神武天皇の大和討ち(俗に、神武東征)

                                                             

      関連ホームページ 「神武天皇の生まれ地は宮崎でなく、 京都の下賀茂神社 または 滋賀の多賀大社であった」をクリックして読む


ホツマヱの件名

紀元前2世紀の最後に、タケヒトの大和討ち

世間では神武東征と云われるが、その実態は古代大阪の地形が大きく関係していた。 

 その神武東征をホツマツタヱ、日本書紀の年代では、紀元前667年としているが、この紀元前667年頃を含む大阪の古地図には、ホツマツタヱに記述される「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」の風景は無かった。この風景が出現するのは、紀元前105年頃の古地図であり、現「大阪城がある上町半島の先端」にある難波の御津(三津)になる。

 もう少し詳しく「タケヒトの大和討ち」の頃の古地図を見ると、古代大阪の中央部に「河内湖」が存在し、古地図では紀元前105年頃、解読ホツマ暦では、紀元前136年(1倍暦)~紀元前133年(1倍暦)になる。神武天皇の軍は、ナガスネの軍と河内湖の地形に侵攻を阻まれ八尾に退却する羽目になった。そして、紀伊半島の熊野村を迂回し橿原宮で初年を迎えられた。このことから、アスス暦、日本書紀暦の紀年の年代で述べられる紀元前667年(2倍暦)~紀元前660年(2倍暦)の頃の年代は地形的に否定された。

神武天皇の東征年表

 アスス暦、日本書紀暦紀年、解読アスス暦、古地図

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Ⅱ、タケヒトの大和討ち

一、大和討ちと長暦(2倍暦)

 現「アスス暦」では、「タケヒト」の大和討ち(ホツマツタヱ)の開始年代は、「アスス・キミヱ(51穂)十月三日 天御子自ら 諸率きて」~「年サナト(58穂) 橿原宮の 初年と 御代カンタケの 大いなるかな」になる。西暦で表現すると、紀元前667年(2倍暦)~紀元前660年(2倍暦)になる。そして、タケヒトの橿原宮の初年(アスス58穂、紀元前660年)の二月十一日が、その後の「日本建国の日」になった。

 それにしても、「カンタケ(神武天皇)」の初年の紀元前660年(2倍暦)については、先にも述べたが、『現在では、異常に古い年代と云われ、「日本書紀の前半部分が歴史的に正しいものではないことは、すでに定説となっていると思われます。」』とされ、その原因であるが、長暦(2倍暦)のためとされる。では、本当に長暦(2倍暦)が、犯人か否かである。

 では、なぜ①「日本書紀の前半部分が歴史的に正しいものではない」との説が消えないかである。②原因は、長暦(2倍暦)に起因することとは云え、そのことを裏付ける「要因」について、更に検討を約30年重ねて見た結果、アスス暦、日本書紀暦は、初代神武天皇~16代仁徳天皇までは、長暦(2倍暦)、太陰非太陽暦、俗称によると2倍暦であった。そして、17代履中天皇(399年)以降の天皇は太陰太陽暦、俗称では1倍暦であった。

 このことより、カンタケ(神武天皇)」の初年の紀元前660年について、暦が改定された399年を起点にして、2倍暦から1倍暦に改定し、タケヒトの大和討ちの開始年代までの遡り年数を再計算し直すと、タケヒトの大和討ち開始のアスス51穂は、紀元前667年(2倍暦)⇒紀元前136年(1倍暦)、また、カンタケ(神武天皇)が奈良の橿原で都を開かれた初年(アスス58穂)は、紀元前660年(2倍暦)⇒紀元前2世紀の紀元前133年(1倍暦)であった。このことを知るには、やはり「ホツマツタヱ」の「タケヒトの大和討ち」を読んで頂けたら幸いです。

ニ、タケヒトの大和討ちと考古学の年代

(一)大和討ち、前夜

 「タケヒト」の大和討ち前夜、大和討ちは、「ホツマツタヱ」の二十七アヤ(文)、二十九アヤ(文)になる。その「タケヒト」の大和討ちのストーリーは、歴史ファンであれば、耳に蛸であろう。また、世間では「タケヒト」は宮崎出身と思われている。そこで、この項では、「タケヒトの大和討ちの前夜」を語ることで、「タケヒト」の出身を明らかにしたい。(世間では、宮崎・高千穂の「岩戸神社」が出身地と云われているが、「ホツマツタヱ」には、そのような記述ないようだ。)

 【二十七アヤ(文)、カモヒト、タケヒトのアヤ(文)の訳文】

 筑紫の勅使(オシカ)より御幸して、筑紫の民に「天君」の施しを与えてくれるよう、「タケヒト」の父君である「御祖天君」の「カモヒト(フキアワセズ)」に求めてきた。このことがあって、「天君」は、「ヰツセ(父・カモヒト、母・ヤセ姫)」に、言葉を発せられた。『「ヰツセ」は、多賀の親王(オキミ)、オシクモは左臣、クシミカタマは右臣として、多賀宮の政をやってくれ』、そして『タネコ(ワカヒコの孫)は、皇子「タケヒト」の相手をしたり、世話をしたりしてくれ。タケヒトも五歳である。』、『またイワクラ(ミホヒコの多くの子供の一人)は、多賀の宮の局の面倒を見てくれ。』と云い残し、「カモヒトの天君」は、現在の兵庫県南西部の播磨灘のたつの市御津町室津(岬の港)より大亀船を召して、筑紫に御幸のため出発された。

 筑紫では、鵜戸の浜(宮崎県)を経由されて、錦江湾(鹿児島県)の奥の隼人町の海岸に上陸された「カモヒト」天君は、鹿児島の高千穂峰の山麓にあった「鹿児島宮」に行かれて、筑紫を治める県主三十二神に会われた。そして「カモヒト」の天君は、「(二十五アヤ(文)、十八、十九)昔、「ニニキネ」の天君が、筑紫を広く巡り、御狩(地方巡視)されながら、井堰や堤を作って、新しく田を作られた」例に倣い、県主三十二神のご要望(御狩)をお聞きになり、井堰や堤や新田を見て周り、壊れた所を直し、絶えた所を継ぎ足された。これにより筑紫が良く治まった。この御幸の成せる業も別雷の神(ニニキネ)が遺された功績によるところが大きい。」とホツマツタヱは記述している。

 「カモヒト」の天君の十年の政も、民に浸透して、生業も賑わいて、稲狩りの祭りには「天君」を慕って万歳の和歌を歌うものあった。その「カモヒト」の天君の御心は、鹿児島宮の宮崎(ミヤサキ)で大いに安堵されていたが、ここ十年の年月も「カモヒト」の天君の身体の老いも隠すことができなくなった。この様子が、多賀の宮の「タケヒト皇子」の元に「急使(ハヤキジ)」で告げられた。驚かれた「タケヒト」、「タネコ(タケヒトの守役)」は、多賀を出発されて、西宮より大鰐船に乗って、鵜戸の浜を経由して、宮崎宮(鹿児島県大隅半島の吾平町)に行かれた。御祖天君の勅。『・・(中略)・・「タケヒト」は、世の御親なり。・・(中略)・・「タケヒト」は歳十五になれば成人し、我が代わりをしてくれ。そして「タネコ」が、若い「タケヒト」を助けて治めてくれ。その君の印として、「オモヒト天君」より「タケヒト」に、白矢のヲシテを授け、また国を治めるための「百の典」を「タネコ」に譲られた。そして「鏡」「八重垣剣」は、「カモヒト」が多賀の宮を出発される以前に、「オシクモ」「ワニヒコ」に、授けられて、「姫」が預かりて別雷宮(上賀茂神社)に納め置かれていた。

 【二十九アヤ(文)の訳文】

 「タケヒト」の父君である「御祖天君」の「フキアワセズ」は、筑紫を十年治められて、天君の位を示す「ニ(瓊)」を「タケヒト」に授けられて、吾平の神となられた。君になられた「タケヒト(この年、十五歳)」は、臣の「タネコ(アマノコヤネの孫)」らと、吾平(鹿児島県)の「宮崎宮(高千穂の峰の真南の先に建つ宮)」で静かに政務(三十年間を過ごされた)を司られていた。

 そんな折、奈良の香具山(飛鳥親君・クニテル)の臣の「ナガスネヒコ」が、皇后の父の地位を利用して、「(我が)ままに振るえば 騒がしく」、また、二十八アヤ(文)、百六にも、「ナガスネが 我を立つれば(我がまま) いち騒ぐ(騒ぐのが第一条件)」の記述がある。この騒ぎに対し、ハラの親君(タケテル・ニニキネの孫)は、糧(食べもの)を止めてしまった。また、二十八アヤ(文)、百六~百七には、この騒ぎに、『ハラミの皇子(タケヒテル)は、「ホツマ」「ヒタカミ」よりの糧(食べもの)船を、淀川より淡湖(琵琶湖)に登らさぬ』と記述していた。

 怒った「ナガスネヒコ」は、京都の山崎を流れる淀川(山崎で桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となる)において、川船の運航を止めで対抗したのでした。この「ナガスネ」の悪行に、六代モノヌシ(クシミカタマ)が征伐を計画した所、父の「フキアワセズ」の留守を守る多賀の親王(ヰッセ尊・タケコトの長兄)は、驚いて、筑紫(宮崎宮)に下り、父の「フキアワセズ」と共に、筑紫を治めた。そのことを二十八アヤ(文)、百七では、「多賀の宮 筑紫の宮に 行き居ます」と記述している。

 「モノヌシ」は一人で、民を治めた。また二十八アヤ(文)、百七には、『「モノヌシ」は、ヰッセ尊がいなくなった多賀の宮に入り、合わせて「ネ(サホコ、チタル)」国を治めた』と記述している。

 ある時、「タケヒト君」は、鹿児島(大隅半島)の吾平村の生まれの娘「吾平姫(吾平山上陵より約五Km西の林の中に、吾平姫を祭る神社が鎮座している)」を娶られて、「タギシミミ」の皇子を儲けられた。その時、「タケヒト君」の年齢は、四十五歳であった。時は、「アスス51穂」であり、「タケヒト」は、宮崎宮に五歳~四十五歳までおられた。

 ここで、「ホツマツタヱ」は、「タケヒト君」の四十五歳の物語として、『昔の御祖~キヨヒトまで続いてきた天の道』を述べている。その「天の道」の主旨であるが、「閏う国には、君が存在しており、その証として、村も乱れてない」これこそが、「天の道」であると説いている。それに比べて、この「ニギハヤヒ」「ナガスネ」の騒がしさに、世間では、「乗り下せ ホツマ道弘む(広める) 天の岩船」と、流行歌が歌われている。この歌を聞いた「シオツチの翁(塩釜神)」は、「ニキハヤヒの飛鳥宮の政が破綻している」と判断し、「タケヒト君」に、「速やかに御幸して下さい。」と申し上げた。 

(二)大和討ちへ出発【筑紫~吉備高島宮】

 高千穂の峰に登り「ニニキネ」に大和討ちをご報告された「タケヒト君」は諸率いて、アスス51穂(紀元前667年(2倍暦))十月三日に鹿児島宮を出発されて、鹿児島湾の奥の錦江湾の内浦宮より船出された。そして、大隅半島の鹿屋の海岸より再上陸されて「カモヒト天祖」が神上がりされた「宮崎宮・吾平山上陵」を訪問されて、大和討ちをご報告された。そして、志布志湾、日向灘を通過されて、早吸門(豊予海峡の古称)→宇佐(宇佐神宮の地)→ヒトアガリ宮 →安芸の国→チの宮→アスス五十二年三月には、吉備高島宮に到着されて、三年のナカクニ(中国)の政治も安定してきたので、先を御船で急がれた。

(三)大和討ちへの道中【三津岬~カウチ草香の】

 「タケヒト君」を乗せた御船は、アスス55穂(紀元前663年(2倍暦))の二月に、「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」に到達された。この場所は、「早浪立つ」「名も浪速の 港」の言葉より、大阪地区のことと推定するが、大阪地区に「三津岬」がどこにあったのだろうかと思い、現在の地図より捜したが、「三津岬」の地名は見つからなかった。

①柿本人麻呂の歌に三津崎(岬)が詠まれていた

 そこで、古典を紐解いて見ると、万葉集の柿本人麻呂の羇旅の歌八首の一首に、「三津埼 浪矣恐 隠江乃 舟公宣奴嶋尓」(注六)が記載されていた。読み下し文に直すと、「三津の崎 波を恐み 隠り江の 船なる君は 宣らす野島に」になる。

(注六)三津埼、柿本人麻呂(年代は不詳であるが、660年~720年頃の人と云われる)の羇旅の歌八首の一首  万葉集 249

【元歌】 三津埼   浪矣恐   隠江乃 舟公宣奴嶋尓

【訓読】 御津の崎 波を恐み 隠り江の 船なる君は 宣らす野島に

【平読】 みつのさき なみをかしこみ こもりえの ふねなるきみは のたまらすやしまに

【訳文】 三津の崎の波が恐ろしくて 隠れたような入江に入って 野島の土地神に舟旅の無事を祈ろう 舟が密集して浮かんでいる

HPアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/28448780.html

 この「三津岬」「三津崎」「三津の崎」の「三津」であるが、昔は「三津」と書いたが、現在では「御津」と書いているようだ。その「漢字」の変遷が、神社の「御津宮」に残されていた。その神社は、大阪の中央区西心斎橋に鎮座していた。このことから、「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」は、現在の地名から見ると、「大阪の中央区西心斎橋」付近に当たると推定されるようだ。

 だが、「御津」の場所は、現在の地形からは、「早浪立つる 三津岬」の文章のように、波が立つような海岸ではない。そこで、「三津岬」をもう少し紐解くと「ミツミサキ」となる。「ミツ」は「三津」で問題ないことが、上の調査で判明した。残るは、「ミサキ」である。漢字に置き換えると「岬(注七)」「三崎(注八)」「御崎(注九)」などになる。そこで、「ミサキ」をインターネット辞書で検索すると、「岬」は、「山や陸が海や湖の中に突き出た部分。」の意味であった。(他の二つは地名などであった。)そうすると、上の「三津岬」は、現在の地名と地形から見ると、現在の大阪市の中央区西心斎橋付近にあって、山や陸が海や湖の中に突き出た部分の意味になるようだ。だが、本当に推定した地形が、古代に存在したのだろうか。

(注七)み‐さき【岬・崎・碕】-日本国語大辞典

〔名〕(「み」は接頭語)山や陸が海や湖の中に突き出た部分。・・(後略)・・。

(注八)みさき【三崎】

  神奈川県三浦市の地名。・・(後略)・・。

(注九)御崎

  御崎は、兵庫県赤穂市御崎に属し、瀬戸内海に面する岬。・・(後略)・・。

②三津岬は上町台地の先端であった 【大阪地区の古地図より】

 先に、「タケヒト君」を乗せた御船は、アスス55穂の二月に、「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」に到達されたことを記載したが、その「アスス55穂(紀元前663年(2倍暦))」を、筆者の長暦を是正した「アスス暦」に換算すると、「紀元前134年頃(弥生時代・中期)」になる。そして、「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」の記述の詳細を知ろうとすると、「紀元前105年頃(弥生時代中期頃)」の大阪地区の古地形を見ることになる。そして、三津岬が本当に記載されているか否かである。

 早速、大阪地区の古地形について、インターネットで検索して見た。すると、「紀元前105年頃(弥生時代中期頃)」に相対するように、古地図・図一(注十)の「紀元前3000年~紀元前2000年」と、古地図・図二(注十一)の「弥生時代中期(約2000年前)」の二枚の古地図を捜し出した。

河内潟の時代、約3000年前~約2000年前の古地図。【図一】

図の黒塗部は旧・大阪湾の海域、斜線は、淡水域を示し、河内湖と云われる。

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(注十)河内潟の時代、約3000年前~約2000年前の古地図より引用した。

 題名「東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究(財団法人 大阪市文化財協会)」


「弥生時代中期(約2000年前)」の古地図【図二】

河内湾は淡水化が進み河内湖に姿を変え、その後、少しずつ陸地化していく。 

図の中央の北に延びた岬が、三津岬、浪速の港があった地区と云われる。

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現在の地図

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(注十一)「弥生時代中期(約2000年前)」の古地図より引用した。 

(一)縄文時代の大阪、ナカノシマ大学4月講座で「大阪アースダイバーへの道」の講座のスクリーンに映出された縄文時代の大阪の地形図、大阪の歴史書。

 HP:アドレスhttp://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-419.html

(二)その元は「日本第四紀学会2003年大阪大会の普及講演会資料集「大阪100万年の自然と人のくらし」のようです。

 HP:アドレスhttps://ja-jp.facebook.com/hachikenya/posts/293597360662227

二つの古地図の検証 

 この二つの古地図は、古代の大阪平野(内陸の河内平野)を中央に示しており、その現大阪港と内陸の河内平野の間に延びる「岬」が、上町台地と云われている。この「岬」の先端部にあった「港」が、「浪速の港」のようである。

 そう考えると、この「ホツマツタヱ」の記述に対し、上の古地図は、「紀元前3000年~紀元前2000年」の古地図・図一が地形的に近いのか、また、もう一方の「弥生時代中期(約2000年前)」の古地図・図二が近いのかである。この二つの地図の判断は、地図を作製した人が違っており、早々の対比は難しいようだが、上町台地の岬の先端の場所の位置によって、図一か、図二か判断できそうである。そして、その地名は、現在の「御津宮」の地名から遡ると、判断ができそうである。


御津宮の所在地

 古地図の図二が、ホツマツタヱのタケヒトの大和討ちの頃の地形に近かった。

「御津宮」の元の地名は、「三津」であった。その「三津岬」に、「浪速の港」があった。そして、「御津宮」は、現在「大阪の中央区西心斎橋」に鎮座する。そうすると、「三津岬」の先端に、現在の「御津宮」や「三津」の地名がある方の古地図が、「タケヒトの大和討ち」で「早浪立つる 三津岬」に該当する年代のアスス55穂(紀元前663年(2倍暦))に近い、また「弥生時代・中期」の古地図と云うことになる。

このように考えると、結果は明白である。

 古地図・図一は、「紀元前3000年~紀元前2000年」までの上町台地の先端が、大阪城より北方向、JR大阪駅より北方、そして、現在の淀川にまで達していた。そして、この地区には、「三津」の地名はない。

 古地図・図二の方は、「弥生時代中期(約2000年前)」頃は、上町台地の長さが短く、岬の先端は、現「大阪城」、「大阪の中央区西心斎橋」付近になる。そして、「ホツマツタヱ」の記述の地形に合う「三津岬」などのようである。

念を入れて、再吟味すると、

 「弥生時代中期(約2000年前)」の古地図・図二の上町台地と三津岬は同じ岬と判断しても良いようである。すると、地図の左側(西側)の古代大阪湾よりの荒波が押し寄せた場合は、柿本人麻呂の歌訳文のように、「三津の崎の波が恐ろしくて 隠れたような入江に入って 野島の土地神に舟旅の無事を祈ろう 舟が密集して浮かんでいる」の心境になる地形が、「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」と思われ、そのことが「ホツマツタヱ」の記述に、古代の現実をよく表現しているようだ。


②ヤマアトカワの解釈

 「タケヒト君」を乗せた御船のアスス五十五穂は、紀元前105年(弥生時代・中期)頃に近い紀元前134年頃(1倍暦)の二月に、大阪湾に突き出た「三津岬」に早浪(荒波)が立っていた。岬の「浪速の港」で少し休息した「タケヒト」は、「浪速の港より ヤマアトカワを 遡り カウチ草香の アウヱモロ」に出会った。

 だが、上の古代地図【図一、図二】を見ると、上町台地の右側(東側)は、河内湖になっており、「ヤマトカワ」でない。だが、「ホツマツタヱ」の記述は、「浪速の港より ヤマアトカワを 遡り カウチ草香の」と記述している。そうすると、「ヤマアトカワ」は、「ヤマトカワ」との訳は、古代地図【図一、図二】の位置関係に合わない。「ヤマトカワ」は、古代地図【図一、図二】の右側の生駒山の南側より河内平野の北側に向かって、数本が扇状に分岐し、河内湖に注いでいる。また「カウチ草香の」の「草香」は、河内湖の右側(生駒山の左側裾野)に位置し、「浪速の港」の対岸の位置になる。

この古代地図【図一、図二】の位置関係から、「浪速の港より ヤマアトカワ(誤訳、大和川)を 遡り カウチ草香の」の関係は成り立たない。成り立つ文章は、「ヤマアトカワ」の訳を「大和川の後川」または、「大和川の下流(注十二)」の訳になる。

(注十二)ヤマアトカワ

「ヤマアトカワ」の解釈を幣赤坂研究会の中島川さんに、お問い合わせました。

そのご返事ですが、「結論から申し上げますと、ヤマトカワとヤマアトカワは、同じ川である」と解釈します。ご存知のとおり、二十四アヤ(文)、五四(長弘本)に次の記述があります。

カスガクニ トフヒノオカニ

ヤマトカワ ホリテツクレル

ミカサヤマ

三笠山は奈良市にありますので、この記述は比較的に大和川の上流を指しています。また議題の部分は、二十九アヤ(文)、九(長弘本)の次の記述です。

      ナモナミハヤノ

ミナトヨリ ヤマアトカワオ

サカノボリ カウチクサカノ

アウエモロ

「カウチクサカ」は、かつて河内平野に存在したと言われる草香江のことだと解釈しています。草香江(古地図の6~7世紀に、草香江の表示あり)は、かなり大きな湖だったようです。ひょっとしたら、現在の大阪府そのものが大きな湖だったかもしれません。この湖の奈良県側の岸に着岸したと考えられます。なので、川自体を遡ったのは、ほんの僅かではなかったかと思われます。



狭義な解釈は次のとおりです。

・草香江から大阪湾方向へ流れ出る川をヤマアトカワ

・奈良県方向から草香江へ注ぎこまれる川をヤマトカワ

広義な解釈は次のとおりです。

・ヤマトカワとヤマアトカワはワカの音を合わせるために派生した名前である

・本来は同一の河川名である

そうすると、「浪速の港より ヤマアトカワ(大和川の後川、下流)を 遡り カウチ草香の アウヱモロ」に出会ったと解釈される。

なお、今回、古地図では、「河内湖」と記載してあったが、「ホツマツタヱ」の当時の「河内湖」は、何と云う呼び名であったか明確でないが、「ヤマトアトカワ」と「河内湖」は同じであったか、「ホツマツタヱ」からは、推測の範囲を出ることはできない。・・(途中略)・・。

 そして、「年サナト(アスス58年) 橿原宮の 初年と 御代カンタケの 大いなるかな。」と、「ヤマトタケの大和討ち」は終了した。

三、まとめ

 タケヒトの大和討ちで大阪の「早浪立つる 三津岬」に立たれた年代は、2倍暦での紀元前663年のことか、または、紀元前105年(弥生時代・中期)頃に近い紀元前134年頃(1倍暦)のことか。

 上のようにいろいろと述べてきたが、原点に返って、長暦(2倍暦)か、否かを論ずる元は、【「カンタケ(神武天皇)」の初年の紀元前660年については、先にも述べたが、『現在では、異常に古い年代と云われ、「日本書紀の前半部分が歴史的に正しいものではないことは、すでに定説となっていると思われます。」』とされ、その原因であるが、2倍暦のためとされるのか。そして、そのことを裏付ける「要因」について、アスス暦、日本書紀暦の2倍暦の解読であった。それを知るには、Webに記載中の「{日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立}に記載されるアスス暦、日本書紀の解読解説になる。

 そして、「タケヒト君」のアスス55穂の「早浪立つる 三津岬 名も浪速の 港より」の記述を検証する方法としては、古地図・図一の「紀元前3000年~紀元前2000年」と、古地図・図二の大阪地区の古地図「弥生時代中期(約2000年前)」の地形を比較する方法があり、古地図・図二の地形の方がホツマツタヱ当時の地形に近かった。古地図・図一の「紀元前3000年~紀元前2000年」が否定される地形であるが、上町台地の岬の長さが北方向へ長く、現在の「御津宮」「三津」の地名より北方向に位置しており、1倍暦で求めた紀元前105年(弥生時代・中期)頃に近い紀元前134年頃(1倍暦)よりもっと古い年代の古地図と判断された。

 従って、「タケヒトの大和討ち」の年代は、古代の大阪の河内潟の地形より、紀元前136年(1倍暦)~紀元前133年(1倍暦)と判断されるようだ。まして、アスス暦、日本書紀暦の紀年の年代で述べられる紀元前667年(2倍暦)~紀元前660年(2倍暦)の年代は否定される。

                           (つづく)

               

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