古代の有名な姫のヤマトモモソ姫と箸墓古墳

古代の有名な姫のヤマトモモソ姫と箸墓古墳



 令和 5年9月21日・更新

 平成25年6月22日

 ヤマトモモソ姫(倭迹迹日百襲媛命)と卑弥呼は93年違いの世代だった !!                                                               

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

箸墓古墳 全貌

1、新聞報道  「纒向遺跡を史跡に指定」、文化審答申「邪馬台国の有力地」のタイトル紙面を、毎日新聞・朝刊(2013年6月22日)で目にした。文化審議会(宮田亮平会長)は、21日、邪馬台国畿内説の最有力地とされる「纒向遺跡」(奈良県桜井市)など11件を史跡に、・・(中略)・・。纒向遺跡は3世紀初頭に出現し、4世紀初めまで営まれた大規模な集落跡。整然と配備された建物跡や、他地域の土器が出土。周辺には卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳もあり古代国家形成の重要な遺跡と評価した。・・(後略)・・。

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2、ホツマツタヱを用いた年代調査

a、ヤマトモモソ姫の紀年(日本書紀暦のを指す)調査

 箸墓古墳の史跡指定は、ヤマトモモソ姫の大市墓と云われる。そのヤマトモモソ姫の①生まれ年と②罷る年をホツマツタヱより引用すると、①生まれ年は、アスス暦の430年夏になり、「三つ子の一人」として生まれる。また②罷る年は、アスス暦630穂になり、「箸にミホドお 突き罷る オイチに埋む 箸塚や」と記述あり。そこで上のアスス暦を日本書紀の紀年と云われる西暦に換算すると、①紀元前287年、②紀元前87年になり、満200歳になるが、現在の年齢尺度では有り得ない。

b、ヤマトモモソ姫(倭迹迹日百襲媛命)の新年代調査

 ヤマトモモソ姫の①生まれ年と②罷る年を吉田説の「古代史新年表」より算出すると、①生まれ年は、紀元55年(孝霊天皇3年夏)、②罷る年は、紀元155年(崇神天皇10年10月)(満100歳)になる。そこで、世間で云われているヤマトモモソ姫と卑弥呼は同一人物との噂を検証して見た。すると、ヤマトモモソ姫の罷る年と卑弥呼の死去年を比較すると、紀元155年に対し紀元248年頃になり、卑弥呼が93年も後世の人であった。

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ホツマツタヱの記述(抜粋)

 32-5  三年夏  内待妃・・・・三つ子生む 名はみなヤマト モモソ姫

 34-18  十年十月 箸にみほど御陰お 突き罷る 大市に埋む 



箸墓古墳の築造年代

 前述の「古代史新年表」より判断すると箸墓古墳は紀元155年(2世紀の前半)の築造になる。また、ホツマツタヱの37-10アヤの記述(アスス721年、西暦201年、3世紀)には、「ハシモノ(土師物)をノミのスクネが、ヰソサチ(垂仁)に、殉死の風習を改め埴輪を作って稜墓に供える」ことを提案したとの記述がある。それでも、現在の論争を解決するためには、考古学的に箸墓古墳の内部を調査しないと判明しない。況して、古墳の造形部に対し周辺部は、長い年月の風雨等により損壊等があり、土器等により補修された恐れもある。そのため、周辺で発見される物は3世紀より新しいことも考えられる。

卑弥呼と同世代の姫は「だれか?」

 ホツマツタヱには、景行天皇の御世にヤマト姫がいる。この姫は、後に、アマテル神の宮を巡行させた姫として有名である。ヤマト姫の年代を「古代史新年表」で調査し西暦に換算すると①紀元190年生まれ、②紀元256年~紀元257年(満66歳~満67歳)薨御になる。そこで、ヤマト姫と卑弥呼の生きた年代を比較すると、ヤマト姫が紀元190年~約紀元257年となり、また、卑弥呼の死去は紀元248年頃のため、ヤマト姫と卑弥呼は、同一世代に生きていたことになる。

 

3、日本書紀暦、考古学を用いた年代の推定

a、日本書紀暦 : シナ暦の採用は6世紀頃と云われ、それ以前の年代は曖昧とされる。

b、考古学   : 年代の尺度を化学記号の半減期を用いるため、年単位となり月日まではバラツキ大となり、年代の特定が困難。

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