ヤマトタケ ホツマ(国)討ち 西南へて至る 酒折の宮に (2)
ホツマの世界 ヤマトタケ ホツマ(国)討ち 西南へて至る 酒折の宮に (2) New !! 注記、スス暦の西暦年代への換算は、ホームページ「(1)ホツマツタヱ暦学講座」 (2)「日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立」 を引用しました。
平成18年12月1日作成 ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く 西南へて至る 酒折の宮に (1) ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄 ヤマトタケ ホツマ国討ちの足跡を追って ホツマツタヱ文献の第39文は「ヤマトタケのホツマ国討ち」が記載され、歴史的にも人気の高い「章」である。今回そのヤマトタケのホツマ国討ちの足跡を追っているうちに、「西南へて至る 酒折の宮」の文にぶっかった。なぜに「西南」にこだわるかと云えば、現状でも「酒折の宮」の所在地が特定できてないからである。そのため、今回ヤマトタケが通過したであろうか否かを検証することにより、ヤマトタケが訪問した当時の「酒折の宮」の所在地を発見したいと考えている。 「酒折宮」の由来書 (21世紀の初年正月に酒折宮に奉納されもの)
東征への旅立ち 景行天皇朝の40穂6月にホツマ国が騒いだため酒折の宮の大伴武日が、当時の都・纒向(マキムク)・(現)奈良県桜井市に上京して御狩りを乞うた。 39-1文 セミナ月 ホツマ騒げば 酒折の タケヒ上がりて 御狩乞う その申し出に対し、天皇が「臣」を集めた席が開かれた。その席で、ヤマトタケ(コウス・小碓尊)は天皇に申し上げた。「先に家臣と私は西を討ったので、今度は兄のオホウス(大碓
尊)が、東国を征伐する番である」。それを聞いたオホウスは臆病風が吹き、野を逃げ隠れした。このため天皇はやむにやまれずして、再びヤマトタケに「ホツマ国討ち」を命じられた。時にヤマトタケは、「西を平定した間も無いが、また東を平定に出発せねばならない。平定は何時になるかわからないが、たとえ臣が労るとてもホツマ国を平定して来ますのでご安心して下さい。」と雄叫びを上げた。 ヤマトタケは、10月2日吉備タケヒコと大伴タケヒを従えて、都を出発した。途中伊勢のヤマト姫のもとに立ち寄り、「叢雲の剣」と「火水土の払い」を受け、ホツマ国へと向かった
。 (注)ホツマ国・・・静岡県東部~茨城県を含む南関東地区の古代の国を云う。 ホツマ国討ちルート 早速、ヤマトタケのホツマ国討ち時の道順を調べた。余談であるがこの調査のひと時が、ホツマ研究家にとっては最も楽しいひと時であろうか。そのヤマトタケのホツマ国討ちの道順について、ホツマツタヱ文献より抜粋して見ると、次のルートになった。 景行天皇40穂6月・日代の宮(桜井市)出発→10月7日・伊勢→磯の宮→裾野→焼津野→草薙→足柄山→相模の小野→櫓の岳→12月8日・大磯→大山の北→大磯→上総→アシ浦→勿来の
浜→カリ宮→タケの湊→新治→筑波山→西南→酒折の宮→41年1月28日・相模の舘→吾妻森→大磯→川合の野→秩父山→2月8日・国巡り→ウスイの坂→(東南を望みて)→追分→信濃木曽路
→美濃→41年春・尾張。 この平定ルートには、地名と方角が記載されている。その地名数は30ヶ所(3ヶ所は重複)。また方角数は、「大山の北」と「ツサ・西南」の2ヶ所になる。それにしてもこの2ヶ所の
方角の内、「筑波」→「西南」→「酒折の宮」の道順の「西南」はどこの地名を示しているのであろうか。またホツマツタエ文献には記載してないため、検証のテーマとなった。 西南へて至る 酒折の宮に 筑波より酒折の宮に行く道順について、ホツマツタヱ文献は、 39-61文 筑波に登り 君臣も 西南へて至る 酒折の 宮に日暮れて と記載している。 それでは筑波より西南方向に行くと、酒折の宮に到達するか否か。ホツマツタヱ文献の記載は正しいのか、検証して見た。 その前に場所の特定であるが、「筑波」は「筑波に登り」と記載しているため、筑波山であることがわかる。だが酒折の宮は古代より現在にかけて、移動しているが否か現状では調査
が完了していない。ただ現状では全国に唯一「酒折」の地名がつく場所は、山梨県甲府市に酒折町があるのみである。仮にこの場所を古代の「酒折の宮」があった場所とするならば、筑波山より見て地図上の方角は約西南西方向になる。残念ながら正確には「西南」の方角でない様だ。 現在版・ヤマトタケの足跡を辿る ヤマトタケが東征に出発した年を、西暦に換算すると西暦109年のことになる。今から1,897年も前のことになるが、早速現在版・ヤマトタケの足跡の発見の旅に出発することにする
。それにしても今から1,897年も前にヤマトタケが通過した「足跡」が、現在まで記録が残されていたり、記載されたものがあるだろうかと考えると、ヤマトタケが約1年で辿ったホツマ国の行程が、長い年月の検証旅行を必要とすることだろうか。 そこで一計を案じ「現在版・ヤマトタケの足跡を辿る」の検証作業は、ホツマ国の神社のご由緒を調べて、「ヤマトタケの東征・東夷征伐・平定等の折」等の文章が、ご由緒に記載さ
れているか否かを確認することで、「ヤマトタケが通過した」ことを確認することにした。 東国平定ルートと神社のご由緒比較 またヤマトタケの足跡の調査は、なるべくホツマ国に限定し、ヤマトタケが通過したであろう県を順に静岡県、神奈川県、千葉県、茨城県、福島県、埼玉県、山梨県および東京都と
した。比較の対象は、①ホツマツタヱ文献の記載の地名と②現在に残る神社のご由緒に「ヤマトタケの東征・東夷征伐・平定等の折」等に関する内容を記載した神社の場所とした。以下
比較内容は①、②の後に並べ比較した。 静岡県 ヤマトタケが通過したホツマ国の最初の県は、静岡県である。 ①裾野(富士山の裾野)→焼津野→草薙になっている。 ②焼津市→清水市→静岡市→富士宮市→御殿場市になる。 神奈川県 ①足柄山→相模の小野→櫓の岳→12月8日・大磯→大山の北→大磯になる。 ②中郡二宮町→綾瀬市→横須賀市になる。 千葉県 ①上総→アシ浦(安房郡)に移動。 ②富津市→君津市→木更津市→市原市→成田市→印旛郡→佐原市→香取郡→海上郡→(推定)香取郡へ戻った様だ。 茨城県 ①勿来の浜→カリ宮→タケの湊(福島県の可能性あり)→新治→筑波山→(西南へて)に移動。 ②水戸市→久慈郡→(福島県)→西茨城郡→新治郡→真壁郡→つくば市になる。 福島県 ホツマツタヱ文献には、現在の地名に通じる記載がないが、 ②双葉郡→相馬郡→(双葉郡)→岩瀬郡→東白川郡にヤマトタケの東征に関するご由緒の神社がある。特に双葉郡浪江町は、請戸地域が太平洋に臨む天然の港があり、ホツマツタヱ文献
に記載の「タケの湊」を茨城県に入れたが、福島県の可能性がある。その根拠として茨城県内の「ヤマトタケ東征に関するご由緒の神社」は、全て内陸にあり港に望む土地・地域にないことが上げられる。 山梨県 ①(筑波山)→(西南へて)→酒折の宮 ②甲府市の酒折の宮以外にヤマトタケをご由緒に記載する神社をあげると、他に富士吉田市、東山梨郡、山梨市、東八代郡、南巨摩郡、韮崎市、北巨摩郡にある。不思議にこの「神社
群」はホツマツタヱ文献には「地名」の記載はないが、神社のご由緒に「ヤマトタケ」が登場する神社が多い。この「神社群」について山梨県での分布を地図上に記入して見るが、筑波山より見ても「西南」の方向でなく、むしろ約西南西の方向になる。また現在の国道20号線、中央高速道の沿線に「ヤマトタケ」に関する神社があるか調べたが、これは「ない」様である。従ってこの国道20号線沿いの道順を通過してないことになる。するとホツマツタヱ文献に記載の「西南」方向を経由した可能性があるとなると、この「西南」方向に「ヤマトタケ」に関する神社がなくてはならない。 そこで早速、調べて見た。すると山梨県ではないが、神奈川県の愛甲郡愛川町八管山に、「八管神社」が発見された。また神奈川県相模原市淵野辺本町に、「皇武神社」が発見された
。いづれもご由緒に「ヤマトタケの東征・東夷征伐・平定等の折」等が記載されていた。この2つの神社の発見により、筑波山→(途中調査中)→相模原市→愛甲郡→大磯・中郡→御殿場市
→富士吉田市→酒折の宮の道順を通過したことが、おぼろげにわかってきた。 神奈川県 ①41年1月28日・相模の舘→吾妻森→大磯になる。 ②吾妻森は、中郡二宮町の吾妻神社のことと考える。 埼玉県 ①川合の野→秩父山に登る→2月8日・国巡り。 ②さいたま市、所沢市、狭山市、入間郡、秩父市、秩父郡、児玉郡、深谷市に「ヤマトタケ」に関する神社がある。 さいたま市の氷川神社については、「川合の野に 大宮を 建てて 祭らす 氷川神」とホツマツタヱ文献に明記してある。また2月8日・国巡りの記載があるところから見ても、所沢
市~深谷市に「ヤマトタケ」に関する神社が多数あっても当然と思えた。 神奈川県 ①ウスイの坂→(東南を望みて)→追分になる。 このウスイの坂について現在の地図を見ると、ウスイの坂は、群馬県と長野県の県境に碓氷峠がある。また日本書紀ではウスイの坂を、碓氷峠に特定している。たがこの「ウスイの
坂」の文章の次ぎに、(東南を望みて)の文章を書いたが、ここの、前後のホツマツタヱ文献の文章は、 39-91文 ウスイの坂に ヤマトタケ 別れし姫お 思いつつ 東南を望みて 思いやり 形見の歌見 取り出して さねさねし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも これ三度 吾妻あわやと 嘆きます 吾妻のもとや となっている。 特に「ヤマトタケ 別れし姫お 思いつつ 東南を望みて 思いやり」の文章が、「ウスイの坂」の場所を案じている様だ。このウスイの坂の場所はヤマトタケの愛妻であるオトタチ
バナ姫が、横須賀~上総間の浦賀水道に「入水」した方向を「東南」に「望める」場所であるとことになる。するとウスイの坂は、神奈川県の箱根山や足柄山などに「ある坂」と特定できる。このことから残念ながらウスイの坂は、現在の碓氷峠ではないことになる。また「吾妻あわや」などの「吾妻」を関する「吾妻町」の履歴を調べて見ると、後の町名変更時に改名された町名であったこともわかってきた。 山梨県 山梨県の神社群について先に述べたが、神社の数が余りにも多いため、再び地図上で山梨県のどの場所にあるか調べて見た。場所を調べた神社は、東山梨郡、山梨市、東八代郡、南
巨摩郡、韮崎市、北巨摩郡にある神社とした。すると不思議にも9ヶ所中7ヶ所が、国道20号線沿いに分布していた。この20号線沿いはヤマトタケが、木曽路に帰って行く方向になる。
長野県、岐阜県、愛知県 ①信濃木曽路→美濃→そして41年春・尾張に帰って行った。 ②上伊那郡→駒ヶ根市に神社があり、中山道、中央道の沿線になる。 東京都 東京都にはホツマツタヱ文献の記載はないが、文京区、台東区、目黒区、杉並区、西多摩郡に「ヤマトタケ」に関する神社がある。ホツマツタヱ文献には、記載がない。 酒折の宮の所在地(考察) これまで酒折の宮を山梨県甲府市の酒折町と仮定して話を進めてきたが、酒折の宮の所在地を特定する必要がでてきた。また古くからホツマ研究者の間で酒折の宮の所在地についての論争があった。その意見は「静岡県富士宮市」の富士山本宮浅間神社とする意見と、もう一方は「山梨県甲府市」の酒折宮であった。今回の「ヤマトタケ」の東征も山梨県の項に、「筑波山→西南へて→酒折の宮」へと移動したことを記載してきた。だがそれも酒折の宮を、山梨県甲府市の酒折町と仮定でのお話であった。 結論を先に書くが、今回の「ヤマトタケの足跡を辿る」のヤマトタケの足跡より酒折の宮は、静岡県にない様である。その根拠は、ヤマトタケに付き添って「東国平定」に同行した「大伴武日命」および「ヤマトタケ」の一行は、静岡県での大伴武日の所在地「酒折の宮」に立ち寄った記載がない。このことは、ホツマツタヱ文献の静岡県の記載が、裾野(富士山の裾野)→焼津野→草薙となっていることからもわかる。 また山梨県の神社群についてご由緒を調べて行く内に、特筆しなくてはならない神社を発見した。この神社は、「弓削(ユゲ)神社」である。特筆の理由は、「ご由緒」にある。ご由緒
をそのまま引用すると、「日本武尊東征の帰途、大伴武日命を此地に止む。その舘後に社を建つ即ち本社にして、社名は武日命に賜りし、勒部(ユキベ)の名に由るという」。 このご由緒からもわかる様に、ヤマトタケに付き添って「東国平定」に同行した「大伴武日命」は、終演の地を「弓削(ユゲ)神社」(この時、神社はなかった)に指定した。この地は恐
らく「酒折の宮」の行政の及ぶ範囲の境の地であったろうかと推定される。そこで「弓削(ユゲ)神社」と現在の「酒折の宮」までの直線距離を計測して見ると、約10kmで行動範囲内の距
離であることがわかる。またはこの地を終焉の地にする「何か」があっただろうと推定する。そしてこの地より「大伴武日命」は、「ヤマトタケ」の一行を見送ることになった。 更に、ホツマツタエ文献の32-19~20文の文章を見ると、「酒折の宮」が山梨県にあったことが、確証される。またここでの「酒折のタケヒテル」は、ヤマトタケの東国平定に同行し
た「大伴武日命」であり、富士山・ハラミ山に「山登り」し「下る須走り 裾巡り」して、梅仁が治めた「梅大宮・(富士山本宮浅間神社)」に入り寛いだことが、次の文よりわかってくる。 32-19~20文 弥生中 ハラミ山えと 御幸なる その道なりて 黒田より 香具山、加茂や 多賀の宮 諏訪、酒折の タケヒテル 御饗して待つ 山登り 下る須走り 裾巡り 梅大宮に 入り居ます この「大伴武日命」の神社である「弓削(ユゲ)神社」の地は、今でも山梨県の西八代郡市川大門町に存在する。この市川大門町には、なぜか「四尾連湖」という湖がある。またこの湖
はホツマツタヱ文献に記載の様にハラミ山の「南」にあった「シビレウミ」と同名の湖である。またこのことは「大伴武日命」となんらか関連があるのだろうか。こう考えるともう一度、市川大門町に調査に行く必要がでてきた様に思う。 ヤマトタケホツマ国討ちの足跡を追って (1)(おわり) オトタチバナ姫が合妃されている横須賀市の走水神社
大和武(ヤマトタケル)の呼名は、戦後の呼名と云われる。戦前は、「ヤマトタケ」と呼ばれる。本Webは、戦前以前の文献のため、ヤマトタケと呼ぶ。ヤマトタケは、景行天皇の御世において、昔、関東地方以北にあったと云うホツマ国が騒いだため、討伐に「ヤマトタケ」を派遣された。そして、その道順をホツマツタヱより追いかけることも楽しい歴史である。また、同道した「オトタチバナ姫」の献身もあり、横須賀の走水神社の逸話、横浜の浜の逸話、姉ヶ崎の逸話、秩父の逸話など、探求するのも楽しい。あと、昼神神社、日暮の宮を訊ねて、愛知、伊吹山へと急がれた。
「ヤマトタケホツマ国討ちの足跡を追って (1)」
「西南へて至る 酒折の宮に (2)」