ホツマツタヱ 改訂 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」

ホツマツタヱ 改訂 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」

祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見

       2022年3月 8日改1

       2020年1月30日

 ホツマツタヱ               

  改訂 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」

    古代自然科学に基づいた解読秘伝の書

  ~紀元前後の御世に「ホツマの世界」が存在した~

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

改訂本の紹介

 2022年  改訂 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」

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ご案内

 本書は、「ホツマ暦の解読書 素朴に疑問 古代日本は、いちから始まったのか」本を「研究論文」形式にまとめた一書

発売日2022年4月1日

A3単行本、横書  

本代

  50,000円(本 の販売代金)

  2,280円 (CDの販売代金)

古代史診断 (改1)

 古代天皇の初代~16代中の12人に崩御歳の記録がある。そして、12人中10人が100歳以上で崩御されている。最高歳は6代孝安天皇の136歳である。この「高齢の天皇が居たこと」をあなたは、信じられますか?

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本書の紹介 (改1)

 初版を発売してから4年が過ぎた。その間、ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニの研究を継続して来た。そして研究が一巡し気付くと、スス暦、アスス暦と太陽暦、西暦の対比は論文中で個々に発表していたが、一貫したホツマツタヱの超古代史年表を発表してなかった。

 また、ホツマツタヱのアスス暦は、タリヒコ(景行天皇)の55年で終焉している。それでも、天皇の崩御歳は100歳以上の高齢が解消してない。そのため、日本書紀、神農正統紀の33代推古天皇まで拡大し、天皇の誕生日、立皇子日、即位日、崩御歳を研究した。その結果17代履中天皇以降において、天皇の在位年数、崩御歳が大きく変化していた。その後は、近代の人間の寿命並になっていた。

 更に、2代前の15代応神天皇の御世において暦が伝来しており、日本書紀暦が改訂され条件が揃っていた。だか、日本書紀には、なぜか、改暦した記述がなかった。このことは、前後において、日本書紀を編纂した官僚機構が継続されてなかったことが推定される。

 このような背景より、17代履中天皇の元年(紀元399年)を起点にして、日本史の遡り年表「ホツマツタヱ 超古代史年表」を新たに見直した上で作成し「改1(注)」に掲載した。 (注)改1;漢数字⇒アラビア数字に変更。

 更に、スス暦、アスス暦が真正に解読できるか否かは、ホツマツタヱ文を正しく読み下せるか否かにかかっている。その分岐点の文章は、21アヤの「アヱよりヤヱの 中五日」である。だが、多くは、中五日の「中」を省略、または、割愛して解釈していた。

 そして、ホツマ・ヱト表の中五日の順は、「キアヱ(順位番号1番)」、「キアト(2)」、「ツミヱ(3)」、「ツミト(4)」、「オヤヱ(5)」の五つを五日と訳していた。この訳では、「中五日」でなく、「五日」の記述の場合である。

 この解釈を間違うと、29アヤの「光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで」の意味は、膨大な1,792,470年に解釈され、ホツマの古代は化物になる。これでは、天国の故松本善之助先生にご報告もできないようである。

ホツマツタヱ 超古代史年表

 第17代履中天皇元年(紀元399年)より遡り年表を作成しました。

年代的には、紀元前536年~紀元399年になる。(紀元前6世紀~紀元4世紀)

この年代は、日本書紀、魏志倭人伝でも曖昧な年代である。この年代が、ホツマのスス暦、アスス暦で目処が付くと、学術的にも変化が起きてくるかと思う。

スス暦、アスス暦の解読については、本書をご覧下さい。  

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常道の解釈は、本書の本文をご覧下さい。

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

 令和4(2022)年4月1日 横浜の自宅にて 

はじめに

 筆者の「ホツマツタヱ」との出会いは、平成六年三月になる。「ゼロ」からスタートであった。そして来年(平成二十六年)の三月で二十年になる。研究の大半を「ホツマツタヱ」の暦法の研究に費やしてきた。その中でも「スス暦」と命名した暦法は、近代暦法の知識が通じない古代暦法であった。もしホツマ大学院が存在するとしたら、古代史の研究に例を見ない最先端の古代暦法の研究になったことであろう。そのホツマ暦では、「マサカキ(苗はススと云う)」の植え継ぎを基本とした(1)「スス暦」と「スス暦」の次の暦の(2)「アスス暦」があった。

スス暦は、

 「ホツマツタヱ」の記述より、暦法の単位となる「鈴、枝、穂」が、現在の数学で計算することが可能であった。ただ、「一日の数え穂」の事象である、二つを発見するまで、九年間と十七年間を費やした。また「スス暦、アスス暦」が、長在年暦法であることを立証するまで十九年間もかかった。やっと思う通りの古代暦法の解読をしたと実感したのが、平成二十五年八月になった。

アスス暦には、

 暦法の基準が「ホツマツタヱ」に記述されてなかった。記述されているのは、現在の暦と同じように、「年、月、日、日のヱト」であった。ただ、「スス暦」の次の暦であることが判明していたため、「年、月、日、日のヱト」の裏付けとして、「スス暦」の「鈴、枝、穂」らしき数字を「アスス暦」の御世より捜し、二つを発見した。このことから先に説明した「年、月、日、日のヱト」と二つの「鈴、枝、穂らしき数字」より、「スス暦」の延長暦として、暦法の計算式を構築し、計算した日のヱトが、記述の「年、月、日、日のヱト」に一致するまで、何度も繰り返し計算した。その計算の期間は、約五、六年間を費やしたように思う。ただし、計算対象となった内、残る最後の一ヶ所の精度が「±一日以内」の精度を得るまでには、約十一年間もかかってしまった。(原因は、ホツマツタヱよりの年月日を転記する際の誤植の指摘遅れであった。)

(3)「スス暦(二十七鈴~)」「アスス暦」の暦の形態であるが、二つの暦は、「スス暦」の「鈴、枝、穂」または、「スス暦」の一貫した「大きい暦数字」を 基準に、共通の解読式で計算した結果、二つの暦とも長在年暦法であった。

(注一)長在年暦法:長い在位年数を有する暦法を云う。

 このように長在年暦法の原因が判明したため、(4)是正したホツマ「スス暦、アスス暦」の新年表の作成を試みた。更に作成した新年表の精度を確認するため、「ホツマツタヱ」に記載の「①イヅクリ(鋳造り)」「②ミソコタカラ(三十九宝)」「③ハシモノ(土師物)」の三つ事象の年代について、考古学の「①鉄の伝来」「②銅鐸」「③埴輪」の年代と対比して見た。その結果、ホツマの三つの事象の新年代は、考古学の事象年代にほぼ一致することが確認された。このことから、「ホツマツタヱ」の新年表は、「スス暦以前、スス暦の御世」が「縄文・弥生時代」に相対し、次の「アスス暦の御世」が、「弥生・古墳時代」に相対することがわかってきた。

 上のように「ホツマツタヱ」の研究が進んでくると、「歴史として信用すべき部分」と「今後の研究が必要な部分」に分れる。そんな中に、「ホツマ暦」の「スス暦」「アスス暦」の研究が進み、考古学との対比が可能になり、「歴史として信用すべき部分」が明確になった。このことで「(4)長在年暦法を是正したスス暦、アスス暦」の新年表として発表してきた。その対象の年代は縄文時代~古墳時代であり、紀元前六世紀中頃~紀元三世紀中頃であった。

 一方、国内研究者の意見を振りかえると、津田左右吉氏は「古事記及び日本書紀の研究(以下、「記紀・研究本」と呼ぶ)」本の中で、「古事記」「日本書紀」の上代及び神代の部分については、「物語である」「物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るのである。」とされ、『・・(前略)・・同じ記紀(とくに『日本書紀』)のうちでも、その本文を見れば、大体において、・・(中略)・・(2)しからざる部分(すなわち上代及び神代の部分)とのことがわかる・・(後略)・・』と記載していた。

 また、故松本善之助氏は、「古事記」「日本書紀」「ホツマツタヱ」の三書を比較されたが、「ホツマツタヱ」の記述の中には、「古事記」「日本書紀」に、未採用の「ホツマ暦」の「スス暦」「アスス暦(アススの通年代が未採用)」が存在していたことを明らかにされた。この未採用の原因は「日本書紀」などの編纂者が、「ホツマ暦」を理解できなかったためと話されていた。また昭和十四年に、津田左右吉氏が「物語である」とされた「古事記」「日本書紀」には、その「ホツマ暦」が姿を消しており、古代日本に存在した古代暦法を知らず、「帝紀」「旧辞」に記載されていたかも知れない「ホツマ暦」の存在をも否定(すなわち上代及び神代の部分)される結果になっていた。

 (おわり)

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