかった。多分「子安」→「浅間神社」→「コノハナサクヤ姫」が同一人物であることもわからない現在が進行していると感じた。このこともあって、六十号の記念号 は、「コノハナサクヤ姫」について、日頃より考えていた【ホツマの世界 伝説の「コノハナサクヤ姫」を訪ねて】を、今回のテーマとして取り上げた。

     また「浅間神社」の創始の由来。祭神は「コノハナサクヤ姫」である所から「ホツマツタヱ」より、「コノハナサク姫」の伝説に迫って見た。(一)アシツ姫とニニキネの出会い、 婚約。(二)アシツ姫の孕み。(三)ニニキネの二心。(四)アシツ姫を「母、姉恨む」。(五)白子桜は、サカオリ宮の桜だった。(六)三つ子の生まれ。(七)ニニキネ、三人の皇 子に会いにサカオリ宮へ。(八)ムメヒト、サクラギ、ウツキネと名付く。(九)高千穂峰、浅間神、子安神。特に「白子の桜」の由来は、毎日、「ホツマツタヱ」を読んでいるつもり であったが、アマテル神、曾祖父さんのサクラウチに由来する桜であったことを再発見した。また、「ニニキネ」が「コノハナサクヤ姫」に送った和歌は、「沖つ藻は 辺には寄れとも さ寝床も 能わぬかもよ 浜つ千鳥よ」は、恋愛歌の名作であり「ニニキネ」と「コノハナサクヤ姫」の夫婦の中の良さが目に浮かんだ。また「横浜の不断桜?」を紹介する。三本枝の 寒桜が、「ニニキネ」の子供たちの「ムメヒト」「サクラギ」「ウツギネ」を連想?させる。更に、ホツマの神々の年代では、「コノハナサクヤ姫」の生涯年齢の推定にも挑戦して見た 。この結果、「コノハナサクヤ姫」は、紀元前二百五十七年頃から紀元前二百二十四年頃の人で、今から約二千二百四十年頃の前になるようだ。生涯の年齢は、約四十九歳+αの頃まで長 生きされたと推定した。

     

    Ⅰ、浅間の神や子安神

     

    コノハナサクヤ姫

     現在では「コノハナサクヤ姫」を知らない「若者」も、京浜急行の「子安駅」やJR東日本の「新子安駅」は、知っていると思う。だが駅名の由来となると、知っている人は少ない ようだ。そこで「子安(注一)」と呼ぶからには、、何か由来のヒントがないかと思い電子地図を拡大して見た。すると横浜市神奈川区子安通一丁目(注二)の地に「浅間神社」が鎮座 していた。この神社のご祭神は、「コノハナサクヤ姫」の筈だがと思いながら、「神社名鑑(神社本庁)」本を閲覧して見た。だが子安の浅間神社は未掲載であった。そこで期待して検 索ソフトの「ヤフー」で、「子安通一丁目、浅間神社」を検索して見たがヒットしなかった。不安になりながら地図の上の「浅間神社」は、有名無実の記録なのかと思いながらも、次の 日に出かけて自分の目で確かめることにした。

     

    (注一)子安

    古くは子安村と云い、橘樹郡(現・横浜市、川崎市)の内に属していた。

     

    (注二)子安通一丁目

    訪問した時にも、漁師の町を醸し出しており、町の裏は運河になっており、釣り小舟が停泊していた。昼過ぎだったが年長者の漁師が網を繕いでいる風景を目した。

     

    横浜・子安通りに見る「浅間神社」

     子安の浅間神社の最寄り駅は、京浜急行の「子安駅」が一番近いようである。筆者の自宅からはJR横浜線の「中山駅」より四つ目、また横浜駅の一つ手前の「大口駅」で下車して 、「子安駅」まで歩くことにした。二つの駅間は、約一キロになった。訪問した日は、二月二十六日の午後である。日曜の午後の大口商店街を探索しながら、目的近くの国道十五号の「 子安通り」に辿り着いた。辿り着いたと表現したのには理由があった。大口商店街や子安駅前や子安通りで、何人かの人に「浅間神社のことを尋ねた」が満足な答えは得られなかった。 唯一、前日に見た地図上の位置(国道十五号と運河に挟まれた地区)と近い場所に、「一宮がある」また「稲荷がある」と教えてくれた。子安駅より「京浜急行」の線路を横断し、「子 安通り(十五号)」を横断し目的のブロック(地区)で七十歳位の年長に尋ねた所、「下に降りて二曲りの個所に浅間神社がある」と返事してくれた。希望が持てて明るい気持ちで、聞 いた通りに歩いて行くと、運河に至り道を遮断された。半疑ながらまた、運河の漁港で網を修理していた漁師に尋ねると、「浅間神社は知らないが、稲荷神社が子安通り寄り、ひとブロ ック入った左側の小路の奥である。」と教えてくれた。

     民家に挟まれながら小路の奥に半信半疑で辿り着くと、民家の一端が急に空が開けた。家と家の間に広がった、十平方メートル程度の敷地に「神社」を目にした。よく見ると、左側 より順に「浅間神社」「三峰神社」「鳥巣之森稲荷大明神」の三神が同一敷地に鎮座していた。地図上では「浅間神社」となっているが、地元の人の間では、「稲荷神社」の方が有名な ようであった。そのことは、三体の神社に表れていた。浅間神社と三峰神社は、石で積まれた高さ約一メートル五十センチの台座の上に置かれていた。その浅間神社の御神体は、石碑に 「浅間神社」と刻まれて昭和二十九年(千九百五十四年)十月十二日に建之されていた。また三峰神社の方は、石の社が建立されていた。それに対し「鳥巣之森稲荷大明神」は、大きな 社と石で造られた鳥居があり、狛犬が護っていた。また「奉納 天保四年(千八百三十三年) 四方佛寺洗家 江戸商人 海保半右エ門氏」と書かれた札が立っていた。このことからも 現在では「浅間神社」の記憶は遠くなり、商売の神様と云われる「稲荷神社」の存在が大きくなっていた。唯、残念なことに、「石碑」には「祭神」の名前は刻まれてなかった。多分「 コノハナサクヤ姫」の名も忘れられたのであろうか。

     

    浅間神社を後にして大口商店街を歩きながら、ふと、「浅間神社」の石碑の建之の年が気になった。昭和二十九年建之であるから、今から約五十七年も前のことになる。祭神の「コノ ハナサクヤ姫」のことが刻まれてないことは、既に当時においても、「子安」→「浅間神社」→「コノハナサクヤ姫」が同一人物のことだと云う事が不明だったのであろうか。

     

    アシツ姫

     アマテル神の天孫である「ニニキネ」。その「ニニキネ」の御后が「コノハナサクヤ姫」になる。その「コノハナサクヤ姫」のイミナ(実名)は、「アシツ姫」と云う。父は「オオ ヤマスミ」である。「オオヤマスミ」は三島大社に、「ツミハヤヱコトシロヌシ」と共に祭られている祭神であり、六代目~十代目まで続いている。また「コノハナサクヤ姫」の父であ る「オオヤマスミ」は、八代目の「オオヤマスミ」になる。母のイミナは、「ホツマツタヱ」に記述がなく不明。姉は「イワナガ姫」と云う。

     

    浅間神社の由来

     浅間神社の総本山は、静岡県富士宮宮町の「富士山本宮浅間大社」になる。また浅間神社の由来について、「神社名鑑(神社本庁)」を見ると、「全国浅間神社の総本宮として最古 の歴史」と記述しており、その創始の起源は、「孝霊天皇の御代富士山が噴火、垂仁天皇の御代に至り、富士山足の地に富士の大神を鎮座して慰め奉ったのが創始である」と記述してい る。また祭神は、「木花之佐久夜毘売命」、拝祀「天津日高日子番能邇々芸命」「大山津見神」となっている。

     

    「ホツマツタヱ」より見た「浅間神社の創始の起源」

     この「富士山本宮浅間大社」の創始の起源になった天皇であるが、「孝霊天皇」とのことになる。そして孝霊天皇の御代に、富士山が噴火したとの記述である。この富士山について は日本書紀には、一切記載されてないため、噴火の是非も不明である。それに対し「ホツマツタヱ」原典ではどうだろうかと、孝霊天皇の御代の「三十二文、フジトアワウミミヅマアヤ (富士と淡海瑞の文)」を見ると、「ハラミの山の 良き草も ヰモトセ(五百年)前に 焼け失せし」と記述されており、「富士山であるハラミ山が、五百年前に 噴火し、良き草が 焼けて無くなった」と訳文されていた。

     

    三十二文、十四~十六

           ある日カスガに

    宣ふは    われ昔この

    絵を見れど  あてなで高く

    これを棄つ  今山沢の

    絵合わせは  割札合わす

    良き兆    ハラミの山の

    良き草も   五百年前に

    焼け失せし  種も再び

    成る兆   

     

     この「ハラミ山が、五百年前に 噴火し」との訳文のことであるが、孝霊天皇の天つ日嗣は、天鈴暦では、「①天鈴四百二十八年」になる。そして「ハラミ山が、五百年前に 噴火 し」の訳文は、孝霊天皇の②二十五年であり、天鈴暦では③四百五十二年のこととなる。そうすると、ハラミ山の噴火した年代は、先ほどの③四百五十二年より④五百年を差し引くと、 差は、⑤▲四十八年となる。天鈴暦は、天鈴暦の⑥二十一年より始まるため、⑤▲四十八年前より天鈴暦⑥二十一年を差し引くと、天鈴暦の前の▲六十八年のことになる。このように「 富士山本宮浅間大社」の創始の起源になった「孝霊天皇の御代に富士山が噴火した」との訳文は、「ホツマツタヱ」には記述がなかった。記述されていた「富士山(ハラミヤマ)の噴火 」は、「孝霊天皇の②二十五年」から遡ること、五百年前の噴火のことであった。この時期は、スス暦の末期になる。このスス暦の末期の噴火から逆に推論すると、「富士山本宮浅間大 社」の創始の起源の記述は、「ホツマツタヱ」を参考にしたことも伺える。そのことは、「ハラミ山が、五百年前に 噴火し」との文章から「五百年前に」の文章を削除すると、「ハラ ミ山が、噴火し」となる。すると、「富士山本宮浅間大社」の創始の起源の記述に似てくる。

     

    アシツ姫は、なぜに浅間神社の祭神になったのか

     先にも述べたが、「富士山本宮浅間大社」の由緒を見ると、祭神は「木花之佐久夜毘売命」、拝祀「天津日高日子番能邇々芸命」「大山津見神」となっている。それに対し「ホツマ ツタヱ」の表記はヲシテ(神代文字の一種)のため、片仮名で「コノハナサクヤ姫」「ニニキネ」「オオヤマツミ」と表記することになる。そして「コノハナサクヤ姫」が、浅間神社の 祭神なられた理由は(六)三つ子の生まれの項、(九)高千穂峰、浅間神、子安神の項で、詳しく述べることになる。お楽しみに。

     

    (一)アシツ姫とニニキネの出会い、婚約

     二人の出会いは、父である八代目(注三)の「オオヤマスミ」が、「ニニキネ」よりコヱ国の「サカオリの宮」を預かっていた頃である。コヱ国のハラミ山の裾野田を巡幸された「 ニニキネ」は、民に灌漑の必要性を説かれて、「二十年経つと湖底に砂等が溜まるため、浚えた方がいい」と指導されるや、「サカオリの 宮に入った」。その夜の「サカオリの宮」で は、「オオヤマスミ」が「ニニキネ」の一行を慰労されて、酒や山海の幸を用意されて、夜遅くまでもて成された。「コノハナサクヤ姫」も「オオヤマスミ」の娘として、「ニニキネ」 の側らに座り慰労したことであろう。「ニニキネ」は聡明で美系だった「アシツ姫」を気に入られて、その夜「御后の契りを結ばれたのであった」と「ホツマツタヱ」は記述している。 時は、八代目のオオヤマスミの御世であり、紀元前約九百四十年頃である。

     

    二十四文、四十三、四、五

    ウツロヰが  淡海浚え

    ・(中略)・ ・・・・・

    二十年に   浚えなせとて

    サカオリの  宮に入ります

    預かりの   オオヤマスミ(注三)が

    御饗なす   御膳捧ぐ

    アシツ姫   一夜召されて

    契り込む

     

    (二)アシツ姫の孕み

     茨城の新治に帰られた「ニニキネ」は、次の年のある日、「アシツ姫」を大切にお思いになられていた。そして「アマノコヤネ」を新治(宮)の留守役に指名され、また「カツキマ ロ」イミナ(実名)「ヤスヒコ」の「カッテ(神)」を大亀の船長に任じられて、茨城の鹿島灘を出発された。船は千葉の九十九里浜、房総半島を周って、伊豆半島の東海岸沿いにゆっ くり北上して行った。伊豆半島の先端近くの浜では、「ニニキネ」の乗った船を見つけるや、急いで、伊豆崎の「オオヤマスミ」に御幸を触れに走った。「オオヤマスミ」は、「オシヒ ト」が神上がりされた時に、「ニニキネ」が三年間も藻に服した伊豆崎の仮宮(注四)に、「ニニキネ」の一行を迎えた。「ニニキネ」の一行は船での長旅も忘れるほど、伊勢海老や金 目鯛などの伊豆名物の海の幸に目を見張った。そして並んだ豪華な御膳を頂いている時に、「オオヤマスミ」より「アシツ姫」が、「ニニキネ」の御子をご懐妊されたことを「ニニキネ 」に申し上げた。「ニニキネ」はすごく喜ばれて、伊勢の「アマテル神」にお告げしようと、旅支度をされるのであった。

     

    (注四)伊豆崎の仮宮

     江戸時代初期の朱子学者、林道春(羅山)の「神社考詳節」に、走湯権現の祭神として、「俗説伊豆権現者彦瓊瓊杵尊也、箱根権現者天忍穂耳尊也」などの記録がある。

     

    二十四文、五十一、二、三

    時に君    おほすことあり

    コヤネして  新治に留め

    勝手神して  海辺を上る

    御幸ふれ   オオヤマスミは

    伊豆崎の   仮屋(宮)に迎え

    御饗なす   膳なす時

    アシツ姫   イメ孕めりと

    申す故    伊勢に告けんと

    装ひなす 

     

    (三)ニニキネの二心

     「アシツ姫」のご懐妊に、『「ニニキネ」が喜ばれた』ことをお聞きした「アシツ姫」の母は、甘い策略を立てた。『もしかすると、姉の「イワナガ」姫も「一夜召されて 契り込 む」ことができないか』と。そして伊豆崎に出かけて、「ニニキネ」に拝謁を願った。母が申すには、『この度「アシツ姫」が召されたが、私たちの夫婦には、容姿に気品がある姉がい ます。』と申し上げた。その母の言葉に「ニニキネ」は、「アシツ姫」を召しながら、母の言葉に姉「イワナガ」姫へと心を動かされてしまった。「ニニキネ」が「イワナガ」姫を招く と、姫のその容姿に「形鋭く 眉目悪しく」と感じられて、「イワナガ」姫への「その気」がなくなってしまった。そして、ここは優雅で上品な「アシツ姫」と申された。 このことに 気付いた「オオヤマスミ」は、妻を叱りつけた。『どんな理由があっても、「イワナガ」姫を「ニニキネ」に、差し出してはいけない』と云われ、「急いで帰れ」と申されて、追いやら れた。

     

    二十四文、五十三、四、五、六

    時にその母

    姉連れて   仮屋(宮)に至り

    目見ゑ乞ふ  召せば申さく

    妹さえ    我が慈しの

    姉ありと   言葉飾れば

    二心     姉イワナガお

    召せばその  形鋭く

    眉目悪しく  枯に気も消し

    雅変え    やはりアシツと

    宣えば    父驚きて

    妻叱る    かくあらんとて

    出ださぬお  急ぎ帰れと

    追ひやれば 

     

    (四)アシツ姫を「母、姉恨む」

     母と「イワナガ」姫は、「ニニキネ」の御后となった「アシツ姫」を恨み、妹を御后より引き下ろそうと策略し、「ニニキネ」の下女を虜にして、「ニニキネ」の枕元で、「アシツ 姫のお腹の子は、ニニキネの御子ではない」と囁くよう命じた。その策略が決行されたのは、三重県鈴鹿市寺家三の白子屋(宮)であった。この下女の風聞が聞こえるや、「ニニキネ」 は疑いを持たれて、旅の宿にされていた白子屋(宮)を、夜中に旅立ちされて伊勢に帰られた。

     

    二十四文、五十六、七

           母姉恨み

    下女して   妹落さん

    仇枕     遂に偽り

    白子屋で   君に聞ゆる

    疑ひに    旅舎お夜半に

    立ち出でて  伊勢に帰ます

     

    (五)白子桜は、サカオリ宮の桜だった

     白子宮に同行していた「アシツ姫」は夜半に寝覚めて、隣りで寝ていた「ニニキネ」がいないのに気付き、慌てて「ニニキネ」の後を追った。だが、松坂に到着するや役人に行く道 を堰き止められた「アシツ姫」は、悲しみに傷ついた心で、白子宮に引き返した。そして桜の苗木を準備されて誓われた。『他人の幸せや長所を羨み妬むことは我が恥。この恥を晴らし ますよ。そしてこの桜を見て下さい。昔、曾祖父さんの六代目のサクラウチが、アマテル神に捧げて、アマテル神の御手により、サカオリ宮の「東に桜植ゑ 大内宮」(六文、二十九)

    に、曾祖父とアマテル神が伴に植ゑた桜の苗ですよ。そしてこの桜の苗に誓って夫婦(伊勢)の道を全うできるか、推し計られる桜になるでしょう。。そして桜の心があれば、私は孕 むでしょう。子種が「ニニキネ」の皇子でないとわかれば、桜の花が萎むでしょう。子種が「ニニキネ」の皇子であれば、皇子が産まれる時に、花を咲かすでしょう』と、この桜の苗木 に誓われて、白子宮に桜の木を植ゑられ、ここを「白子宮の桜の里」と名付けられた。

     

    二十四文、五十八~六十一

    姫一人    寝覚めて行けば

    松坂に    せき止められ

    白子宮    帰り誓って

    「妬まれの  我が恥すすげ

    この桜    昔曾祖父

    サクラ大人  この花捧く

    大御神    大内に植えて

    伊勢の道   成る離るお

    計ります   サクライあらば

    我がハラミ  仇種ならば

    花しぼめ   正種ならば

    産む時に   咲け」と誓ひて

    ここに植ゑ  里に変えます

     

    (六)三つ子の生まれ

     「アシツ姫」は、孕みて十二カ月が過ぎたミナ月(六月)の初日、三つ子を御産された。その胎児を包んでいた胎盤の文様は、三つ子が生まれる度にも、梅、桜、櫨花と変わって行 った。この変わりゆく胞衣の姿を怪しみ、「ニニキネ」に報告するが、初めてなことであり返事がなかった。「アシツ姫」は「ニニキネ」が返事をしないことに疑念を抱き、とうとう、 ハラミ山の裾野に戸口を塞いだ室を作り、周りには柴の垣根を作り、「アシツ姫」と三人の御子は、正真正銘のあることの誓いをして、無戸室の中に居座った。当時、「くがたち(注五 )」が存在したか不明であるが、三人の父親が「ニニキネ」であるなら滅びんと、また仇種ならば滅びるだろうと、アシツ姫は無謀にも、無戸室に火を付けて焼けば、三人の皇子は、熱 がり這い出ようとした。「峰の竜 水吐きかけて 一人ずつ 導き御子お 這ひ出たす」との文章があるが、時として「ホツマツタヱ」に現れる文章の形式であるが、ここでは古代人の 霊力と訳し、三人の皇子はこの霊力に助けられた。一方「アシツ姫」は、付き添いの諸が驚き、慌てて火を消して姫を引き出した。そして、御輿に「アシツ姫」を乗せて、サカオリの宮 に送り届けた。そのことは、伊勢に帰っていた「ニニキネ」に報告された。

     

    二十四文、六十一、二、三、四、五

    十二満ちて  ミナ月初日

    三つ子産む  その胞衣の紋

    ムメサクラ  ウ花と変わり

    怪しめば   君に告ぐれど

    返えなくて  姫は裾野に

    無戸室し   周りに柴の

    垣なして   母子誓ひて

    中にあり   仇種ならば

    滅びんと   火を付け焼けば

    熱がりて   這ひ出でんとす

    峰の竜    水吐きかけて

    一人ずつ   導き御子お

    這ひ出たす  諸と驚き

    火を消して  姫引き出たし

    御輿もて   宮に送りて

    伊勢に告ぐ

     

    (注五)くか‐たち【誓=湯】

    古代の裁判における真偽判定法。正邪を判断する場合、神に誓って熱湯の中に手を入れさせ、正の手はただれないが、邪の手はただれるとした。

     

    (七)ニニキネ、三人の皇子に会いにサカオリ宮へ

     「アシツ姫」が孕まれた時に植えられた「白子の桜」も、三人の皇子が生まれた日に咲いた桜の花が、今日もずっと咲き続けている。アマテル神の孫の「ニニキネ」は、伊勢より鴨 船を速く操作して、遠州灘を通過して駿河湾の興津の港に停泊された。そして、「ニニキネ」の到着の使いを走らせて、「アシツ姫」が待つ、サカオリの宮に報告された。だが「アシツ 姫」の心は、白子宮で下女の風聞を信じ、自分を信じなかった「ニニキネ」を恨み、掛け布団を被り、「ニニキネ」の問いにも、答えなかった。返えことすれば、君はしばらく「アシツ 姫」を思いながら、和歌の歌を好んで詠まれた。この「ニニキネ」の歌は、勅使人の「オキヒコ」から「アシツ姫」に届けられた。「アシツ姫」は、「ニニキネ」の和歌を戴かれた。「 沖の波になびく藻は、浜辺には寄れどもさすらっている。私も沖の藻と同じように、アシツ姫の寝床にも近づくことも、能わないようだ。なあ、浜つ千鳥よ」。今まで「ニニキネ」を恨 んで涙したが、この「ニニキネ」の「アシツ姫」の元に帰りたい一心の和歌に、「アシツ姫」の心も氷解し、気もそぞろに、下履きも履くのを忘れて、裸足のまま、裾野を走に走り、興 津浜に辿り着ていた。その「アシツ姫」の迎えに、「ニニキネ」の君は、大いに喜ばれて、御輿し並べて大宮に出発された。道中まで「ヤマスミ」と宮中の大勢が、迎えに出てくれてお り、三所では「スワ」が御饗を準備してくれており、その足で須走を通りサカオリ宮に入られた。」

     

     

    二十四文、六十五~七十

           白子の桜

    生まれ日に  咲きて絶えねば

    天皇孫    鴨船速く

    飛はさせて  興津に着けば

    キジ飛びて  サカオリに告ぐ

    姫恨み    衾(注六)被りて

    答えなし   返えことすれば

    君しばし   思ひて和歌の

    歌見染め   オキヒコおして

    サオシカド  姫頂きて

    「沖つ藻は  辺には寄れとも

    さ寝床も   能わぬかもよ

    浜つ千鳥よ」

    この歌に   恨みのナンタ

    解け落ちて  気も(注七)に応えの

    徒裸足    裾野走りて

    興津浜    君喜びて

    興し並へ   行く大宮は

    ヤマスミの  道迎えして

    三所に    スワが御饗は

    須走て    サカオリ宮に

    入りまして

     

    (注六)衾・ふすま

    布などで長方形に作り、寝るときにからだに掛ける夜具。綿を入れるのを普通とするが、袖や襟を加えたものもある。現在の掛け布団にあたる

     

    (注七)

    気(き)も漫(そぞ)ろ

     ある事に心を奪われて落ち着かないさま。そわそわするさま。

     

    (八)ムメヒト、サクラギ、ウツキネと名付く

     サカオリの宮に入られた、「ニニキネ」は、神々に申された。「皆々の神よ、これから発する言葉を良く聞いてくれ。我は先に、髪に花を飾った影が通ったのを見た。この影は胞衣 の姿であり、イミナ(実名)を持っていた。初めに照り輝いた名は、「ホノアカリ」、イミナは「ムメヒト」。次の子は、名も「ホノススミ・サクラギ」で、末は名も「ヒコホオデミ」 のイミナは「ウツギネ」と名付けた。また「アシツ姫」が三つ子を産む日より、白子宮の桜の花は毎日咲いて、花が絶えたことがない。故に、「アシツ姫」のことを、これから「コノハ ナサクヤ姫」と呼ぼうと云われ、「ニニキネ」によって宮造りされた宮に、「コノハナサクヤ姫」が住まわせられた。孕まれた「コノハナサクヤ姫」のお腹の神である夏目の神は、胞衣 を成されて、三つ子を成熟させられた。そして、生まれた三つ子には、「コノハナサクヤ姫」が自らの母乳を与えて、三人の皇子を養い育てられた。このような「コノハナサクヤ姫」の 姿を見て、諸神は「子を安らかに産む神」の意味を持つ「子安の神」と呼んで敬った。故に「子安の神」は、今でも民間伝承として各地で崇拝されて祭られるようになった。

     

     

    二十四文、七十、一、二、三

           諸神聞けよ

    われ先に   花おかざして

    影通る    これ胞衣の絞

    イミナなす  初に照る名は

    ホノアカリ  イミナ、ムメヒト

    次の子は   名もホノススミ

    サクラギぞ  末は名もヒコ

    ホオデミの  イミナ、ウツギネ

    また姫は   子お産む日より

    花絶えす   故にコノハナ

    サクヤ姫   宮造りして

    御座します  ナツメの神が

    胞衣なす   母の乳お用て

    日足します  子安の神ぞ

     

    (九)高千穂峰、浅間神、子安神

     時が経って、「ニニキネ」と「コノハナニサクヤ姫」も、神上がりされる頃になってきた。「ニニキネ」は兵庫県の室津の港より、亀(手漕ぎ船)に乗り、鹿児島に行かれ、鹿児島 や曽於の高千穂では、西に沈む夕日を眺められ、心を落ちつけられた。また朝には高千穂の朝日の光に向かわれ、「コノハナサクヤ姫」を思われた。「ニニキネ」と「コノハナサクヤ姫 」。この二人は相対する日向ふ国(日向)とホツマ国で、神上がりされることを選ばれた。そして「コノハナサクヤ姫」は、朝のあいだに沈む月を「ニニキネ」に見立てられて、高千穂 峰(ハラミ山)に入られて「神」となられた。諸神は「コノハナサクヤ姫」を、「朝のあいだに神上がりされた神」の浅間神と称えた。また、「生まれた三つ子には、コノハナサクヤ姫 が自らの母乳を与えて、三人の皇子を養い育てた神」として、子安神と呼び称えた。そして「コノハナサクヤ姫」といつも夫婦追随された「イヅの神」は、朝日に向かう高千穂の峰(南 九州の山)にて「神」となられた。

     

    二十六文、三十九、四十一、二、三

           室津に亀の

    向かい待つ

    ・・・・・ ・・・・・・

           亀に乗り行く

    鹿児島や   曽於高千穂の

    日に辞む   朝は朝日の

    光に向かふ  日(に)向ふ国と

    ホツマ国   姫は浅間に

    辞む月    高千穂峰に入り

    神となる   浅間の神や

    子安神    かねて会う日の

    イヅの神   高千穂の峰の

    神となる

     

    白子の不断桜に、なぜに桜が選ばれたのか

     既に説明した本文では、『昔、曾祖父さんの六代目のサクラウチが、アマテル神に捧げて、アマテル神の御手により、サカオリ宮の「東に桜植ゑ 大内宮」(六文、二十九)に、曾 祖父とアマテル神が、伴に植ゑられた桜の苗』を説明していた。だが、六文、二十九の本来の文章は、「サ(南)の殿に 橘植ゑて 香久の宮に 東に桜植ゑ 大内宮」と記述している 。この文章からすると、白子宮では、「橘」と「桜」のどちらを植ゑても良かった筈であるが、なぜか、桜が植ゑられた。その理由を考えて見ると、

    ①一番大きい理由は、曾祖父のイミナは、谷の「サクラウチ」であるところから、桜を植ゑた。この意見には違和感がないようだ。

    ②白子宮が大内宮と同格の宮として、桜を植ゑえられた。

    ③「花絶えす」と記述しているところから、一年中咲く花は、桜が該当した。余談であるが、数年前に、鈴鹿の白子観音に問い合わせた所、「十月から七月の十カ月間に渡り、どこか の枝で咲いている。」とお聞きしたと記憶している。

     

    横浜の不断桜?

     横浜でも開花時期が長い桜があった。十二月~四月にかけて、小さい花を疎らに咲かせる桜であった。この桜の名はわかってないが、「十日桜」のように白い小さな花をつけていた 。この桜の特長は、「枝が三本に分かれている」ことである。土から上にスラット幹が伸びて、最初の枝に辿り着く。この最初の枝の個所が、三本の枝に分かれて伸びていた。この桜を 発見した瞬間、「コノハナサクヤ姫」の三人の皇子のことを思い出した。この桜は、ひょっとして、「コノハナサクヤ姫」が植ゑた「白子宮の不断桜」にうり二つ似では?と勝手に想像 した。枝が三方向に延び、三人の皇子の「ムメヒト」「サクラギ」「ウツギネ」を思わせる「桜枝」であった。何とも意味深な深みを持たせる「横浜の三つ枝の寒桜」であった。

     

    Ⅱ、ホツマの神々の年代

     

    コノハナサクヤ姫編

     

    コノハナサクヤ姫の生涯年齢

     ハラミ山・富士山の祭神である「コノハナサクヤ姫」は、八代目の「オオヤマスミ」の姫として生まれた。その記述は、「ホツマツタヱ」の二十四文に集中して記述されている。こ の二十四文は、「コヱ国ハラミ山の文」になり、①「コノハナサクヤ姫」と「ニニキネ」の出会い、②三人の皇子の誕生、③長寿の薬草も千代見草、④ハラカラの語源、⑤「オシホミ」 の崩御を記述する文である。前置きが長くなったが、「コノハナサクヤ姫」の生涯年齢を推定するため、別表のように「アシツ姫」と「ニニキネ」の出会いから、「コノハナサクヤ姫の 年表」を作成した。「アシツ姫」が「ニニキネ」に、「一夜召されて 契り込む」頃は、二十四文の①紀元前二百五十七年頃である。また「(コノハナサクヤ)姫は浅間に 辞む月 高 千穂峰に入り 神となる」の頃が二十六文であり、②紀元前二百二十四年の頃になる。この二つの年代の差は、①紀元前二百五十七年頃より、②紀元前二百二十四年を差し引くと、差は 三十三年になる。この計算式は、「コノハナサクヤ姫」に関する直接の年代の計算式でないが、前後のスス暦より算出した西暦であり、古代の不明な数字としては、「コノハナサクヤ姫 」の年齢に適用しても、差支えないようだ。すると、「コノハナサクヤ姫」の生涯年齢は、約三十三年+αと考えられた。そこで「コノハナサクヤ姫」の結婚の年齢を十六歳だったと仮定 すると、約三十三年に十六歳を加算すると、約四十九歳+αの頃まで長生きされたようだ。

     

     

    コノハナサクヤ姫の年表 (吉田説の最新年代に更新済。)

    ホツマ 文     スス暦、内容               大きい暦数 スス暦 西暦 

    二十四文、六   時29鈴 500の1枝 38穂)如月 朔日      1710098   280  -256 

    二十四文、四十四 アシツヒメ ヒトヨメサレテ チキリコム   

    二十四文、五十三 アシツヒメ イメハラメリト モウスユエ   

    二十四文、五十五 ミヤビカエ ヤハリアシツト ノタマエバ   

    二十四文、七十二 コオウムヒヨリ ハナタエス ユエニコノハナ サクヤヒメ   

    二十四文、七十三 ウブキナス ハハノチオモテ ヒタシマス コヤスノカミゾ   

    二十五文、一   32鈴 23穂ツウエ ウ月初          1860023   292  -244 

    二十六文、一   36鈴 34枝38穂 弥生望           2102078   313  -223 

    二十六文、四十二 ホツマクニ ヒメハアサマニ イナムツキ タカチネニイリ カミトナル    

    二十七文、二十二 時42鈴 850枝 極年ネウト ハ月四日     2511060   348  -188

     

    (つづく)

    (注八)参考文献

         インターネットの「大辞林」辞書を使用した。

     

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     最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。

     

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