日本書紀に隠された 古代天皇の秘密

日本書紀に隠された 古代天皇の秘密



日本書紀に隠された 古代天皇の秘密本の表紙

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本の題名 「日本書紀に隠された 古代天皇の秘密」

 平安時代より誰も解けなかった神武天皇の127歳などの異常な年齢の原因。初期の12人の天皇の内、日本書紀に年齢が記載されている7人を見ても、57歳~140歳、平均約105.6歳と異常年齢であった。その内100歳以上が5人であった。(日本書紀)近代、現在人と比較しても異常な年齢である。これが、日本の歴史の実態であり、「古代天皇の長寿の秘密」である。その秘密をホツマ研究者の筆者が解読した。その手法は、二つの方法です。1つはホツマの記述をヱトで解読。二つ目は自然科学を元に月令で解読しました。「まさか!!」と思われる人は、本を手に取り、解読方法を吟味して は如何でしょうか。是非、長寿の秘密の解読を楽しまれることをお奨めします。

2019年12月1日~ 発売中 (自費出版)

本の仕様 : 自費出版 A5×120頁

書籍番号 :  ISBN978-4-9909679-4-9 (国会図書館寄贈済) 

本  代 : 価格4,030円 

CD版  : 価格2,280円 

 

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 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄


単行本「日本書紀に隠された 古代天皇の秘密」の発売に対する挨拶文

本書の紹介 

 本書は、日本書紀暦、ホツマツタヱ(古代文字の文献)暦が、太陽暦に基づかない太陰太陽暦であることを証明し、誰も解明できなかった紀年の原因である2倍暦を解明した本である。その2倍暦の解明を始めた動機は、幼少の頃より日本の起源とされる年代が「自然科学を基準に語られてないのでは」との疑問があった。そして、約30年前より記紀、同暦日原典などの文献に記述される暦法の精度を調査して来た。また、最たる疑問の個所は古代天皇の年齢であり、初期の12人の天皇の内、年齢が記載されている7人を見ても、57歳~140歳、平均約105.6歳と異常年齢であった。その内100歳以上が5人であった。(日本書紀)この異常な年齢について、昔から多くの歴史学者が2倍暦説を唱えていたが、未だ原因が不明であった。 そのため、筆者は約25年前よりホツマツタヱ(古文献)に出会い、年、月、日、日ヱト(注1)と自然科学とを比較研究して来た。そんな中に年、月、日、日ヱトと月令を対比することで、ホツマツタヱのアスス暦の御世において、自然科学を基準した暦が隠れていたことを見出した。その結果、古代の天皇の年齢が異常に計算されていた個所の近傍の事象を見ると、逆に、太陽暦を基準としない太陰太陽暦である事象が残されていた。そして、今まで誰でも不思議に思っていた神武天皇の年齢が127歳であったことが、幻であったことを究明した一瞬でもうあった。(注1)日ヱト(日の裏付けとなるヱトのこと。以後、日ヱトと略称する。)

ホツマが再発見される以前の日本史

奈良時代~江戸時代

 720年編纂の日本書記には日本の起源となる神武天皇の御世年が記載されていたが、シナ(支那)の周王や西暦年と対比した記述は見られなかった。また、1036年以降の「日本紀略」にも他国の書との比較した年代は記載されてなかった。他国との年代比較が初見されるのは、遣隋使、遣唐使以後の1094年(寛治八年)に編纂された「扶桑略記」からであった。その書には、神武天皇57年、綏靖天皇2年にシナ(支那)暦、儒教者の生まれ歳、天竺の迦葉菩薩の名を記述していた。また、神武天皇元年をシナ(支那)暦と対比した記述は、1343年改訂の神皇正統記からであり、「神武元年が恵王の17年(西暦換算_紀元前660年)に當たる」と記述していた。なお、日本書記に記述されていた「景行天皇18年五月朔の条に不知火が現れた」とする記述は、日本紀略、扶桑略記には未記述であった。また、平安時代~江戸時代まで文献「1159年・本朝世紀、1343年神皇正統記、1426年・本朝皇胤紹運録、1521年・先代舊事本紀、1652年・日本王位一覧、本朝年代考鑑」を調べて見たが、歴史書としての年代は記述されていたが、「自然現象である景行天皇の御世に不知火が現れた」とする記述は未記載であった。このことより奈良~江戸時代までは、日本の紀元(起源)年の比定に力点が置かれていた。そのため、紀年の原因を調査した記録は発見できなかった。

明治時代

 明治時代はヨーロッパの先進国に追いつけと洋学の導入が計られ、文化、科学、歴史などの面に大きな進展が見られた。その中でも従来の太陰太陽暦より明治5年に太陽暦の導入が行われたと聞く。その太陽暦の導入に当たって、歴史学者の那珂通世が残した「上世年紀考」を見ると、中国史の『支那通史』、シナ(支那)王朝と本朝との年齢、在位期間を比較しており、二つとも本朝の方が二倍以上長かったと記載していた。このことより、那珂通世は明らかに本朝の創世記は2倍暦であることを知っていた。だが、暦日より2倍暦を解読したとする内容は見当たらなかった。当時の情勢より判断すると、日本の紀元(起源)の比定が優先したと思え「年紀の推定は、古史考究の必要より出ずたる者にして、神武紀年の公語を改めんとするには非ず。」とし、神武元年の紀元前660年を追認していた。このため、那珂通世も自ら認めていた日本書紀の2倍暦の是正さえも封印され、百歳以上の天皇が追認された。 なお、日本書紀暦(紀年)を冷静に読み解くと、太陰太陽暦であることは認められるが、古代天皇の内、初期の12人中年齢が記載されている7人の年齢が、57歳~140歳、平均約105.6歳。その内100歳以上が5人である事象より、古代天皇の年齢などは太陽暦での年代の事象でなかった。

昭和時代

 昭和時代になるとこれまでの日本書紀暦の研究が、暦法で証明されて、急激に進展した時代になる。そして、小川清彦先生は論文「付・日本書紀の暦日に就て」の中で、「不明な古代の暦日を日本書紀が編纂された当時の新輸入の儀鳳暦で推算するは極めて自然な行為・・。」と述べられていた。これは、古代の暦日が暦法に叶っていたことを暦法上に証明されていた。だが、2倍暦を解読したとする文章はなかった。 反面、古代天皇の異常な年齢より判断すると、不自然な時代の暦法の計算であることを意味していた。そのことより、「太陽暦に基づかない太陰太陽暦」が証明されていたことになる。そのため、本書では「太陽暦に基づかない太陰太陽暦」として日本書紀暦(紀年)を扱うことになる。また、日本書紀暦(紀年)などを根拠とする年代は、昭和の終戦と共に、教育の場に登場しなくなって久しい。

ホツマツタヱの歴史的役割

 重複になるが、前述のようにホツマが再発見される以前の日本史文献には、日本の紀元(起源)の比定や歴史書としての年代の記述が主であり、自然現象の不知火が現れたとする年代の記述は抹消されていた。このため、1000年前より自然科学や太陽暦と対比できる日本史の検証はできなくなっていた。そして、誰もその根拠を説明できなくなっていた。 20世紀(昭和)中頃になり古代日本史の再研究に火を付けたのが松本善之助氏である。氏は1966年に神田の古書店でホツマツタヱを再発見するや、氏に師事した研究者によりテーマ「自然科学との対比」、「遡り年の研究」が行われた。その研究は長きに渡ったが、約25年後に2倍暦の原因を究明するまでに至った。振り返って原因の判明を遅らせた要因を考えると、国書が編纂される度に自然現象(望の記述ら)や生理学(胎生期間ら)などの抹消されていたため、後に編纂された文献などで研究せざるお得なかった。そのため、後の歴史学者は不幸なことに世界に通用しない日本書紀暦(紀年)で研究したことになる。 本書では、ホツマツタヱの暦の研究を中心に2倍暦の解読概要を掲載し、更に、日本書紀暦(紀年)での原因を解説し、将来古代史が見直される場合に備え「ホツマツタヱの歴史的役割」の一旦を述べさせて頂いた。御一読して頂けると幸甚です。

その他は、「日本書紀に隠された 古代天皇の秘密」本をご覧下さい。

 吉田六雄

 令和1年10月27日  横浜の自宅にて

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