ホツマツタヱのスス暦、アスス暦は、縄文、弥生、および、古墳時代に該当した
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄 ゾロ(イネ)の記述年代より見直される日本の新紀年とホツマツタヱの証明
Ⅰ、日本の新紀年
神武天皇元年⇒天照御大神の誕生年に変更でき、その遡り年表の作成は、日本書紀(紀年)、スス暦の新解読暦で可能となった。
そして、炭素14年代測定法での科学的な稲作の開始時期で更に証明される。また、その裏付けは下図の炭素の半減期の理論と実測値の比較グラフになる。
(Webのintcal 20より引用加工し掲載した。)
なお、当年代は弥生時代の年代を物差しにしておりません。
(イネが基準であり、鉄器の出現年月日が明確でないため。)
1、ホツマツタヱの年代と「AMS-炭素14年代測定法」
ホツマ暦の解読年代が炭素14年代測定法で証明される。
比較方法
稲作年代の判定、
a、ホツマ暦の記述
ゾロ(イネ)の記述と年代
ホツマツタヱには、年代が明確なアヤの40アヤ中5アヤに「ホゾはゾロ( 臍はイネ)」との記述があり、年代的には紀元前330年~紀元前320年より古いことになる。また、イネの名称は13アヤに初見され、紀元前290年の記述になる。但し、年代の推定値は吉田の研究により、スス暦、アスス暦、日本書紀暦を詳細に調査・分析し、解読式を用いて算出していた。
そこで、当ホツマ暦の解読式では、「ゾロ、イネの記述の推定年代を「紀元前330年~290年(約紀元前310年)より古い。」と算出した。
また、紀元前330年の年は、天照御大神が誕生された年でもある。(吉田説:西暦換算)
b、炭素14年代測定法
ホツマツタヱでの稲作に関する記述の地区は、東北(日高見)、関東(新治)になる。そのため、炭素年代測定法で求められた東北(日高見)、関東(新治)の稲作の開始年代は、紀元前350年~紀元前250年(下表参照、下グラフの緑線部参照)であった。
この結果、ホツマ暦解読年代の先端(古代)に炭素14年代測定法の稲作の開始年代があったことになる。
判定結果「〇」
(注記)
「炭素14年代測定法」に関する事項は、国立歴史民俗博物館より使用許可を頂いております。
2、ホツマツタヱ暦の証明
ホツマ暦、日本書紀(紀年)の新解読年代で、日本の紀元年が証明される。併せて、炭素14年代測定法で求めた稲作の開始年代も記載した。
a、吉田説
稲作の開始、イネの初見、天皇の即位年代を比較した新旧比較グラフ
解説
下グラフの右上の黒線は、日本書紀暦(前半は紀年)の線である。特に、1代~15代の天皇の直線部が紀年と云われ急激に立っている。原因は、1代当たりの在位年数が長いための折れ線グラフである。 それに対し解読されたグラフの左側からイネの初見が記述されるスス暦(青線)、不知火が記述されるアスス暦(桃色)、日本書紀暦(橙線)の年代線は、滑らかに右肩上がりのグラフになっている。
その結果、1代当たりの平均在位年数が約30年前後と近代に近い。九州の太宰府天満宮の宮司39代の平均在位年数が約28年であったと云われている。
グラフ
Y(縦)軸、初見・即位年代
X(縦)軸、初見・即位のNO,と項目(上表のNO,を示す)
炭素14測定
1稲作開始、九州北部、2、3、4、5、6瀬戸内海西部、7、8、9河内、10、11、12奈良盆地、13、14、15中部地方、東北北部、22南関東
ホツマ・イネ、遺跡、自然現象の記述
17 5-12 ゾロの初見(紀元前330年~290年より古い)
18 5-15 ヰツクリ、20 13-36 イネの初見、
36 34-60 ミソコタカラノミカラヌシ(紀元179年~紀元180年)
38 37-10 ハシモノ、40 38-65 不知火
ホツマ、アマカミ(天神)の初見
16 4-24 アマテル神の生まれ(紀元前330年)
19 6-25 ヲシホミの生まれ、21 20-20 キヨヒト、23 25-17 ウツキネ、24 26-14 カモヒト、25 27-64 タケヒト
ホツマ、日本書紀のスメラギ(天皇)の即位
26神武天皇(紀元前133年)
27綏靖天皇、28安寧天皇、29懿徳天皇、30孝昭天皇、31孝安天皇、32孝霊天皇、33孝元天皇、34開化天皇、35崇神天皇、、37垂仁天皇、39景行天皇
日本書紀のスメラギ(天皇)の即位
41成務天皇、42仲哀天皇、43神功皇后、44応神天皇、45仁徳天皇、
46履中天皇(紀元399年)
47反正天皇、48允恭天皇、49安康天皇、50雄略天皇、51清寧天皇、52顕宗天皇、53仁賢天皇、54武烈天皇、55継体天皇、56安閑天皇、57宣化天皇、58欽明天皇、59敏達天皇、60用明天皇、61崇峻天皇、62推古天皇
Ⅱ、ホツマツタヱの証明
三十九宝(銅鐸)
ホツマには34アヤ-60に、「ミソコタカラノ ミカラヌシ」の文章がある。故慶長氏は「弥生時代の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸」について、日本書紀の崇神紀「甘美御神 底宝御宝主」の文が「ミソコタカラ ミカラヌシ」に当たるとして、39個の銅鐸(ミカラヌシ)と訳した。また、吉田はホツマ暦(スス暦、アスス暦)、日本書紀暦を研究し「三十九宝」の文の年代を紀元179年~紀元180年(紀元2世紀)と解明した。
弥生時代
銅鐸
日本史では、「銅鐸」が使用された期間を紀元前2世紀~紀元2世紀としている。
スス暦、アスス暦と考古学年代の対比
ホツマツタヱのスス暦、アスス暦は、縄文、弥生、および、古墳時代に該当した。
ホツマツタヱの歴史評価
ホツマツタヱの暦のオリジナルのままでは、年代の比較はできない。だが、自然科学を基準にした暦法でホツマ暦、日本書紀暦を解読した解明暦の年代に変換することで西暦に換算され、多くの日本の国民が目にすることができることが証明された。
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(以上)
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
更新日 令和5年4月11日(火)
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