日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立

日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立



日本の起源(新紀年)

 丹後半島の天の眞名井(後に、伊勢神宮に移動)より始まって日本の起源。その元は、富士山の天の原のハラ(酒折の宮)で誕生された天照大御神より日本の紀年が始まっていた。だが、当時の古代暦であるスス暦を、飛鳥時代、奈良時代、平安時代の官僚は解読できなかった。そのため、イージーなアスス暦、日本書紀暦の初めの頃の神武天皇を日本の起源(紀年)としていた。このことを知る日本人は、0.001%も満たない。だが、なぜか、伊勢には、天照大御神、豊受神をまつられている内宮。外宮が存在する。これが、日本の起源(紀年)を示す根拠である。(ホツマツタヱの解読結果より)

本名 ホツマツタヱで読み解く 日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立 改_五

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本書の説明

 本書より一部抜粋し説明すると、

スス暦 (アマテル神から神武天皇の親父までの暦)

 スス暦は、鈴枝穂、大きい暦数字で記述され、最初の記述は、4- 7「二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に」になる。鈴枝穂の最初の記述は、4-24「二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日」になる。そして、鈴枝穂の記述の間に、神名(古代の人名)が記述される。だが、人が何歳まで生きたかは記述がないが、人名の前後の鈴枝穂の記述を抜粋することで、人が活躍した年数が判明できる。右図は、アマテル神の臣の「オオヤマスミの家系」を示す。だが、27鈴を境に年代が極端に違っていた。

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スス暦を解読すると、現在の一代当たり30年に対し古代でも平均28年の在位年数が隠れていた。                                                                          

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アスス暦 (神武天皇から12代景行天皇までの暦)

 アスス暦の初年はアスス21穂になる。スス暦の最後は50鈴1000枝20穂であり、翌年より暦が変わりアスス21穂になる。アスス暦の最後は、アスス843穂である。その間、初代神武天皇から12代景行天皇まで続く。だが、この間の天皇の歳は、100歳以上が多く、異常な歳の天皇の御世である。右図は、天皇の歳の推移を示すが、近代人と違う歳のグラフである。

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アスス暦、日本書紀暦

 2代以降~32代天皇の薨御歳を日本書紀より抜粋した。すると、アスス暦では不明だった天皇の薨御歳が変化していた。推移を見ると、17代履中天皇前後により、前は平均104歳、後は平均64歳と短命になっていた。また、15代天皇の御世にワニ博士が来日していた。日本書紀には、暦が途中で改暦された記録はないが、実態は17代天皇より改暦されていた。このことを述べる歴史学者は皆無のようである。

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新紀年(上の線)と紀年(下の線)との年代線の対比

 現在の日本の紀年とは、神武天皇元年の紀元前660年とされる(下の線)。だが、日本の本来の新紀年は、伊勢神宮に祭られている日の神(アマテル神))が妥当であろう。そこで、ホツマツタヱのスス暦、アスス暦、および、日本書紀暦を上のように解読すると、アマテル神の生まれは、紀元前330年になりこの年が日本の新紀年に相応しい年になる。そのことは、下図の上の線が本質を云い当てている。それに対し下の線は、人的に作図された線のようだ。 

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新紀年の設定までの歴史的な経緯

 日本の紀元の歴史は、神武天皇より始まったとされた。その神武元年の西暦年は、日本書紀には記述されてない。だが、近代では、神武元年が紀元前660年とされている。その紀元前660年は行き成り西暦年を付与されたのでなく、一旦、シナ王朝の年代である「此御ノ元年。異朝ニテハ周ノ恵王ノ十七年ニ當レリ(日本王代一覧巻之一より引用))」に置き換えられ、その後、明治になり西暦に変換されていた。それにしても、他国と比べると、天皇の人数の割には、神武天皇の初年が紀元前660年と古代過ぎた。この指摘は、日本書紀暦が、紀年(超暦)と云われる元になっていた。

 だが、この紀年の問題について、正解を出した人はいなかった。ある人は、日本書紀は「物語」と呼び、ある人は二倍暦と呼んだが、その根拠を国民は納得してないようだ。そのため、戦後は、遺跡などの埋蔵物に根拠を求めた。その根拠は、現代では「炭素測定法」により、炭素の半減期より年代を求めるのが主流となって来た。だが、欠点があった。半減期より年数は求められても、何年何月何日までは求めることができないようである。それは、日本に残された古文献に記載された対象物が発見されないため、そのものの炭素の半減期が調査できないことが原因でもあり、もどかしかった。

 この度、アマテル神の御世が記述される古文献ホツマツタヱの数多くの暦日より、暦法の基になる「古代の一日の単位」を現在の一日の単位と比較できる文章が発見できた。また、神武天皇以降の天皇の御世の元暦を推測できる資料として、アマテル神の子孫であるフキアエズ(神武天皇の父)のスス暦の御世と神武天皇のアスス暦の御世に生きた第六代大物主のワニヒコの年齢は192歳と高寿命が継続され、その傾向は神武天皇の寿命も127歳と高齢が引き継がれていた。この現象の原因は、スス暦のマサカキの数え(時間)が16穂に経過すると一日と数えていた。

 だが、ニニキネの御世より16穂の経過を二日の数え(日付)に変更されていたのが原因であった。このため、神武天皇以降は、二倍暦になっていた。この現象が、後世に「紀年」と呼ばれていた。その後、15代応神天皇の御世に太陰太陽暦が渡来するが、その暦がどの天皇より採用されたか、日本書紀には未記述であった。

 そのため、明治5年に太陽暦の改訂に参加した那珂道世は、「上世年紀考」の中で、「神武天皇らの天皇の在位年数、寿命がシナの王朝と比較しても二倍である」と指摘しており、「書紀紀元が著しく実際よりも古く持って行かれていると云ふ判定は、今日一般識者の常識となって居り、且は又学会に於いても今なほ定説的な見解である。・・(後略)・・。」と記述していた。だが、日本書紀暦をどの天皇より遡って二倍暦⇒一倍暦に改訂すれば良いかまでは掴めてなかった。

 江戸時代の本居宣長は、古文献に記述のままを主張した。そのため、江戸時代の日本王代一覧巻之一に記載されていた「異朝ニテハ周ノ恵王ノ十七年ニ當レり」を単純に西暦に換算した神武天皇元年が紀元前660年として、そのまま残ってしまった。もし、本居宣長、那珂道世がホツマツタヱを知り得えていたら、日本の起源も紀元前660年でなく⇒紀元前133年になっていただろう。

 また、紀年の原因を発見しづらくしていた要因に、遣隋使、遣唐使(600年~907年)の学生僧がホツマツタヱを書き改め日本書紀を編纂した日本書紀暦は、年月日がすべて干支の裏付けがあった。そのため、一般の国民は日本書紀の前半の暦が紀年と云う「おかしな」暦と思っていても、真の原因を学術的にクリアにすることができなかった。更に、指摘できない他要因の一つには、日本書紀以降に書かれた文献の多くは、自然現象の項目が割愛されたり、書かれているが年月日が未記述であったなどで、後世の人の検証を阻んでいた。

 また、現実の日本書紀暦は、太陰太陽暦であることは判明していたが、干支の継続を基準としたため、日本書紀暦の紀年の原因が掴めず、多くの学者、歴史家もなす総べを掴めなかった。そのため、2014年にホツマ暦を解読し、更に、日本史の原点である「日本の紀元」を調べようと国会図書館のデジタルコレクションより、紀元前、紀元0年~1600年まで検索して見た。また、遣隋使~遣唐使(600年~907年)がシナに特使して派遣されていたことを知っており、日本とシナの内容が併記された資料はないかと同時に調べた。すると、日本書紀暦とシナ暦を対比した文献が検索された。それは、1094年に編纂された扶桑略記があった。その中には、「神武天皇五十七年、相當周定王三年、九月十四日子時、老子生歳。【迦葉菩薩、彼〇老子7】」が書かれてあった。このことより、神武天皇元年がシナ暦の年数に変換され、後世に、西暦に変換されたことがわかって来た。

 更に、各天皇の誕生年、立皇太子年、即位年、在位年数、薨御歳を初代~33代まで調べて見ると、日本書紀暦の初代神武天皇~16代仁徳天皇までが紀年と云う太陰太陽暦。そして、17代履中天皇以降の天皇が改暦された通常の太陰太陽暦の暦であることが判明した。このことは、多くの学者、歴史家に見逃されていたようだ。もし、江戸時代に指摘されれば、日本史の古代の年代も変わっていた。

 振り返って見ると、この度、2014年2月12日(8年前)に、アマテル神の御世の暦、日本書紀の前半の暦の紀年の原因を解明できたのは、ホツマツタヱの文章が残されていたからである。また、ホツマツタヱは、景行天皇の御世に阿波宮に奉納されていた。また、ホツマツタヱの文字であるヲシテも斉明天皇の御世には使用されていたと推測されるが、710年の平城京への遷都時は旧の藤原京の留守居役の物部系の大臣(石上麻呂・いそのかみのまろ)と共に封印されたようだ。

 反対に新都の平城京に遷都(710年)した藤原不比等は、その後、日本書紀を漢字文献で編纂していたようだ。年代のその後の経過が、ホツマツタヱと日本書紀は同じ年代である所から、シナに派遣された若い僧が、ヲシテと漢文を駆使して日本書紀をまとめたと推定されるようだ。ご参考:空海は、当時、三韓との往来により二ヵ国語を会話で来たと云う。

 だが、若い僧も暦、暦法の知識がなかったと思われ、ホツマツタヱの年代をシナの年代に均等に当てはめたため、日本書紀の暦は紀年のまま。そして、シナ暦の相対する日本書紀暦は、後世の学者が太陰太陽暦の普通暦と誤認する結果になっていた。

 最も恥ずべきことは、日本書紀の前半の暦が紀年であったことである。また、途中で改訂されないで、現在でも日本書紀暦が存続している点である。

 

当該本のご紹介

発売日2023年10月1日

A5 約350頁

本代

 18,500円(本 の販売代金)

  8,000円(CDの販売代金)

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