神武天皇の生まれ地は宮崎でなく、 京都の下賀茂神社 または 滋賀の多賀大社であった
関連ホームページ 神武天皇の大和討ち(俗に、神武東征)をクリックして読む 1996_3_6付
2025_1_1~2付改訂
ホツマツタヱ研究 吉田六雄
世間の評判との相違
ホツマツタヱより日本書紀の知識が出回っており、神武天皇は宮崎の日向の生まれと思われている。そのため、両書の文章を比較して見た。その結果、世間の評価に反し神武天皇の母君(玉依姫)の記述が豊富に書かれ、神武天皇の生まれた記述も明確なホツマツタヱの文章より、「神武天皇の生まれ地は、母君の実家の京都下賀茂神社説」が有力であった。また、神武天理が兵庫県の西宮より宮崎に船出される以前の住まいの滋賀県「多賀大社」説も捨てがたい。反対に、日本書紀の文章は、神武天皇が東征される頃以前の内容は箇条書きに一編の文章であり、また、「神武天皇は日向国で生まれた」との記述はなかった。
両書比較
1、日本書紀の記述に対するコメント
神武天皇は父君である渚武鵜草葺不合尊の第四子との記述があるが生まれた国、地名の記述がない。
このため、日本書記に記述される神武天皇の話は、宮崎の地を前提に記述されている。(推測)
(抜粋)日本書紀 巻第三
神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。彦渚武鵜草葺不合尊第四子也。母曰玉依姫。海童之小女也。天皇生而明達。意〓如也。年十五立為太子。
訳文
カンヤマトイワレヒコ天皇は諱がヒコホホデミで、ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊の第四子である。母は玉依姫といい、海童の妹娘である。天皇は生まれつき明らかに道理に通じ、意志が確固としていた。年十五で太子となった。
2、ホツマツタヱの記述に対するコメント
「タケヒト」が誕生された後、父君の危篤により滋賀県の多賀より宮崎に出発されていた。このことよりタケヒトの誕生地は、母君の出身地の下賀茂神社か、または、出発地の多賀大社が有力となる。
1、27-49~51文 母君の出身地、京都の鴨川が合流する河合の地、下賀茂神社。
2、27-64文 母君が嫁がれタケヒト(神武天皇)が誕生する。
3、27-84,85 文 タケヒト、父君の危篤により滋賀県⇒西宮⇒船⇒宮崎に行かれる。
(抜粋)27-49~51文
玉の名の 玉依姫お 生みて後 養して齢 十四鈴に 両親共に 神となる 河合の神ぞ 玉依姫は 喪祀りなして ただ一人 別雷神に また詣で 姫一人 別雷神に 仕うかや」
(抜粋)27-64文
「皇后と なりて生む皇子 カンヤマト イハワレヒコの 尊なり 時にタネコが タケヒトと イミナ鏤め 奉る」
(抜粋)27-84,85 文
「宮崎の 君の御心 齢も老いて 急使の 多賀に告ぐれは 驚きて 皇子タケヒトと 守タネコ 多賀より出て 西宮 大鰐船乗りて鵜戸の浜 宮崎宮に 至ります」
結論
「(問)神武天皇は、日向国で誕生されていたか?」について、日本書紀、ホツマツタヱ文献を調査した結果、「(答)ホツマでは、神武天皇が生まれた地は、「京都か」または、「滋賀か」との推測が可能となった。このことより、日本書紀の研究者の「神武東征」の出発地である「宮崎・日向国とする説は間違いである。
以上
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神武天皇の生誕地 日本書紀とホツマツタヱの比較
神武天皇の生まれ地は、宮崎でなく
京都の下賀茂神社、または、滋賀の多賀大社であった