神武天皇の実存説と証明される2倍暦の終焉
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
1、古代暦の暦法解読(解説書)
2、(ご参考) 本居宣長も解けなかった古代の暦数字
3、(ご参考) 紀年より遡るアマテル神の生れ年の検証(世間では通用しない紀年の世界での検証)
4、ホツマツタヱと日本書紀の暦日比較
5、日本書紀の御世年の遡り年数とアスス暦の(穂)年数の対比
6、アスス暦の(穂)年月日ヱトの記述と再現ヱトの対比、ヱトの連続性
7、ホツマツタヱに記述される古記録の暦日
8、遂に、ホツマツタヱの古記録の暦日が、自然科学暦を基準とすると二倍暦であった
9、ホツマツタヱの古記録を儀鳳暦を用いて学術的に立証(経過日数の変化と月令の再現)
10、初代天皇~33代天皇の崩御歳より見える二倍暦
蛇足
4倍暦、論理の正規分布より外れる暦
1、古代暦の暦法解読(解説書)
(1)ホツマツタヱ 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」HP
同上 PDF 論文
(2)日本書紀に隠された 古代天皇の秘密 ~ホツマツタヱで解く~
ホツマ古記録を近代暦学で解読、神武天皇は64歳で薨御されていた。日本書紀127歳。
上記(1)(2)ともホツマツタヱの暦の記述より暦法、自然科学に照らして純粋に検証した論文。
2、(ご参考) 本居宣長も解けなかった古代の暦数字
スス暦、一百七十九萬二千四百七十餘歳の解読
古代、近代の歴史学者も解読できなかった数字であるが、ホツマツタヱにはその解読のルールが記載されていた。
3、(ご参考) 紀年より遡るアマテル神の生れ年の検証 (世間では通用しない、紀年の世界での検証)
天照太神の初めは、紀元前1000年が起源であった。
神武天皇の元年(紀元前660年)より遡ると何があるかとのことを推定すると、5代前にアマテル神がいる。そして、江戸時代にアマテル神が生まれた年代を計算した形跡が残されていた。だが、計算の元数字は、シナ(支那)の数字のために、計算は不発に終わっていた。そのため、改めて、その数字を使用し平成の世に計算して見た結果、アマテル神の生まれは紀元前1000年頃に計算された。但し、神武天皇元年を紀元前660年と見なした時の年数になる。
4、ホツマツタヱと日本書紀の暦日比較
1)、年月日の比較方法
(1)年代の表記
ホツマツタヱの年代の表示は、アスス暦としてアスス21年~843年までと、初代神武天皇~十二代景行天皇までの各々御世の年数の二種類になる。それに対し日本書紀は、初代神武天皇より各天皇の御世年数のみが表示されている。
(2)比較方法
ホツマツタヱのアスス暦、御世年数が日本書紀の御世年数と一致するか否かを比較した。
(3)結果
2代綏靖天皇、崇神天皇、景行天皇の御世年数が若干違うが、神武天皇初年~景行天皇までの経過年数は一致していた。
2)、分析結果 (ホツマツタヱとの比較)
日本書紀を検証すると約53%(暦日の一致率)がホツマツタヱの暦日と一致しており、ホツマの資料が使用されたと推定される。(一書に対応か)また、約17%(暦日が若干違う)は、書記の編纂時に他の暦の暦日に合せるため、変更された可能性が考えられる。残りの約30%(ホツマに記述がない暦日)は、他文献資料のものかと推定される。
5、日本書紀の御世年の遡り年数とアスス暦の(穂)年数の対比
(1)タケヒト(神武天皇)元年、紀元前660年について、年数により再検証
古代の初代タケヒト(神武天皇)~16代仁徳天皇までの天皇は、年齢(100歳以上が約60~70%を占める)、在位年数が異常であった。この異常な状態で神武元年が、紀元前660年に比定されているため、推古天皇の元年より遡り、神武天皇までの御世年を再調査した。その結果、先代旧事本記、日本書紀、日本書紀暦日原典の年代、干支より紀元前660年が再現した。
6、アスス暦の(穂)年月日ヱトの記述と再現ヱトの対比、ヱトの連続性
ホツマ暦の基本 ヱト表 (ホツマツタヱには、ホツマ独自のヱトがある。)
対比期間 アスス21年~843年
(1)タケヒト(神武天皇)元年、紀元前660年について、ヱト番号の連続性の再検証
ホツマツタヱの記述には、穂月日、ヱト、ウルフツキ(閏月)などがあり、暦法的に一日、一日がヱトで裏付けされる太陰太陽暦が想定された。そのため、アスス暦21穂~843穂間について、ヱトの連続性を暦日表より検証して見た。なお、その後、アスス21年~1117年までヱトの連続性の暦日表を作成したため、詳細はそちらのエクセル表をご覧下さい。
吉田式ヱトの連続性の工夫(長所と短所)
暦日表の作成に当たってホツマツタヱの当時には、近代のような太陽と月の軌道が天文学的に解析されていたか否かである。私の意見は「否」とし、一日、一日の裏付けとなるヱト番号を優先し、吉田独自の計算式を立案し、暦日表上でヱト番号が連続されるようにした。だが、一日、一日をヱト番号で連続させると、1年の日数が約385日と約265日になり、太陽暦の1年の日数365.2422日と相違する。その欠点は、月名と季節の関係がズレることである。そのため、ホツマにもウルフツキ(閏月)の記述があるため、近代の太陰太陽暦の閏月の考え方を取り入れて、1年約385日を平年の大の年とし、ヱトで60日違う約325日を準平年の小の年を採用した。その組み合わせ結果は、19年間に大(13月)の年が13年、小の年(11月)が6年を組み合わされた。
結果
1年の日数は太陽暦の365.2422日に対しアスス暦は約365.3280日となり、その差は約0.0858日。10年間で約0.9日であった。このため、作成された暦日表は、概ね良好の評価が得られた。また、運用上では10年間で約1日を減らせれば長く使用可の暦日表であった。なお、師走の記述は、ホツマの記述に準じて、概ね平年に配置済。
7、ホツマツタヱに記述される古記録の暦日
ホツマツタヱの研究者はこれまで見逃して来たが、自然科学と対比するとホツマツタヱの暦日の古記録は二倍暦の根拠を示していた。また、日本書紀からは暦日の古記録の削除が多かった。
ホツマツタヱの古記録には、ヤマトタケの妊み月数は現在と違う21ヶ月であり、不知火の出現時期が現在の旧暦8朔に対し旧暦5朔であった。
更に、日本書紀にない満月の記述がホツマツタヱには記述されていた。また、日本書紀の全ての1月には春が記述されるが、ホツマツタヱには、奇数年のみの4個所年にのみ春の記述があった。このように、四項目を自然科学の暦法で見ると、ホツマツタヱも日本書紀の記述も二倍暦の暦日が記述されていた。但し、この時点ではホツマツタヱの古記録の暦日が解明できてなく、「9項、二倍暦の学術的立証」の「経過日数の変化と月令の再現」まで待たれた。
ホツマ、日本書紀とも不知火の出現日を旧5朔と記述しており、その不知火の出現日を季節の成否で判定すると、古代アスス暦は二倍暦であった。
ホツマ、日本書紀以外に、江戸時代の不知火の出現日の記録が8件ある。その出現日の表現には多少の違いがあるが要約すると旧暦の8朔になる。(出現を見た日により、夜の12時前は7晦日、過ぎは8朔と記載あり。)
概要
ホツマの記述では、不知火の出現時期を旧5朔としている。だが、近代での不知火の出現時期は旧8朔である。近代では不知火の出現メカニズムは、解明されており、海水温、蒸気の発生、凪、朔などの条件が重なった時に出現すると云われ、海上環境の影響大と云われている。このことから旧5朔の頃の不知火の出現は厳しい。
この立場より、古代アスス暦の暦は太陰太陽暦であるが、近代の太陰太陽暦と違う暦と推測しホツマの記述を再調査した。すると、明らかに二倍暦の記述の項目が3個も認められた。
そこで、古代アスス暦を二倍暦から1倍暦に変換し検証した結果、不知火の出現は、ホツマに記述の5朔に対し近代の7月27日(8朔)であった。この結果、4個目の二倍暦の立証が得られた。
立証の方法としては近代の新旧暦変換プログラムを借用し、アスス806年を紀元1406年と仮定し、旧暦→新暦→2倍化暦→1倍化暦→旧暦に戻すように変換し、二倍暦の旧5朔を1倍暦で求めた。結果は7月27日(8朔)が求められた。
二倍暦⇒1倍暦に変換結果、5朔 ⇒ 8朔の近似日の7月27日が再現する。
8、遂に、ホツマツタヱの古記録の暦日が、自然科学暦を基準とすると二倍暦であった。
対比期間 アスス21年~1117年
(1)タケヒト(神武天皇)元年、紀元前660年について、アスス暦のヱト番号の連続性と自然科学暦(西暦)で再検証
アスス暦の(穂)年月日ヱトの記述と再現ヱトの対比、連続ヱトの確認をベースにして、二倍暦⇒自然科学暦(西暦、1倍暦)に是正する。
上記の6項と同様に、ヱトの連続性をアスス暦21穂~843穂、更に追加して844年~1117年(歴中天皇元年・紀元399年)までを検証した。
検証された項目(その後の文章と重複もあり)
アスス暦の21個所の穂(年)月日、ヱトが、±1日以内で確認
春の4個所の記述で、奇数年のみに、春が確認された。
望(満月)の記述に対し補正月令のバラツキ幅は±0.03 日~±5.4 日と小さく、月令の 一致率は、「±2 日以内」で 70%の高率が得られた。(±3 日以内で 80%)
天皇の二倍暦の終息を西暦399年とすると、神武天皇の初年(元年)は、儀鳳暦にて紀元前133年であった。なお、アスス暦の計算時には、1年の経過日数が若干大きくなっているため参考値とした。
二倍暦⇒1倍暦に換算結果
・神武天皇の即位年は、紀元前660年⇒紀元前133年(-132年)であった。但し、月日は、アスス21年1月1日より計算し6月22日となる。
・神武天皇の神上がりは、神武76年3月10日のため、紀元前585年⇒紀元前95年(-94年)であった。在位年数は、76年⇒38年になる。
年齢の評価
上記の結果より、神武天皇の年齢も自然科学と比較しても妥当な約64歳まで実存されていたことになる。127歳は化物である。
127歳に至った考察(吉田説)
127歳は、スス暦の大きい暦数字よりアスス暦に変換時において、スス暦の考え方が踏襲されたため、127歳になったことが推測される。このことをもう少し詳しく述べると、スス暦の時代には、当初⇒27鈴の頃に1日の数え穂を1日16穂⇒2日16穂に変更されていた。その後、スス暦の元になるスス苗が無くなったため、スス暦を継続することができなくなった。そのため、アマノコヤネは、スス暦を改訂し、アスス暦を編纂することになるが、スス暦が50鈴で終焉すべき所が、すでに20穂もオーバーしていた。その頃、アマノコヤネは、「すでにスス暦の作り方は、スス苗の枝の数えを離れて、ヱト(60)の巡りにより作られて、大きい暦数字と鈴枝穂の数えでスス暦が作られていた。」ことを熟知していた。これを裏付けるように、スス暦とアスス暦の両御世に生きた大三輪のワニヒコは、アスス暦の135穂(年)頃に192穂(歳)であったが、アスス暦の初年は21穂(年)を差し引くと、アスス暦の御世で114穂(年)、スス暦の御世で78穂(年)間に生きたことが計算される。このようにして、21穂(年)以降もスス暦の大きい暦数字をベースにしてアスス暦の1日が刻まれて行き、8穂で1日としたアスス暦が編纂されていた。だが、アスス暦の「日読み」の専門家は、スス暦の日読みのアチヒコ(阿智彦)当時の1日が、16穂で数えられたことを知らず、スス暦の50鈴の頃の1日の数え穂の8穂で1日を継続して編纂して行った。
この結果、スス暦の当初とアスス暦では、同じ16穂の経過でも、1日と2日の違いが出て行った。そして、過去の暦日の違いを検証されることなく、アスス暦の一年を1穂とし、月、毎日がヱトの60分の1で編纂されていった。このため、同じ大きい暦数字でも1穂(年)は二倍の1穂(年)になって行った。
このことにより、古代の天皇の在位年数や歳は、近代の太陽暦の365日を一年とする基準と対比するとアスス暦の1年間は2年間分に相当する二倍暦に計算されていた。だが、日本書紀、古事記には、このような暦法の変更が記述されてなかった。このため、日本書紀の編纂者は、御世の年を累計する以外になく、国際化に対応できる日本の遡り年代を策定しようとした遣唐使、遣隋使の研究員(坊主の集団)は、シナ(支那)暦に対比し、日本書紀の御世を対比して行ったため、神武天皇の元年が紀元前660年に割り付けられていた。また、神武天皇の年齢も127歳と割り付けられていた。
だが、ホツマツタヱが再発見された以降はホツマ暦の研究が進み、「アスス暦と太陽暦では、暦を作る尺度が違っていた。(吉田説)」ことが判明するに及んだ。次の9項では、上述の考察が「自然科学である太陽暦で立証できるか否か」を立証して見たいと思う。
9、ホツマツタヱの古記録を、儀鳳暦を用いて学術的に立証する(経過日数の変化と月令の再現)
古代暦よりヱトの連続暦日表の儀鳳暦、アスス暦で作成
小川清彦先生、内田正男先生のお名前をご存知の方は、暦の通である。ご両名は、日本書紀暦をシナ(支那)暦の儀鳳暦、元嘉暦により検証され、論文または日本書紀暦日原典を発表されていた。このため、私自身も儀鳳暦を使用し、毎日のヱトの連続性よりアスス21穂~1117穂までの「ヱトの暦日表」を作成した。
一方、私自身のアスス暦の研究よりアスス暦の解読式を駆使し、毎日のヱトの連続性よりアスス21穂~1117穂までの「ヱトの暦日表」を作成した。
自然科学と望(満月)
二つのヱトの連続暦日表の比較方法
アスス暦には望(満月)の記述が、アスス暦には11ヶ所記述されている。だが、日本書紀には望や満月などの記述はない。この望(満月)の記述を近代の暦法で検証して見ようと思う。そのため、式に望(満月)が記述される月名を入力することにより、再現の春、望(満月)が記述の月に一致するかを評価することにした。
1)比較結果
(1)儀鳳暦 儀鳳暦での検証結果(まとめ) 儀鳳暦よりアスス暦の11カ所の望(満月)について、各望(満月)の累積経過日数を求め、更に、近代の1朔望月の日数で割り算し、望(満月)の記述年月日が望(満月)の月令(月相)に一致するか否かを計算した。
なお、月令の最小限の値を求めるため、閏月(+1ヶ月)を加味し月令を計算した。また、経過日数の種類として、計算の経過日数、経過日数の2分1日、経過日数の3分1日、経過日数の4分1日の4種類を使用した。
検証結果、満月の再現率は、日本書紀暦の経過日数を2分1に改訂した時の暦が、最も高かった。
内訳
①儀鳳暦時は、望(満月)の記述に対し誤差の範囲は、一致~2日とバラッキ小。概ね、儀鳳暦で望(満月)が再現した。
②儀鳳暦の経過日数が2分1時は、望(満月)の記述に対し誤差のバラツキ幅が一致~1日と少なく、望(満月)の記述が再現した。従って、儀鳳暦は二倍暦より1倍暦の方が再現性が高かった。
③儀鳳暦の経過日数が3分1時は、望(満月)の記述に対し誤差範囲が一致~10日とバラッキ大。
④儀鳳暦の経過日数が4分1時は、望(満月)の記述に対し誤差範囲が一致~7日とバラッキ大。
(2)アスス暦 儀鳳暦と同様に、アスス暦でも望(満月)の再現率を計算した。
アスス暦での検証結果(まとめ)
検証結果、満月の再現率は、日本書紀暦の経過日数を2分1に改訂した時の暦が、最も高かった。
内訳
①現アスス暦時は、望(満月)の記述に対し誤差の範囲は、一致~7日とバラッキ大。本来は、現アスス暦で望(満月)が再現するのが、本筋であったが残念である。
②アスス暦の経過日数が2分1時は、望(満月)の記述に対し誤差のバラツキ幅が一致~3日と少なく、望(満月)の記述がほぼ再現していると判断される。従って、元のアスス暦は二倍暦であった可能性が高い。
③アスス暦の経過日数が3分1時は望(満月)の記述に対し誤差範囲が一致~7日とバラッキ大。
④アスス暦の経過日数が4分1時は望(満月)の記述に対し誤差範囲が一致~9日とバラッキ大。
評価結果
上記のように、望(満月)の再現率および、望(満月)の計算バラッキ幅を総合的に判定すると、文献に記述される日本書紀暦、アスス暦のままでは、望(満月)の月令がホツマツタヱに記述される月名との一致する個所は極端に少なかった。望(満月)の一致率が最も高かったのは、経過日数を2分1にした時であり、その時のバラツキ幅も他の3種類より最も少なかった。特に、儀鳳暦を用いて経過日数
を2分1にした時の1日以内の望(満月)の再現率は100%であった。アスス暦では、3日以内の望(満月)において再現率が100%となった。この再現率の日数の違いは1178年間における一年の平均日数の差と思われ、儀鳳暦の365.247877758913日/年(吉田計算)に対しアスス暦は365.304753820034日/年であり、0.056876061日/年の差が影響したと思われる。但し、アスス暦の解読は、天文学を使用してないため限界がでたと思う。この結果からも「市中に出回っているアスス暦、儀鳳暦は二倍暦である。」ことが、自然科学の望(満月)、暦の経過日数より更に説明が裏付けられた。この結果、タケヒト(神武)のスメラギは、約64歳まで実存された天皇と云うことになる。 詳細は、アスス暦、儀鳳暦のヱト暦日表をご覧下さい。
10、初代天皇~33代天皇の崩御歳より見える二倍暦
天皇の崩御歳を調べると16代天皇までは二倍暦であったことが見えてくる。調査方法として、日本書紀暦等より天皇、皇族らの生年~崩御年を抽出する。次に縦横軸のマス目表の縦軸に天皇名を初代~33代までを記載。横軸に生年~崩年までの年を記載し、最後に崩御歳等を計算する。 表 初代~33代天皇 16代までは百歳以上での崩御が多い。
アスス暦、日本書紀暦
シナ(支那)暦の伝来により第17代履中天皇元年(399年)より天皇の崩御歳が大きく変化していた。上の表 初代~33代天皇までの各天皇の崩御歳を比較するため、棒グラフにしたのが下図である。この表より判明することは、初代~16代天皇までと17代~33代天皇までの崩御歳に明らかに、段差が見られた。
推定原因
この段差こそが、暦が違っていたことを示す根拠と判定される。
蛇足 4倍暦
最近、巷で4倍暦の論文を目にする機会がある。その議論の中心は、在位年数が近代の天皇の在位年数に近くなるためのようである。だが、本論文でも4倍暦は検討したが、自然科学の望(満月)の再現性において「成り立たなかった」と説明した。
その欠点
ある歴史研究本を見ると、「初代神武天皇は二倍暦、2代綏靖天皇~16 代の仁徳天皇までを一ツキ15 日、一ネン半年として、4 倍暦の対象とされていた。また、17 代~21 代までは二倍暦とされていた」との説である。だが、この説には、大きな欠点があった。 一つは、日本書記、ホツマツタヱには、暦日の記述数は少ないが、16日~30日まての暦日が記述があるが、無視されていた。二つ目には、1日~15日の暦日を統計学の正規分布図で議論されていたが、16日~30日を正規分布図で議論すると「+4σ」~「+9σ」の範囲になるが、その「+4σ」~「+9σ」が無視されていた。 このように、4倍暦は自然科学、統計学より否定される論説であった。
統計学(正規分布)の理屈に合わない日本書紀の真逆の四倍暦説 クリックして読む
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ホツマツタヱ暦の研究 世間では、第2代綏靖天皇~第9代開化天皇までの8代の天皇を「欠史八代」と呼んでいる。だが、当初は「欠史十三代」が提唱されたが、周りの意見により「欠史八代」に修正されたと聞く。この論説の訂正要因は、日本書紀暦が太陰非太陽暦であることが特定できなかった。また、太陰非太陽暦の原因が探求されてないためであった。ホツマツタヱが平成の世に再発見されると、ホツマツタヱ暦の解析、解読が進み、また、日本書紀暦、新皇正統記暦の研究も進展し、古代史日本の年代を文献考古学より古代の当時の年月日まで検証、再現できるまでになった。一方、大戦後の学会では、戦前に重宝された紀年、日本書紀暦は見向きもされなくなった。替わりに考古学が進捗し科学的な年代は推定できるようになった。だが、日本書紀文献等に記述される年月日まで再現、推定できるところまで到達してないのが現実である。頑張れ考古学。
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