天照太神の初め 紀年で紀元前1000年、太陽暦で紀元前330年が起源だった

天照太神の初め 紀年で紀元前1000年、太陽暦で紀元前330年が起源だった

日本の起源について

概要

 神武元年(辛酉)は、後世の逆推に基づくもので、推古天皇以前1200余年の辛酉の年に置き、辛酉革命と云える讖緯家の説より伝わると云われております。だが、真実でしょうか。

 だが、日本の国には不思議にも天照太神を創始とする伊勢神宮が存在します。そこで、私はこの神武天皇と天照太神の存在をホツマツタヱより一旦離れて、国書文献を過去に遡って調べて見ました。

 すると、現実には、600年頃より始まった遣隋使(600年・推古8年)、遣唐使(894年・寛平6年~907年)らによる日本の国際化にを元に、日本の起源年の追求が始まっていたのです。その影響が、720年に編纂された日本書紀の漢字記述になって現れ始めました。また、タケヒトのスメラギの称号も藤原仲麻呂らにより約760年頃に、和風諡号から漢風諡号に変更され神武天皇と改訂されておりました。

 更に。その日本の起源年の設定の過程を調べて見ますと、日本の建国年がシナ(支那)暦の何年になるかも検証されたようです。そして、当時のシナ(支那)暦は太陽暦でした。だが、遣隋使、遣唐使が持参したスメラギ(天皇)の暦は、現在で呼ぶ所の「紀年(非太陽暦)」でした。

 だが、その違いを比較する暦のツールを持ち合わせていなかった使者らは、当時の今年を起点にせざる得ず、神武天皇の初年まで遡った年表を作成せざるを得なかったことになりす。(本来は、アマテル神の生まれ年が日本の起源に最適ですが・・・。)

 そして、和暦の神武暦とシナ(支那)暦の「神武天皇元年と東周の五代恵王の十七年」との対比が古代日本で最初に行われたのは、遣唐使派遣が終了(907年)後の1094年の「扶桑略記」でした。また、1343年の「新皇正統記」には、明確に二者が対比して書かれておりました。このことは、国会図書館の蔵書より説明できます。

700年代~1600年代の国学文献について、

    紀年、和暦、シナ(支那)暦の対比状況の調査結果、

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和暦とは、

 新皇正統記などには、ホツマに記述される鈴枝穂を換算した大きい暦穂の数字と同じ値が記載されていた。

          扶桑略紀の抜粋と解説

 先に、神武57年がシナ(支那)の周の定王3年に生まれた「老子」と対比されていた。

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          新皇正統紀の抜粋と解説

 神武元年(辛酉年)とシナ(支那)の周の17代、恵王17年と対比されていた。

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 このような結果が、後に前後の経過が省略されて、神武元年の紀元前660年説が辛酉革命説に発展していったとも考えられます。だが、この様にして、日本建国の国際年が決まった日本であったが、・・・・・。

 欠点は、神武天皇~16代までの天皇において、大多数が崩御歳が100歳を超えていたことです。このため、紀年と云われる国際的に通用しない日本の起源年であったことです。

 今では、スス暦、アスス暦、日本書紀暦が解明され、アマテル神の生まれが西暦の紀元前330年、神武天皇初年が紀元前133年であったことが判明しております。。その暦を解明する大きい根拠の一つに、筑紫巡幸で見られた不知火が景行天皇18年の旧暦五朔であるのに対し、江戸時代~昨今の不知火町に現れる不知火は、旧暦八朔であることです。この違いの原因は、暦が紀年(太陰非太陽暦)と太陰太陽暦の違いであったことです。このことは、近代の学者も気付いてないと云うより研究する学者もいないようです。では、なぜ、筆者が解析できたかです。それは、過去に比べて、現在では、大きく分析力が向上していることです。それと、解読したいと云う信念です。

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紀元前1000年であった根拠の抜粋

日本王代一覧

 神武天皇元年は、西暦660年と云われるが、その前に、シナ(支那)の暦と比べていた。

本朝年代考鑑                  ⇒○シナ(支那)の暦      

(1)江戸時代に、地神の天照大神~不合尊の五代の年代について

    不合尊の左列の記載 ⇒〇自伏□至此二万四百六十年也

    神代暦→シナ(支那)暦で解説されていた記録があった。

    不合尊の左列の記載 ⇒〇自周武王元年 至此四百七十二年  

(2)人皇の初代神武の年代

    神武元年をシナ(支那)暦で表示していた。

    神武元年の左列の記載⇒〇神武元年東周五代恵王十七年當

そして、神武天皇より「二万四百六十年」古いため、天照太神の起源の紀年を計算して見ると、紀元前1001年が想定された。

=神武元年の紀年・紀元前660年 + 自伏□至此二万四百六十年也(遡年の20460年)

= -659年 + (-341年)

= -1000年

= 紀元前1001年

 だが、この紀元前1001年は、太陰太陽暦、または、太陽暦で計算されてないため、世界に通用しない。そのため、吉田説の太陽暦、自然科学で、改めて計算し直した。すると、紀元前330年に計算された。 

 この紀元前330年と直接に比較できないが、かの(彼の)日本書紀暦日原典を編纂された内田先生は、シナ(支那)においても干支が使用されたのは、紀元前3世紀頃と「ある暦本」の解説で述べておられた。比較はできないが、今後、アマテル神が生まれた紀元前330年は研究するに値する年と思われる。


紀元前330年であった根拠の抜粋

太陽暦、自然科学での年代計算

天照太神の起源を太陽暦に換算し計算する。(吉田説)

=神武元年の太陽暦・紀元前133年 + 自伏□至此二万四百六十年也(遡年の20460年)

= -132年 + (-197年)

= -329年

= 紀元前330年

上記の-132年については、ホツマツタヱ スス暦、アスス暦の正体(hp)をご覧下さい。ここをクリックして下さい。 

 詳しくは、下記の論文をご覧下さい。

 また、原稿をワードのPDFで読みたい方は、ここをクリックして下さい。 


・・・・・・・・・・・・論文・・・・・・・・・・・・・・

 更新2022年 2月22日

 2019年 1月27日

 2019年 1月 9日



日本書記では神話とされる天照太神   

 天照太神の初め 紀年で紀元前1000年、太陽暦で紀元前330年が起源だった 

 シナの太陽暦年に非太陽暦の和暦年が置き換えられた

 そのため、神武元年が紀元前660年になる紀年になった

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

本文・目次

 はじめに

 紀元前660年の比定

 天照太神の御世の初めは、紀元前1000年であった

調査結果・目次

Ⅰ、紀元前660年の比定

 1、日本長暦より25年前に比定されていた

 2、比定した張本人は、誰か

 3、林羅山が見た資料

 4、定説の紀元前660年を再現する

 5、在位年数に異常が見られる定説年表

Ⅱ、更に、紀元前660年より古い年代を記述していた本朝年代考鑑

(1)地神五代の不合尊の左欄

(2)人皇の初代神武の左欄 

1、近代の年表に反映されてない地神の二行を解読する

1)自伏□至此二万四百六十年也

(1)隠れていた341年は何を意味するかの検証

(2)二万四百六十年の数え始めの検証

(3)林羅山は、二万四百六十年をシナ(支那)の何年と対比したかの検証

2)自周武王元年 至此四百七十二年 

2、近代の年表に反映されていた「神武元年と東周五代恵王十七年」を解読する

3、和暦の二万四百六十年は、シナ(支那)の太陽暦で 341年のことであった。

(1)地神五代の不合尊の左欄

(2)人皇の初代神武の左欄 

1) 上記の三行の考察 

(1)項の地神の二行は、近代の年表に反映されてないようである。

(2)項の人皇行の周五代恵王17年を西暦換算すると紀元前660年であった。

2) 三行を統計的に見る

3) 日本とシナ(支那)の年数と王位人数の対比

4) 二万四百六十年の意味

5) 天神、地神の12人の経過年数をシナ(支那)暦に換算

6) シナ(支那)暦の約339.56年は、二万四百六十年と同じか

7) 二万四百六十年のシナ(支那)暦の整数表記は、341年であった

8) 341年の数え初めは、国常立か、天照太神か

9) 人皇の暦と地神の暦との対比

Ⅲ、紀元前660年より前述の二万四百六十年、四百七十二年を西暦年で検証

1、日本、シナ(支那)の暦の数え初め年

2、日本、シナ(支那)とも、暦の数え初めは、太陽暦であった

Ⅳ、日本の神話~人皇30代までの一人当たりの在位年数で検証する

Ⅴ、江戸時代以前の文献における「紀元前550年以前」の年数の記述調査

江戸時代

 本朝年代考鑑の本文より抜粋

江戸時代以前

神武元年のシナ(支那)暦比定

抜粋された6件の古文献

 ・1521年、先代舊事本紀

 ・1426年、本朝皇胤紹運録  

 ・1343年改訂、神皇正統記

 ・1159年、本朝世紀 

 ・1094年、扶桑略記

 ・1036年以降、日本紀略 

Ⅵ、まとめ

1、人皇の時代

2、人皇以前の神話の時代

 1)シナ(支那)の国の初めを1132年と想定

 2)日本の国の初めを紀元前1000年と想定していた

 3)国の初めを紀元前1000年とした場合の問題点

 4)2倍化暦が修正されなかった原因

 5)日本史の年表に望むこと



本文

はじめに

 日本書記の神武天皇元年の章を見ると、「辛酉年春正月、庚辰朔、天皇、即帝位於橿原宮。(辛酉の年の春正月、庚辰の朔の日、天皇、橿原の宮に即帝位らしたまひき。)」と、記述していることはすでに周知の事実である。だが、その日本書記にも辛酉の年が、シナ王また西暦で何年になるかは記述してない。だが、神武天皇元年の辛酉の年は、現在では西暦・紀元前660年と比定されている。そのことは、江戸前期の暦学者である渋川春海が延宝5年(1677年)編纂した「日本長暦」において、西暦の紀元前660年と比定されたと云われている。それでも、渋川春海が比定したことには疑問が残った。そこでホツマ研究者が更に調べて見ると、違う比定者がいたことが判明して来た。



紀元前660年の比定

 その比定者を古文献に遡って調べると、1094年編纂の扶桑略記に老子、孔子が生まれた年を日本書紀の紀年とシナ(支那)暦とを対比していた。更に、1343年改訂の神皇正統記には、神武元年が恵王17年に當たると記述していた。そこで、恵王17年を西暦に変換すると、紀元前660年のことであった。すると、渋川春海より583年も前に比定していたことになる。



天照太神の御世の初めは、紀元前1000年であった

 それに対し本朝年代考鑑の天神、地神、人皇らの記述を見ると、日本の国の初めを「自伏□至此二万四百六十年也」と記述していた。そこで、二万四百六十年の意味を解読するため、二万四百六十年の太陽暦を「X」として計算すると、日本の天神7人、地神の5人に対し相対するシナ(支那)の王位16.68人の経過年数472年(太陽暦)になる。そして、「X」を求めるため比例計算すると、「X」は太陽暦で339.56年になる。歴史年数の表示は整数であるため、二万四百六十年を干支の60で割り算した341年(太陽暦)であることがわかる。 それにしても、日本の国の初めは、神武元年と云われていたが、紀元前660年より341年遡った紀元前1001年相当の「二万四百六十年」を、天照太神(アマテル神)をして、本来の日本の国の初めと比定した江戸時代の儒学者には驚かされた。

以上、概要を述べたが、詳細な調査結果については、下記をご覧下さい。



調査結果

Ⅰ、紀元前660年の比定

1、日本長暦より25年前に比定されていた

 渋川春海の比定に疑問が残るため多くの資料を調べて行く内、骨董市で買い求めた資料に、その比定を覆す文献を発見した。それは、「日本長暦」が編纂された延宝5年(1677年)より25年も早い、慶安5年(1652年)に林鵞峰が編纂した日本王代一覧(全7巻)であった。その「巻之一」には、神武元年とシナ朝の年代をすでに対比しており、「天皇在位七十六年ニシテ。崩御マシマス御年百二十七 此御代ノ元年。異朝ニテハ 周ノ恵王ノ十七年ニ當レリ」と記述されていた。



2、比定した張本人は、誰か

 更に、林鵞峰の書に対し「神武天皇の元年を周の恵王17年(紀元前660年)」に比定させた張本人は「誰だろうか」との疑問が新たに残った。そして、これまでの調査結果より「紀元前660年」を比定させた張本人に、当初は、林羅山ではないとかと推定した。

 そこで、林羅山の経歴を調査して見ると、羅山は「江戸時代に訪問した第一回以降の朝鮮通信使の応対役を勤めた」蘭学者であった。朝鮮通信使の来日時期と林羅山が歴史書を編纂した年を対比して見ると、やはり、1643年の第5回目の通信使が来日した、その1年後の1644年に羅山らにより「本朝編年録」が編纂されていた。このことで林羅山が「神武天皇の元年を周の恵王17年(紀元前660年)に比定」させた張本人であると思えた。

年代順

慶長12年~寛永20年(1607年~1643年)  朝鮮通信使 第1回~5回 

正保元年(1644年)林羅山が「本朝編年録」を編纂。(本録は1657年大火で焼失。)

慶安5年(1652年)林鵞峰が「日本王代一覧」を編纂。

寛文10年(1670年)林羅山、林鵞峰が本朝通鑑を編纂



3、林羅山が見た資料

 そのため、林羅山は、朝鮮通信使より「どんな資料を見せられたのだろうか」と疑問が発生する。そこで林羅山が編纂した「本朝編年録」の内容を見ようとするが、1657年の大火で焼失し現存してなかった。そこで、Webで国文学研究資料館の館蔵和古書画像を見ると、「本朝年代考鑑」に年表を掲載していた。

 この本朝年代考鑑の年代表は、天神七代~江戸時代の文政八年(1825年)を掲載していた。従って、この年表は、林羅山が正保元年(1644年)に「本朝編年録」を編纂した当時の 一次資料ではなかった。だが、同年表は天神七代、地神五代、人皇(初代神武~三十四代推古天皇)の在位年数を掲載しているため、羅山が「神武天皇の元年を周の恵王17年(紀元前660年)」に比定させたとするには充分の資料と思えた。



4、定説の紀元前660年を再現する

定 説では、「推古天皇10年より遡った神武天皇元年を紀元前660年とした」とされるが、今回、本朝年代考鑑に掲載される各天皇の在位年数を加算するとし1260年になる。そして、遡り年の起点は推古天皇10年(西暦602年)とされるため、602年より1260年を差し引くと、-658年になる。なお、西暦の0年はないため-659年になり、紀元前660年の計算年が再現する。



5、在位年数に異常が見られる定説年表

 そこで注目したいことは、初代神武天皇から10代毎に区切った累計在位年数を見ると、 1~10代の在位年数は631年、11~20代の在位年数は482年、21~30代の在位年数は 116年と、古代の天皇の在位年数が長い傾向になっていた。具体的に見ると、初代神武天皇~17代仁徳天皇までは1059年になり、1人当たり62.29年と異常に長かった。この初代~17代までが2倍化暦であった。

 

Ⅱ、更に、紀元前660年より古い年代を記述していた本朝年代考鑑

 本朝年代考鑑を見ると右上に、天神七代、地神五代、人皇までの各々神名が記述されていた。そこに、想像をしてない記述の特記があり、(1)地神五代の不合尊の左欄と、(2)人皇の初代神武の左欄に、次の文章が記述されていた。

 

(1)地神五代の不合尊の左欄

 〇自伏□至此二万四百六十年也

 〇自周武王元年 至此四百七十二年

(2)人皇の初代神武の左欄 

 〇神武元年東周五代恵王十七年當・・・(ご参考)この項は「日本王代一覧」に記述あり。

 

 そこで、上記の三行について、ホツマ研究者として解説を試みて見た。すると、(1)項の地神の二行は、近代の年表に反映されてないようである。(2)項の人皇行の近代の年表に反映されていた「神武元年と東周五代恵王十七年」を西暦換算表と対比すると、紀元前660年のことであった。このことから、神武元年を660年に比定していたことが判明する。

 

1、近代の年表に反映されてない地神の二行を解読する

 

1)自伏□至此二万四百六十年也

 まず、「自伏□至此二万四百六十年也」を直訳すると、「自伏(ころふす)□(義の文字か)に至る、此れまで二万四百六十年也」と仮訳される。更に、見慣れない数字の二万四百六十年の解読に挑戦して見た。そこで不明な数字は、私の経験則で最小公倍数を求めることにしている。

 そして、整数の2、3、2、5で次々に商を割り算して行くと、341年が隠れていることが判明する。また、二万四百六十年の最大公約数を求めると、2×3×2×5の積の60になった。そこで、二万四百六十年を60で割り算すると同じ341年となる。

 

(式)

 2で割り算  20460年÷2=10230 

 3で割り算        10230年÷3=3410年 

 2で割り算             3410年÷2=1705年

 5で割り算                  1705年÷5=341年 

 最大公約数60 (2×3×2×5)

        20460年÷60=341年

 

(1)隠れていた341年は何を意味するかの検証

 「二万四百六十年」は地神最後の五代不合尊の後の欄に記述されていた。このことから、二万四百六十年(341年)の意味を考察すると、二項目が考えられ、一つ目は地神五代の在位年数を表す年数か、二つ目は地神五代、天神七代を含めた在位年数を表す年数かと推定された。

 いずれにしてもこの二万四百六十年は、1年を60倍にされた暦で運用していたと思われ、古代に有りがちな1日、1年の数え方が近代と違う暦法であった。

 

(2)二万四百六十年の数え始めの検証

 それにしても、二万四百六十年の暦の数え初めが地神か、または、天神であったかである。一般的に古代のため不明になりがちである。だが、ホツマ研究者としては、不明な場合は普遍な尺度を採用するようにしている。この場合は暦であるため、自然現象より作られた太陽暦と対比して考察して見ると、二万四百六十年の60分の1の341年が在位年数となり、天神、地神の12人で割り算すると、一人当たりの在位年数28.4年になる。また, 地神の5人の場合は、一人当たりの在位年数68.2年の異常値になった。

 

(3)林羅山は、二万四百六十年をシナ(支那)の何年と対比したかの検証

 ここからは私の推論になるが、林羅山らは世界の趨勢を知るため渡来した朝鮮通信使に対しシナ(支那)のことを質問したと思える。そして、林羅山が提示した「日本の歴史の初めは、天神の初代神の国常立(クニトコタチ)尊」とし、その後の年代を「二万四百六十年(341年)」と提示した。それに対し朝鮮通信使は、シナ(支那)の年代において、ある程度に明確な周の初代王からの王位一覧を提示して来たと思える。そして、朝鮮通信使が提示した年代は「自周武王元年 至此四百七十二年」であった。

 このような背景より林羅山が、二万四百六十年の経過年数をシナ(支那)の周王と対比しておれば、一人当たりの在位年数がほぼ同じになる天神の初代神の国常立(クニトコタチ)尊を「暦の数え初め」としていたものと推定する。また、反対にシナ(支那)と対比してなければ、天照太神(アマテル神)が国の初めとなっていたものと思われる。

 

2)自周武王元年 至此四百七十二年 

 「自周武王元年 至此四百七十二年」を直訳すると、「自ら周の武王の元年から至る此の年は四百七十二年になる」と読め、翻訳すると「シナ(支那)の初めは、周王の初代武王からであり、ある王までは472年」と仮訳される。そこで、近代のシナ(支那)暦に照らし合わせて見ると、「武王(周)は、紀元前1046年に殷を滅ぼし、周を建国したと云われる。

 なお、周武王元年の西暦が不明のため、殷が滅ぼされた紀元前1046年を武王の元年と仮定して計算して見ると、その紀元前1046年から472年後の西暦は紀元前574年になる。その時の周王を推定すると、22代.簡王(在位紀元前586年~紀元前572年)になる。そこで、22代の一代当たりの在位年数を計算して見ると、武王元年から472年間を22人で割り算代すると、21.4年/人になる。また、近代に年代が判明している周の11代宣王(前828年)~17代恵王(前652年)の7人について、計算すると一代当たり25.1年になる。

 

2、近代の年表に反映されていた「神武元年と東周五代恵王十七年」を解読する

 人皇の初代神武天皇の左欄に、「神武元年 東周五代恵王十七年當」が記述されている。この文章を近代の西暦に換算して見ると、神武元年は周王の武王元年(推定紀元前1046年)から後の五代の恵王17年(紀元前660年)に當たると記述されていた。この間の年数は389年間になる。なお、武王から恵王までの人数は17人であるため、一人あたりの在位年数は 22.6年となる。この22.6年は諸外国の太陽暦で求められた在位年数とほぼ同じような年数であった。重複するが、周王の五代恵王17年は紀元前660年になる。

 

3、和暦の二万四百六十年は、シナ(支那)の太陽暦で 341年のことであった。

(重複文)

 本朝年代考鑑を見ると右上に、天神七代、地神五代、人皇までの各々神名が記述されていた。そこに、想像をしてない記述の特記があり、(1)地神五代の不合尊の左欄と、(2)人皇の初代神武の左欄に、次の文章が記述されていた。

 

 本文より抜粋

(1)地神五代の不合尊の左欄

 〇自伏□至此二万四百六十年也

 〇自周武王元年 至此四百七十二年

 

(2)人皇の初代神武の左欄 

 〇神武元年東周五代恵王十七年當・・・(ご参考)この項は「日本王代一覧」に記述あり。

 

1) 上記の三行の考察 

 この三行は個人的には、初めて見る記述である。だが、過去の知識と比較して見ても、  

(1)項の地神の二行は、近代の年表に反映されてないようである。

(2)項の人皇行の周五代恵王17年を西暦換算表と対比すると紀元前660年であった。

 

2) 三行を統計的に見る

 まず、(1)項の二行の年数を統計的に観察すると、(1)地神五代の不合尊の「自伏□至此二万四百六十年也」と「自周武王元年 至此四百七十二年」は、日本とシナ(支那)の同年代を掲載し対比していると思える。また、対比の基準年は、(2)人皇の初代神武の「神武元年東周五代恵王十七年當」のようである。そして、神武元年、恵王十七年の基準年より同じ年数を遡った年が、日本とシナ(支那)の国初めのようであり、日本の国常立(クニトコタチ)、および、シナ(支那)の周王の武王の国初めと思える。

 

3) 日本とシナ(支那)の年数と王位人数の対比

 だが、対比すると云っても年数のみでなく、その間の王位の人数も関係してくる。そこで、(2)人皇の初代神武の「神武元年東周五代恵王十七年當」を満足する王位の人数は、日本が天神、地神の12人、そして、シナ(支那)が武王~恵王までの17人である。だが、神武元年は恵王17年のため、恵王の人数は17年÷在位年数25年の0.68人分となる。

 また、対比の見極めとして、同じ暦法であるか否かである。同じ暦法か否かの検証は、「一人当たりの在位年数」が同数か、近いか、また、大きな違いかで判別できる。

以上の条件を満足する対比(比例)式は、

日本の年数   :シナ(支那)の年数 = 神の人数 : 王の人数

二万四百六十年 : 四百七十二年   =  12人 : 16人+(17年÷25年)人

となる。

 だか、対比(比例)の式は、構築できても、肝心な二万四百六十年の意味が不明である。また、西暦などの近代暦と対比しても意味が不明である。

 

4) 二万四百六十年の意味

 二万四百六十年が掲載している欄は、地神の不合尊の左欄であることはすでに述べたが、本朝年代考鑑の年表は、天神七代、地神五代より掲載されている。そして、地神の不合尊の左欄に掲載されていることは、天神七代、地神五代の年数が二万四百六十年になると解釈できるようだ。

 

5) 天神、地神の12人の経過年数をシナ(支那)暦に換算

 そこで、シナ(支那)の年数の四百七十二年と王位の人数の16.68人より、日本の天神、地神の12人の経過年数を「X」とした場合の経過年数を推測して見る。そして、対比(比例)式を構築すると、

 対比(比例)式、

  日本の年数  :シナ(支那)の年数  = 神の人数 : 王の人数

   X     :   四百七十二年  =  12人 : 16人+(17年÷25年)人となる。

 「X」を計算すると、

   X = (四百七十二年 × 12人) ÷ 16.68人

   X = 約339.56年となる。

 

 この結果より、天神、地神の12人の経過年数「X」は、シナ(支那)暦に換算すると約339.56年のことになる。

 

6) シナ(支那)暦の約339.56年は、二万四百六十年と同じか

 約339.56年は、少数部を含む年数である。それに対し二万四百六十年は整数である。当然、暦の年代表記は整数であるため、約339.56年でないことになる。

 

7) 二万四百六十年のシナ(支那)暦の整数表記は、341年であった

 以前より、見慣れない数字、不明な数字は、私の経験則で最小公倍数を求めることにしている。そこで、二万四百六十年の解読に挑戦して見た。そして、整数の2、3、2、5で次々に商を割り算して行くと、341年が隠れていることが判明する。

 また、二万四百六十年の最大公約数を求めると、2×3×2×5の積の60になった。そこで、二万四百六十年を60で割り算すると同じ341年となる。この341年は、先に求めた約339.56年との異差は僅かに1.44年であった。このことより、二万四百六十年をシナ(支那)暦への換算は、暦日的に341年となる。

 

(重複文)

 最小公倍数の計算

(式)

 2で割り算  20460年÷2=10230 

 3で割り算        10230年÷3=3410年 

 2で割り算             3410年÷2=1705年

 5で割り算                  1705年÷5=341年 

 最大公約数60 (2×3×2×5)

        20460年÷60=341年

 

8) 341年の数え初めは、国常立か、天照太神か

 341年を天神7人、地神5人の12人で割り算すると、一人当たりの在位年数は約28.41年/人になる。シナ(支那)暦では、472年÷16.68人のため、約28.29年/人になる。

 式は、

  一人当たりの在位年数 = 341年 ÷ 12人

  一人当たりの在位年数 = 約28.41年/人

 

9) 人皇の暦と地神の暦との対比

 人皇の1~10代までの一人当たりの在位年数を調べると、63.1年/人になる。上記の天神7人、地神5人の12人で計算した一代当たりの在位年数の約28.41年/人は成り立たない。この違いは、暦法の違いが大きいようである。そこで、前述の341年を地神の5人の経過年数と判断し、5人で割り算すると68.2年/人になる。

 式は、

  一人当たりの在位年数 = 341年 ÷ 5人

  一人当たりの在位年数 = 68.2年/人になる。

 

 この結果より、人皇と地神の一代当たりの在位年数を比較すると、63.1年/人と68.2年/人になり、二つの暦は同じ暦法で計算された値になる。このことより、和暦の二万四百六十年は、シナ(支那)暦で341年のことであった。

 

Ⅲ、紀元前660年より前述の二万四百六十年、四百七十二年を西暦年で検証

 

1、日本、シナ(支那)の暦の数え初め年

 これまで、神武元年、周王の五代恵王17年は、紀元前660年と説明して来た。そこで、前述の二万四百六十年と四百七十二年は、西暦の遡り年で何年になるか興味があるところである。そこで、紀元前660年を基準に計算すると、〇自伏□至此二万四百六十年也は、次の計算のように、紀元前1001年の遡り年になる。

 そして、この紀元前1001年は、前述のⅠ、1)、(3)項の「二万四百六十年の数え始めの検証」で記載したように、天神の初代神の国常立(クニトコタチ)尊の国初めか、あるいは、天照太神(アマテル神)の国初めであったと思われる。

 

  =紀元前660年-(20460年÷60)

  =-659年 - (341年)

  =-1000年・・・・・紀元前1001年のこと。

 

 また、〇自周武王元年 至此四百七十二年を上と同じように計算すると、紀元前1132年の遡り年になる。そして、この紀元前1132年は、前述のⅠ、2)項の「自周武王元年 至此四百七十二年」の記述と同様に「シナ(支那)の初めは、周王の初代武王からであり、周の五代恵王の17年までは472年」と翻訳され、改めて、周武王元年を「暦の数え初め」年としていた。

 

  =紀元前660年-(472年)

  =-659年 - (472年)

  =-1131年・・・・・紀元前1132年のこと。

 

 なお、Web情報では、殷が滅ぼされたのが紀元前1046年とされて、周の建国年も紀元前1046年と予想する。だが、今回求めた紀元前1132年と紀元前1046年の間には、86年の差がでるが、今後の研究課題としたい。

 

2、日本、シナ(支那)とも、暦の数え初めは、太陽暦であった

 改めて、二万四百六十年の暦と四百七十二年の暦を見ると、お互いが太陽暦であった。その根拠は、近代の一代の在位年数は約30年と判明している。そして、神武元年以前の天神、地神、および、武王からの周王の在位年数を計算して見た。その結果天神、地神の一人当たりの在位年数の28.4年になり、武王元年から472年間(22人)の一人当たりの在位年数は21.4年/人になる。また、また、周の11代宣王(前828年)~17代恵王(前652年)の7人を計算しても25.1年になる。このことから二つの暦は太陽暦であったことが証明される。

 

Ⅳ、日本の神話~人皇30代までの一人当たりの在位年数で検証する

 近代の年表に反映されてない天神、地神の一人当たりの在位年数、および、参考として人皇1~30代までの一人当たりの在位年数をまとめたのが、下表の「神話~人皇30代の在位年数」である。

 表中を見ると、天神、地神を合わせた時の一人当たりの在位年数は、28.4年であり、表の下部のシナ(支那)の周王の在位年数と同等年数であった。だが、地神のみ、人皇1~20代の在位年数は、異常値を示しており、48.2年~68.2年であった。

bunken

 

Ⅴ、江戸時代以前の文献における「紀元前550年以前」の年数の記述調査

 これまで、江戸時代の1652年に編纂され日本王位一覧、また、本朝年代考鑑より紀元前660年以前の年数の記述を調査して来た。だが、神武元年を紀元前660年に決めたとの文献が江戸時代の本より発見されなかった。そこで、江戸時代以前の文献を調査して見た。

江戸時代

本朝年代考鑑の本文より抜粋

(1)地神五代の不合尊の左欄

 〇自伏□至此二万四百六十年也

 〇自周武王元年 至此四百七十二年

 

(2)人皇の初代神武の左欄 

 〇神武元年東周五代恵王十七年當・・・(ご参考)この項は「日本王代一覧」に記述あり。

 

江戸時代以前

神武元年のシナ(支那)暦比定

 江戸時代に記載されていることは、それ以前の文献を参考にしている筈との確信の元、古代に遡る覚悟で古文献より調べて見た。その古文献は約80冊を数えた。その中より地神、人皇を記載し、紀年、和暦、シナ(支那)暦らが記述された古文献を約700年まで遡って調べて見た。その結果、儒教者が生まれた年、仏教神らを紀年とシナ(支那)暦で併記した1094年編纂の扶桑略記が最も古い記述であるとの確信を得た。そして、その後の1343年改訂の神皇正統記では、「神武天皇元年を周の恵王17年(前660年)に當たる」と比定していた。

 

 この江戸時代以前の二つの文献が元資料となって、その後、日本王位一覧、本朝年代が比定されていったと推定されるようだ。また、1426年編纂の本朝皇胤紹運録には、天神、地神に和暦が記載されていた。だが、この和暦は現在解読できてないのが、本朝年代考鑑にも大きい暦の和暦は記載されてなかった。紀年、和暦、シナ(支那)暦の記載状況について、文献毎に整理したので、下表、抜粋内容をご覧下さい。

bunken

(参考)本朝皇胤紹運録の和暦

 ホツマツタヱのスス暦と同種の暦と思われる。現在、スス暦の大きい暦数字は解読できているため、今後、本朝皇胤紹運録の和暦と対比、研究して見たい。

 

抜粋された6件の古文献

 当該本には、平安時代(794年~1185年)末期にかけた寛治八年(甲戌)に編纂され、シナ(支那)暦、儒教者、天竺の迦葉菩薩の名がある所から、仏教関係者の編纂と思われ、その年代は、神武、綏靖天皇の年代も現在のシナ(支那)暦、西暦と相対する年数であった。

 また、誰が年代を対比したかを推定すると、主体の対比は「老子が生まれた定王三年(前604年)を神武五十七年に当てた」記述、また、「孔子が生まれた靈王22年(前550年)を綏靖32年に当てた」ことなどより、仏教関係者と思える。それに対し、1343年改訂の神皇正統記や1652年編纂の日本王代一覧に見られる「神武元年が恵王17年(前660年)に當たる」記述は、扶桑略記にはまだ見られないことからも裏付けられるようだ。

 

・1521年、先代舊事本紀

 当該本の紀元前550年~紀元前660年以前の記述に、シナ(支那)の周王の記載はない。

 

 

・1426年、本朝皇胤紹運録   引用(国立国会図書館デジタルコレクション)

 当該本の神武天皇以前の天照太神~不合尊までに、和暦で歳や治世の経過年数が記載されていた。但し、シナ(支那)の周王らの記載はない。

 

和暦、シナ(支那)暦の記述

天照大神

 御寿十万五千歳

 

正哉吾勝速日天忍穂尊

 治天百七十万四千三百年

 

天津彦火々杵尊

 治天三十一万千五百四十二年

 

彦火々出尊

 治天六十三万七千八百九十二年

 

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊

 治天八十三万六千三十二年

 

神武天皇

 治七十六年、(崩後三ヵ年空王位)

 

綏靖天皇

 治三十三年

 

 

・1343年改訂、神皇正統記

 当該本では調査年代を広げて、皇孫の瓊々杵ノ尊~前660年~前246年の孝霊天皇までを抜粋して見た。すると、シナ(支那)暦や和暦が併記された記載があった。なお、本朝年代考鑑では、シナ(支那)の国の初めを1132年と想定して来たが、神皇正統記では前1156年となった。

 

和暦、シナ(支那)暦の記述

・・カクテ此瓊々杵ノ尊、・・

 ・・此三人ノ御子ヲバ火モヤカズ、

 ・・此尊天下ヲ治給事三十萬八千五百三十三年ト云ヘリ。

 

・・第四代、彦火々出見ノ尊ト申ス。・・

妹ノ玉依姫ヲ奉テ養ヒ〕マイラセケルトゾ。此尊天下ヲ治給コト六十三萬七千八百九十二年ト云ヘリ。

 

・・第五代彦波激武鵜ガ草葺不合尊ト申。・・

 ・・周ノ代成リテ第四代ノ主ヲ照王ト云キ。ソノ二十六年甲寅ノ年マデハ周ヲコリテ一百二十年。コノトシハ葺不合尊ノ八十三萬年五千六百六十七年ニアタレリ。コトシ天竺ニ釋迦佛出世シマシス。

・・・スベテ天下ヲ治給コト八十三萬六千四十三年ト云リ。コレヨリ上ツカタヲ地神五代トハ申ケリ。

 

人皇第一代、神日本磐余彦天皇ト申。後ニ神武トナズケタテマツル。此御代ノ始、辛酉ノ年、モロコシノ周ノ世、第十七代ニアタル君、恵王ノ十七年也。

五十七年丁巳ハ周ノ二十一代君、定王ノ三年ニアタリ。・・・此皇天下ヲ治給コト七十六年一百二十七歳ヲハシキ。・・・

 

・・第二代、綏靖天皇神武第二御子。・・

 三十一年庚戌ノモロコシノ周ノ二十三代君、霊王ノ二十一年也。

 

 

・・第七代、孝霊天皇ハ孝安ノ太子。・・

 三十六年丙午ニアタル年、モロコシノ周ノ國滅シテ秦ニウツリキ。四十五年乙卯、秦ノ始皇即位。

 

 

・1159年、本朝世紀   引用(国立国会図書館デジタルコレクション)

 承平5年(931年)以降の内容が記述され、神代の記述はなし。

 

 

・1094年、扶桑略記     引用(国立国会図書館デジタルコレクション)

 平安時代(794年~1185年)末期の寛治八年(甲戌)に編纂された「扶桑略記」には、シナ(支那)暦、儒教者の生まれ歳、天竺の迦葉菩薩の名を記述していた。

 なお、景行天皇18年の条に、自然現象である不知火が現れた記述が未記載であった。このため、紀年が2倍化暦であったことも検証ができなくなっていた。

 

和暦、シナ(支那)暦の記述

神武天皇

 五十七年,相當周定王三年,九月十四日子時,老子生歳。【迦葉菩薩,彼稱老子。】

 

綏靖天皇

卅二年辛亥,相當周靈王廿二年,十一月庚子日,孔子生歳。其時子歳四十三歟。【孔子者,儒童菩薩歟。】

 

 

・1036年以降、日本紀略   引用(国立国会図書館デジタルコレクション)

当該本の紀元前550年~紀元前660年以前の記述には、シナ(支那)の周王らの記載はない。

 

 

Ⅵ、まとめ

 

1、人皇の時代

 神武元年は、紀元前660年と比定されていた。その根拠について、以前、林羅山が比定したと推定していたが、前述の調査結果より1094年編纂の扶桑略記にすでに紀年とシナ(支那)暦が対比され、神武元年が紀元前660年になることが確認されていたことになる。

このことから、推古10年(602年)を起点に、1260年遡った紀元前660年を神武元年に比定されていることが再確認された。

 

 (式)

   =(602年―1年)-(1260年)=-659年・・・・紀元前660年

 

 だが、問題は、人皇1~10代、11~20代の在位年数が、68.2年、48.2年と近代の一代当たりの在位年数約30年と比較すると、異常に長かった。

 

2、人皇以前の神話の時代

 

1)シナ(支那)の国の初めを1132年と想定

 本朝年代考鑑には、人皇以前の地神の不合尊の後にシナ(支那)について、「〇自周武王元年 至此四百七十二年」が記載されていた。そして、神武元年と周王の五代恵王の17年を紀元前660年として、472年遡った紀元前1132年をシナ(支那)の初めと想定した。

 

2)日本の国の初めを紀元前1000年と想定していた

 同時に本朝年代考鑑には、人皇以前の地神の不合尊の後に「〇自伏□至此二万四百六十年也」が記載されていた。また、人皇の初代神武の左欄に「〇神武元年東周五代恵王十七年當」が記載されていた。この二つの記述を解読すると、一つは神武元年(紀元前660年)を遡ること341年の60倍の20460年、西暦換算の紀元前1001年を「日本の初め」と考えた節がある。そして、紀元前1000年頃のアマカミ(天神)に、一人目は国常立(クニトコタチ)を国の初めと考えたようだ。そして、もう一人目の国の初めには、天照太神(アマテル神)を想定していたようだ。

 

 そのことを在位年数的に見ると、国常立(クニトコタチ)を国の初めとすると、天神、地神の一人当たりの在位年数は28.4年となりシナ(支那)の周王の在位年数に近い。天照太神(アマテル神)を国の初めとすると、地神の一人当たりの在位年数は、68.2年となり1代~10代の人皇の在位年数に近くなる。林羅山は、日本の国の初めを二人のどちらにしたか不明であるが、日本の国の初めを紀元前1000年頃に設定したことは容易に推定がつき、日本の歴史年代を構築したことは間違いないようだ。

 

3)国の初めを紀元前1000年とした場合の問題点

 そして、日本の国の初めを、シナ(支那)の国の初めと近い紀元前1000年頃に設定したため、その後の人皇の御代の経過年数において、一人当たりの在位年数をシナ(支那)の周王並みとしたかったが、人皇の員数が不足した。このため、人数の不足分を補うため、一人当たりの在位年数を長くなっていた。この結果、人皇1~17代までの在位年数は、シナ(支那)の周王の在位年数に対し約2~3倍と異常に長くなっていった。

 

4)2倍化暦が修正されなかった原因

 日本書記の紀年は知る人が知るように、17代までの天皇の年齢が百歳を超える人数が約60~約70%を占める異常な暦である。だが、日本書記を詳細に研究すると自然現象に合わない記述がある。一番わかりやすい自然現象は、旧暦の八朔に現れる不知火である。だが、日本書記には、何故か、景行18年の五朔、五月初のことと記述されている。

 更に、紀年とシナ(支那)暦が併記されていた扶桑略記、神皇正統記を調べて見ても、最早、景行18年の記述は抹消されていた。このため、紀年の異常年を修正する機会もなく、紀年の2倍化暦が継続されていた。

 輪をかけて、江戸時代の本居宣長は、和暦の記述に対し「そのままを吉」とし、解読するものを批判してきた書物が残されていた。

鉗狂人の記述

 神武紀に此間を一百七十九萬二千四百七十餘歳とす。此年数もとより論ずるにたらず。」と記述しており、その理由は「忍穂耳命よりあなたの年数は。なほいく百萬歳といふことをしらず。さて此年数を論ずるにたらずといふは。」と記述していた。

 それでも、紀年の2倍化暦に気付いた人たちがいた。明治の那珂道世は上世年紀考の中で、隣国の王位と古代天皇を比較し、同じ経過年数において、日本の天皇の人数が極端にすくないことを記述していた。また、                                    

上世年紀考の記述

 「事実にも事伝へにも基きたるに非ず、辛酉革命と云える讖緯(予言)家の説に〇りたる者なり。」と記述しており、神武天皇の元年の紀元前660年が架空の遡り年としていた。

 

5)日本史の年表に望むこと

 上記の原因のように古代人が日本史年表の起源を、シナ(支那)並にしたかったのは「けしからん」が、過ちを平安時代以降に是正せず神武元年を紀元前660年に比定した歴史学者らの行為は、学問上において取り返しが付かない虚像の日本史年表を編纂したことになる。

 責めて、蘭学者の林羅山らが「日本書記」の記述を熟読し、自然科学に基づいて、「八代海の不知火が現れる日を旧八朔」と知っておれば、日本書記に記述される「旧五朔の不知火」の記述は過ちと判定できたと思われる。

 

 なお、日本史年表はすでに1000年前より固定しており、早急な是正は無理であろうが、責めての罪滅ぼしに、真の日本史年表を本朝年代考鑑、ホツマツタヱに基づき編纂されんことを歴史学者に望みたい。

                              (おわり)

参考文献

                               

本原稿は、Web情報を多く参考にしました。詳細名一覧は省略させて頂きました。

  

本朝年代考鑑 

  本朝年代考鑑の年表より、(1)天神七代、(2)地神五代、(3)人皇初代~四代、(4)人皇五代~八代、(5)人皇九代~十二代を拡大コピーしましたので、次のように掲載しました。

daiamond_fuji

daiamond_fuji

(特記)地神五代の不合尊の左欄に、次の文章が記述されていた。 

  〇自伏□至此二万四百六十年也、       

  〇自周武王元年 至此四百七十二年

daiamond_fuji  

(特記)人皇、一代神武天皇の左欄に、次の文章が記述されていた。     

  神武元年東周五代恵王十七年當    

  釈迦入滅ヨリ當元年迠ニ二百九十年ニ至ル

daiamond_fuji

daiamond_fuji

     以上

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