ヤマトタケ ホツマ(国)討ち 西南へて至る 酒折の宮に (2)

ヤマトタケ ホツマ(国)討ち 西南へて至る 酒折の宮に (2)

大和武(ヤマトタケル)の呼名は、戦後の呼名と云われる。戦前は、「ヤマトタケ」と呼ばれる。本Webは、戦前以前の文献のため、ヤマトタケと呼ぶ。ヤマトタケは、景行天皇の御世において、昔、関東地方以北にあったと云うホツマ国が騒いだため、討伐に「ヤマトタケ」を派遣された。そして、その道順をホツマツタヱより追いかけることも楽しい歴史である。また、同道した「オトタチバナ姫」の献身もあり、横須賀の走水神社の逸話、横浜の浜の逸話、姉ヶ崎の逸話、秩父の逸話など、探求するのも楽しい。あと、昼神神社、日暮の宮を訊ねて、愛知、伊吹山へと急がれた。  

「ヤマトタケホツマ国討ちの足跡を追って (1)」

 平成18年12月1日作成

 ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く     

  西南へて至る 酒折の宮に (1) 



 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄



ヤマトタケ ホツマ国討ちの足跡を追って

 ホツマツタヱ文献の第39文は「ヤマトタケのホツマ国討ち」が記載され、歴史的にも人気の高い「章」である。今回そのヤマトタケのホツマ国討ちの足跡を追っているうちに、「西南へて至る 酒折の宮」の文にぶっかった。なぜに「西南」にこだわるかと云えば、現状でも「酒折の宮」の所在地が特定できてないからである。そのため、今回ヤマトタケが通過したであろうか否かを検証することにより、ヤマトタケが訪問した当時の「酒折の宮」の所在地を発見したいと考えている。

「酒折宮」の由来書 (21世紀の初年正月に酒折宮に奉納されもの)

sakaori_yurai"

東征への旅立ち

 景行天皇朝の40穂6月にホツマ国が騒いだため酒折の宮の大伴武日が、当時の都・纒向(マキムク)・(現)奈良県桜井市に上京して御狩りを乞うた。

39-1文

 セミナ月 ホツマ騒げば 

 酒折の  タケヒ上がりて 

 御狩乞う

その申し出に対し、天皇が「臣」を集めた席が開かれた。その席で、ヤマトタケ(コウス・小碓尊)は天皇に申し上げた。「先に家臣と私は西を討ったので、今度は兄のオホウス(大碓 尊)が、東国を征伐する番である」。それを聞いたオホウスは臆病風が吹き、野を逃げ隠れした。このため天皇はやむにやまれずして、再びヤマトタケに「ホツマ国討ち」を命じられた。時にヤマトタケは、「西を平定した間も無いが、また東を平定に出発せねばならない。平定は何時になるかわからないが、たとえ臣が労るとてもホツマ国を平定して来ますのでご安心して下さい。」と雄叫びを上げた。

ヤマトタケは、10月2日吉備タケヒコと大伴タケヒを従えて、都を出発した。途中伊勢のヤマト姫のもとに立ち寄り、「叢雲の剣」と「火水土の払い」を受け、ホツマ国へと向かった 。

(注)ホツマ国・・・静岡県東部~茨城県を含む南関東地区の古代の国を云う。



ホツマ国討ちルート 

 早速、ヤマトタケのホツマ国討ち時の道順を調べた。余談であるがこの調査のひと時が、ホツマ研究家にとっては最も楽しいひと時であろうか。そのヤマトタケのホツマ国討ちの道順について、ホツマツタヱ文献より抜粋して見ると、次のルートになった。

 景行天皇40穂6月・日代の宮(桜井市)出発→10月7日・伊勢→磯の宮→裾野→焼津野→草薙→足柄山→相模の小野→櫓の岳→12月8日・大磯→大山の北→大磯→上総→アシ浦→勿来の 浜→カリ宮→タケの湊→新治→筑波山→西南→酒折の宮→41年1月28日・相模の舘→吾妻森→大磯→川合の野→秩父山→2月8日・国巡り→ウスイの坂→(東南を望みて)→追分→信濃木曽路 →美濃→41年春・尾張。

 この平定ルートには、地名と方角が記載されている。その地名数は30ヶ所(3ヶ所は重複)。また方角数は、「大山の北」と「ツサ・西南」の2ヶ所になる。それにしてもこの2ヶ所の 方角の内、「筑波」→「西南」→「酒折の宮」の道順の「西南」はどこの地名を示しているのであろうか。またホツマツタエ文献には記載してないため、検証のテーマとなった。



西南へて至る 酒折の宮に

 筑波より酒折の宮に行く道順について、ホツマツタヱ文献は、

39-61文

     筑波に登り

 君臣も 西南へて至る

 酒折の 宮に日暮れて   

と記載している。

それでは筑波より西南方向に行くと、酒折の宮に到達するか否か。ホツマツタヱ文献の記載は正しいのか、検証して見た。

その前に場所の特定であるが、「筑波」は「筑波に登り」と記載しているため、筑波山であることがわかる。だが酒折の宮は古代より現在にかけて、移動しているが否か現状では調査 が完了していない。ただ現状では全国に唯一「酒折」の地名がつく場所は、山梨県甲府市に酒折町があるのみである。仮にこの場所を古代の「酒折の宮」があった場所とするならば、筑波山より見て地図上の方角は約西南西方向になる。残念ながら正確には「西南」の方角でない様だ。



現在版・ヤマトタケの足跡を辿る 

 ヤマトタケが東征に出発した年を、西暦に換算すると西暦109年のことになる。今から1,897年も前のことになるが、早速現在版・ヤマトタケの足跡の発見の旅に出発することにする 。それにしても今から1,897年も前にヤマトタケが通過した「足跡」が、現在まで記録が残されていたり、記載されたものがあるだろうかと考えると、ヤマトタケが約1年で辿ったホツマ国の行程が、長い年月の検証旅行を必要とすることだろうか。

そこで一計を案じ「現在版・ヤマトタケの足跡を辿る」の検証作業は、ホツマ国の神社のご由緒を調べて、「ヤマトタケの東征・東夷征伐・平定等の折」等の文章が、ご由緒に記載さ れているか否かを確認することで、「ヤマトタケが通過した」ことを確認することにした。



東国平定ルートと神社のご由緒比較

 またヤマトタケの足跡の調査は、なるべくホツマ国に限定し、ヤマトタケが通過したであろう県を順に静岡県、神奈川県、千葉県、茨城県、福島県、埼玉県、山梨県および東京都と した。比較の対象は、①ホツマツタヱ文献の記載の地名と②現在に残る神社のご由緒に「ヤマトタケの東征・東夷征伐・平定等の折」等に関する内容を記載した神社の場所とした。以下 比較内容は①、②の後に並べ比較した。



静岡県

ヤマトタケが通過したホツマ国の最初の県は、静岡県である。

①裾野(富士山の裾野)→焼津野→草薙になっている。

②焼津市→清水市→静岡市→富士宮市→御殿場市になる。



神奈川県

①足柄山→相模の小野→櫓の岳→12月8日・大磯→大山の北→大磯になる。

②中郡二宮町→綾瀬市→横須賀市になる。



千葉県

①上総→アシ浦(安房郡)に移動。

②富津市→君津市→木更津市→市原市→成田市→印旛郡→佐原市→香取郡→海上郡→(推定)香取郡へ戻った様だ。



茨城県

①勿来の浜→カリ宮→タケの湊(福島県の可能性あり)→新治→筑波山→(西南へて)に移動。

②水戸市→久慈郡→(福島県)→西茨城郡→新治郡→真壁郡→つくば市になる。



福島県

ホツマツタヱ文献には、現在の地名に通じる記載がないが、

②双葉郡→相馬郡→(双葉郡)→岩瀬郡→東白川郡にヤマトタケの東征に関するご由緒の神社がある。特に双葉郡浪江町は、請戸地域が太平洋に臨む天然の港があり、ホツマツタヱ文献 に記載の「タケの湊」を茨城県に入れたが、福島県の可能性がある。その根拠として茨城県内の「ヤマトタケ東征に関するご由緒の神社」は、全て内陸にあり港に望む土地・地域にないことが上げられる。



山梨県

①(筑波山)→(西南へて)→酒折の宮

②甲府市の酒折の宮以外にヤマトタケをご由緒に記載する神社をあげると、他に富士吉田市、東山梨郡、山梨市、東八代郡、南巨摩郡、韮崎市、北巨摩郡にある。不思議にこの「神社 群」はホツマツタヱ文献には「地名」の記載はないが、神社のご由緒に「ヤマトタケ」が登場する神社が多い。この「神社群」について山梨県での分布を地図上に記入して見るが、筑波山より見ても「西南」の方向でなく、むしろ約西南西の方向になる。また現在の国道20号線、中央高速道の沿線に「ヤマトタケ」に関する神社があるか調べたが、これは「ない」様である。従ってこの国道20号線沿いの道順を通過してないことになる。するとホツマツタヱ文献に記載の「西南」方向を経由した可能性があるとなると、この「西南」方向に「ヤマトタケ」に関する神社がなくてはならない。

そこで早速、調べて見た。すると山梨県ではないが、神奈川県の愛甲郡愛川町八管山に、「八管神社」が発見された。また神奈川県相模原市淵野辺本町に、「皇武神社」が発見された 。いづれもご由緒に「ヤマトタケの東征・東夷征伐・平定等の折」等が記載されていた。この2つの神社の発見により、筑波山→(途中調査中)→相模原市→愛甲郡→大磯・中郡→御殿場市 →富士吉田市→酒折の宮の道順を通過したことが、おぼろげにわかってきた。



神奈川県

①41年1月28日・相模の舘→吾妻森→大磯になる。

②吾妻森は、中郡二宮町の吾妻神社のことと考える。



埼玉県

①川合の野→秩父山に登る→2月8日・国巡り。

②さいたま市、所沢市、狭山市、入間郡、秩父市、秩父郡、児玉郡、深谷市に「ヤマトタケ」に関する神社がある。

さいたま市の氷川神社については、「川合の野に 大宮を 建てて 祭らす 氷川神」とホツマツタヱ文献に明記してある。また2月8日・国巡りの記載があるところから見ても、所沢 市~深谷市に「ヤマトタケ」に関する神社が多数あっても当然と思えた。 



神奈川県

①ウスイの坂→(東南を望みて)→追分になる。

 このウスイの坂について現在の地図を見ると、ウスイの坂は、群馬県と長野県の県境に碓氷峠がある。また日本書紀ではウスイの坂を、碓氷峠に特定している。たがこの「ウスイの 坂」の文章の次ぎに、(東南を望みて)の文章を書いたが、ここの、前後のホツマツタヱ文献の文章は、

39-91文

      ウスイの坂に 

ヤマトタケ 別れし姫お

思いつつ  東南を望みて

思いやり  形見の歌見

取り出して 

さねさねし 相模の小野に

燃ゆる火の 火中に立ちて

問ひし君はも

これ三度  吾妻あわやと

嘆きます  吾妻のもとや

               となっている。



特に「ヤマトタケ 別れし姫お 思いつつ 東南を望みて 思いやり」の文章が、「ウスイの坂」の場所を案じている様だ。このウスイの坂の場所はヤマトタケの愛妻であるオトタチ バナ姫が、横須賀~上総間の浦賀水道に「入水」した方向を「東南」に「望める」場所であるとことになる。するとウスイの坂は、神奈川県の箱根山や足柄山などに「ある坂」と特定できる。このことから残念ながらウスイの坂は、現在の碓氷峠ではないことになる。また「吾妻あわや」などの「吾妻」を関する「吾妻町」の履歴を調べて見ると、後の町名変更時に改名された町名であったこともわかってきた。



山梨県

 山梨県の神社群について先に述べたが、神社の数が余りにも多いため、再び地図上で山梨県のどの場所にあるか調べて見た。場所を調べた神社は、東山梨郡、山梨市、東八代郡、南 巨摩郡、韮崎市、北巨摩郡にある神社とした。すると不思議にも9ヶ所中7ヶ所が、国道20号線沿いに分布していた。この20号線沿いはヤマトタケが、木曽路に帰って行く方向になる。



長野県、岐阜県、愛知県

①信濃木曽路→美濃→そして41年春・尾張に帰って行った。

②上伊那郡→駒ヶ根市に神社があり、中山道、中央道の沿線になる。



東京都

 東京都にはホツマツタヱ文献の記載はないが、文京区、台東区、目黒区、杉並区、西多摩郡に「ヤマトタケ」に関する神社がある。ホツマツタヱ文献には、記載がない。



酒折の宮の所在地(考察)

 これまで酒折の宮を山梨県甲府市の酒折町と仮定して話を進めてきたが、酒折の宮の所在地を特定する必要がでてきた。また古くからホツマ研究者の間で酒折の宮の所在地についての論争があった。その意見は「静岡県富士宮市」の富士山本宮浅間神社とする意見と、もう一方は「山梨県甲府市」の酒折宮であった。今回の「ヤマトタケ」の東征も山梨県の項に、「筑波山→西南へて→酒折の宮」へと移動したことを記載してきた。だがそれも酒折の宮を、山梨県甲府市の酒折町と仮定でのお話であった。

 結論を先に書くが、今回の「ヤマトタケの足跡を辿る」のヤマトタケの足跡より酒折の宮は、静岡県にない様である。その根拠は、ヤマトタケに付き添って「東国平定」に同行した「大伴武日命」および「ヤマトタケ」の一行は、静岡県での大伴武日の所在地「酒折の宮」に立ち寄った記載がない。このことは、ホツマツタヱ文献の静岡県の記載が、裾野(富士山の裾野)→焼津野→草薙となっていることからもわかる。

また山梨県の神社群についてご由緒を調べて行く内に、特筆しなくてはならない神社を発見した。この神社は、「弓削(ユゲ)神社」である。特筆の理由は、「ご由緒」にある。ご由緒 をそのまま引用すると、「日本武尊東征の帰途、大伴武日命を此地に止む。その舘後に社を建つ即ち本社にして、社名は武日命に賜りし、勒部(ユキベ)の名に由るという」。

このご由緒からもわかる様に、ヤマトタケに付き添って「東国平定」に同行した「大伴武日命」は、終演の地を「弓削(ユゲ)神社」(この時、神社はなかった)に指定した。この地は恐 らく「酒折の宮」の行政の及ぶ範囲の境の地であったろうかと推定される。そこで「弓削(ユゲ)神社」と現在の「酒折の宮」までの直線距離を計測して見ると、約10kmで行動範囲内の距 離であることがわかる。またはこの地を終焉の地にする「何か」があっただろうと推定する。そしてこの地より「大伴武日命」は、「ヤマトタケ」の一行を見送ることになった。

更に、ホツマツタエ文献の32-19~20文の文章を見ると、「酒折の宮」が山梨県にあったことが、確証される。またここでの「酒折のタケヒテル」は、ヤマトタケの東国平定に同行し た「大伴武日命」であり、富士山・ハラミ山に「山登り」し「下る須走り 裾巡り」して、梅仁が治めた「梅大宮・(富士山本宮浅間神社)」に入り寛いだことが、次の文よりわかってくる。 

32-19~20文

弥生中    ハラミ山えと

御幸なる   その道なりて

黒田より   香具山、加茂や

多賀の宮   諏訪、酒折の

タケヒテル  御饗して待つ

山登り    下る須走り

裾巡り    梅大宮に

入り居ます  



この「大伴武日命」の神社である「弓削(ユゲ)神社」の地は、今でも山梨県の西八代郡市川大門町に存在する。この市川大門町には、なぜか「四尾連湖」という湖がある。またこの湖 はホツマツタヱ文献に記載の様にハラミ山の「南」にあった「シビレウミ」と同名の湖である。またこのことは「大伴武日命」となんらか関連があるのだろうか。こう考えるともう一度、市川大門町に調査に行く必要がでてきた様に思う。

 ヤマトタケホツマ国討ちの足跡を追って (1)(おわり)



「西南へて至る 酒折の宮に (2)」

オトタチバナ姫が合妃されている横須賀市の走水神社

Harami_yama

hasirimizu

 平成19年1月21日作成

 ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く      

  西南へて至る 酒折の宮に (2) 

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

西南へて至る (読者のご質問に答えて)   

 前号の「検証ホツマツタヱ28号」にて、「筑波(山)に登り 君臣も 西南へて至る 酒折の 宮に日暮れて」の文節より、筑波山より西南方向に行くと、酒折の宮に到達するか否か を検証してきた。だがその検証結果について「読者」より2つの質問を頂いた。

一つ目は、「西南方向で発見された神奈川県の愛甲郡愛川町八管山の八管神社また神奈川県相模原市淵野辺本町の皇武神社から、あとのヤマトタケルの道順について」であった。

 前回の道順の説明は、筑波山→(途中調査中)→相模原市→愛甲郡→大磯・中郡→御殿場市→富士吉田市→酒折の宮へ至る道順であった。だが質問者の調査では、愛甲郡愛川町の「八 管神社」を下山し、そのあと「富士吉田市→酒折の宮」方向に行くには、大磯を通過しなくても、もっと近道があるとのことであつた。それは愛川町→道志川沿いを登る→山中湖→富士 吉田市のルートだそうである。そうすると現在では約2時間程度のドライブで、愛川町→山中湖に着くとのことである。そのことで私も「八管神社」を下山して、「大磯に行くか」または 「山中湖にいくか」立ち止まって考えてみた。そうすると読者が教えてくれた「山中湖の方角」に丹沢山系があり、山の向こうに「山中湖」がある様に感じられた。東征を終えて「酒折 宮」に報告に行くヤマトタケは、恐らく近道の「道志川沿い」を選択したとも容易に想像がつくようだ。



酒折宮の所在地 (読者のご質問に答えて) 

 読者のご質問の二つ目は、「酒折宮の所在地」についてである。「酒折宮の所在地が、未だ定まってないとのことであるが、他の研究者の意見があれば紹介してほしい。」とのこと であった。

そこでホツマ研究者の諸先輩たちが過去に述べた中から資料を引用し、「酒折宮の所在地の研究結果」をご紹介することにした。資料紹介にあたっては研究者の立場は違えどホツマツ タヱで云う「公」であり、立場が違うことを検証することが、「検証ホツマツタヱ」の神髄と信ずる。



富士山・南麓にあった酒折宮(考察)

 最初はヲシデ研究家と自称される「Iさん」の意見を取り上げたい。その意見は平成12年7月11日付でお便りを戴いていたもので、特に酒折宮に関する部分を抜粋して見ました 。

「さて今般(の酒折宮)でのことで、重要な焦点とすべきは、24-69~70文の

24-69文

オキツハマ キミヨロコビテ

コシナラヘ ユクオオミヤハ

ヤマスミノ ミチムカエシテ

ミトコロニ スワガミアエハ

24-70文

スハシリデ サカオリミヤニ

イリイマス



とあることから、ここの解釈についての(貴殿と小生との意見に)差があります。松本先生も次の解釈のように「スワガ スハシリでして サカオリミヤにとは、のごとくに ミトコロ  すなわち、昔のトシタミヤ・ハラミノミヤの故地のサカオリミヤに、来たということだと思います。ミトコロとは、むりやり漢字にあてるならば「御所」とでもなるかと思います。」

 敬具

 

 平成十二年七月十一日

吉田六雄様 さん 

そこで、Iさんの文章を直訳文して、また前述の図と重ね合わせて説明を補足すると、

24-69文

興津浜   君喜びて

腰並へ   行く大宮は

ヤマスミの 道迎えして

御所に   スワ(氏)が御会えは

24-70文

素走りで  酒折宮に

入り居ます



説明文

 静岡市の旧清水市・興津の浜に到着されたニニキネの天君は、腰の列の出迎えに大いに喜ばれ、家臣の一団と共に酒折宮(大宮)に向かわれた。御所ではヤマスミの出迎えを受けられ たことで、天君はさらに大いに喜ばれた。またスワ(氏)はニニキネの天君を迎え様と、長野の諏訪からハラミヤマ(富士山)の周囲を巡り、素走り(急ぎ足)されてミトコロ(御所)すなわち 、昔のトシタミヤ・ハラミノミヤの故地の酒折宮に入られた。説明の要点を見ますとニニキネの天君とスワ(氏)は、別々の方向からハラミヤマの南麓の酒折宮に入ったと解釈している。



大明見にあった酒折宮(考察)

次ぎに取り上げる意見は、ホツマツタヱ研究の第一人者である松本喜之助先生の意見である。先生は研究の発表の場として、「月刊ほつま」を定期的に発行されていた。その「月刊 ほつま」を私どもの「検証ホツマツタヱ」の発行人である宮永さんより長年借用しているが、その「月刊ほつま」76・77号(昭和55年6月1日発行)の2~3頁に、酒折宮の所在地が調査され ていた。

 「それはフトニノ天君が富士山への大旅行をされた下りから始めなければならない。」

三月中    ハラミ山へと

み幸なる   その道なりて

クロダより  カグ山カモや

タガノ宮   スワサカオリの

タケヒテル  御饗して待つ

                  (32アヤ(紋)10頁)

クロダとは、奈良県磯城郡田原本町黒田のことで、当時の都だったが、ここを発ったフトニノ天君は、まづ近くのカグ山(桜井市香具山)にみ幸された。ここはカンヤマトイハレヒコノ 天君(神武天皇)が戦勝祈願された聖蹟だが、後代、耳成山、畝傍山と共に大和三山として有名なことは云ふまでもない。このカグ山から京都へと道をとり、カモ(上下賀茂神社)へ参拝し 、次いでタガノ宮(滋賀県犬上郡多賀町多賀大社)へあがり、それから美濃、飛騨より信濃に入られたであらう。この道は後に所謂東山道である。ここを東にとって「スワサカオリ」の宮 につき、ここでタケヒテルの心こもる接待をうけられたといふのである。

ここでの「スワサカオリ」といふ記述は、勿論「スワにサカオリの宮がある」といふことではないだろう。これはホツマの他の叙述でも実例の多い文章の省略に従ったのと同じに理解 した方がいい。

ではサカオリの宮とは、一体どこなのか。それは右に続く次の文句によって、その地点をうかがうことができる。

山登り    下るスバシリ

裾めぐ    ムメ大宮に

入り居ます        

                  (32アヤ(紋)10頁)

といふことは、サカオリの宮を出立した天君は、富士山に登り、スバシリに下りられたといふことであろう。このスバシリが今の静岡県駿東郡須走なら、天君は富士吉田市の吉田口登 山道から富士山へお上りになったとしていいだろう。そして富士山の東側の須走に下られたとふことになる。

 そして今の御殿場市から広い富士裾野を裾野市、富士市と経てムメ大宮に入られたのであろう。ムメ大宮とは、富士宮市の式内名神大社旧官幣大社、富士山本宮浅間神社に推定して 不安は残らない。

 このやうに考えてくると、サカオリの宮は、登山口の富士吉田市辺りにあったとしても、少しもおかしくない。(中略)即ち富士吉田市の大明見こそ格好の地しいふことになってくる 。

 (文章は前後するが)、山梨県富士吉田市の小室浅間神社に、古代文献マニアの間でつとに有名な「富士古文書」といふものが保存されてゐることを、読者は既にご承知であろう。( 中略)その中に今の押野にごく近い富士吉田市大明見といふ処に「坂下の宮(サカオリ)」があると書かれてゐるのである。



(吉田のコメント)

 山梨県富士吉田市上吉田にある北口本宮富士浅間神社のご由緒には、「日本武尊甲斐国酒折宮通過の際、・・(後略)」が見える。



甲府市酒折にあった酒折宮(考察)

松本先生やIさんの意見と私の意見を対比する気持ちはありませんが、私は過去からの「地名」の残存状況より、酒折宮は甲府市の酒折宮で間違いないと思っております。

そこで「ホツマツタヱ」文献の文をもう一度読みますと、

24-69文

興津浜   君喜びて

腰並へ   行く大宮は

ヤマスミの 道迎えして

三所に   スワ(氏)が御饗えは

24-70文

須走りで  酒折宮に

入り居ます



 そこで興津浜~酒折宮までの、その「酒折宮の所在地」の検証方法であるが、私の検証方法は誰でもわかりやすい方法である。その方法は「原文をそのまま、現在の地図や地形に置 き換える方法」である。そのため24-69~70文の文章は、「興津浜→三所→酒折宮に入り居ます」に置き換えることができる。その興津浜などの地名を検証すると、興津浜は誰でも知って いる通り「旧清水市の興津の浜」で確定と思う。

 次の大宮は、酒折宮を大宮と読んでいたと解釈される。その大宮の地名は、甲府市内の山梨県西山梨郡の旧村名に「大宮」が見える。

 次の「ミトコロ」について、「Iさん」の意見では「御所」となっている。その御所の地名について検証すると、山梨県の東八代郡八代町の旧村名に「御所」が見える。方角的には 、甲府市の南側の隣市になる。また現在でも山梨県の南都留郡山中湖村山中御所がある。ここは河口湖~山中湖に向かう国道138号線と山中湖周回道路との交差点付近になる。すると「ミ トコロ」は、「追分」の反語とも解釈され、「ミトコロ」を漢語で表すと「三所」ではないだろうか。

 次ぎに「スワ」であるが、スワを「氏名」とするか、「地名」とするかである。一般的に地名の「スワ」は長野県に諏訪があるが、山梨県東山梨郡の旧村名に「諏訪」が見える。だ が「スワが」となっているため、氏名と解釈したい。

 次に「須走りて」を地名と見るか、動詞とみるかであるが、「Iさん」の意見を取り入れて「動詞」としたため、「須走りて」を静岡県駿東郡の旧村名、現・小山町の「須走」と解 釈しない。

 次に酒折宮であるが検証するまでもなく、甲府市に酒折や酒折町がある。

(参考)であるが富士山本宮浅間神社のある富士宮市には大宮町はあるが、他の「御所」「三所」「ミトコロ」や「酒折」は見つからない。但し「佐折」は富士宮市に存在する。



ウスヰの坂

 前号の「検証ホツマツタヱ28号」で「ウスヰの坂は、神奈川県の箱根山や足柄山などに「ある坂」と特定できる。このことから残念ながらウスヰの坂は、現在の碓氷峠ではないこと になる。」と書いたが、その「ウスヰの坂」について先輩の調査を検証していたところ、既に松本喜之助先生は、「月刊ほつま」73・74号(昭和55年3月1日発行)の3~4頁に、「ウスヰの 坂のこと」を発表されていた。

 ウスヰの坂のこと、東京に帰って数日後、石沢氏(現・伊豆の国市)から次のやうないい手紙をいただいた。

 「(前略)碓氷峠といふのは、宮城野の諏訪神社の横(仙石原寄り)の所で、地学上から云っても新規外輪山にあたるらしく、小涌園の前にある浅間の鷹の巣山と一緒ですから、道とし ては古くから拓かれてゐても不思議はないと思います。上古の碓氷道は、ホツマから推すと、三島大社ー裾野(市)-箱根外輪山(三国峠ーヤマトタケノ命の泉の伝説のある所か、湖尻峠)を通 ったかと思ひます。御殿場ー長尾は勾配が急だし、風が強い。湖尻(スカイライン)ー桃源台ー九頭竜神社ー駒岳・神山の稜線を通り、早雲山ー強羅ー木賀(宮城野)ー碓氷峠ー仙石原(諏訪神社・金 時神社)ー矢倉岳ー松田で戦斗体制。

 行軍とすれば、三島から登って一日で矢倉岳行けるでせうし、峠にたった時が夕暮れとすれば、小野の方が赤々とみえたでせうし、それから夜中に大山と大磯に軍を廻すこともでき たでせう。これは一日の行程だと思います。暇をみて実際に歩いてみたいです。タケノ命の帰路は、酒折宮から出て、やはり激しかった戦斗とその行動を共にした愛妻(オトタチバナ姫) をおもふ時、やはり箱根に立ち寄らざるを得なかったと思います。それが足柄(乙女峠?)ー碓氷ー明神(ここで相模湾・房総半島一望、そして有名な「あづまはや」のお歌をよまれたのでせ う)ー小田原久野・諏訪の原あたりへ下山、といふことになるのではないかと思ひます。碓氷峠は土地の人の話をききますと、昔の通り道ー仙石原ー宮城野であったさうです。(中略)

 最後に碓氷峠の碑ですが、この碑文は大正六年に底倉高山園主沢田和義が書いたものです。この人は現存の「つたや」といふ旅館の主人で、箱根の名所旧蹟が埋もれないやうに努力 した方ださうです。」

云うまでも、(この様に)ホツマでは(ヤマト)タケノ命が越えられたのはウスヰの坂(39アヤ46)、即ち今日の箱根の碓氷峠であると思はれるのに、日本書紀はこれを「碓日坂」とし、今 の群馬県の碓氷峠にもってゆき、古事記は「足柄の坂下」などといつもながらに改竄してしまった。

 西南へて至る 酒折の宮に (2) (おわり)



「ヤマトタケ木曽路を行く (3)」

河合の地に鎮座する阿智神社 元宮と磐座 (本人の撮影)

 延喜式内社   阿智神社奥宮

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 式内阿智神社  本宮の磐座

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 平成20年1月15日作成



 ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く   

  阿智の里を訪ねて、ヤマトタケの木曽路を探る  

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄



ヤマトタケ、木曽路行く ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く 

ヤマトタケが平定した「ホツマ国」「タケヒテル」との別れを惜しみながら、宮津姫が待つ尾張へと、古代の中山道を帰路に着いた。そして信濃木曽路の伊那には、アマテル神の「 剣臣・ツルギオミ」であり、アマテル神の長子「忍仁・オシヒト」の「皇子・ミコ」守りであり、そして暦を作った「思兼命・オモイカネ」が神上がりされた「阿智の里」があった。

ホツマ10-3~4文

      先に皇子守り

オモイカネ 信濃伊那洞

阿智の神  



40-1文

マキ向の  日代の暦

四十一年春 ヤマトタケ君

木曽路より 至る尾張の



阿智の里を訪ねて

 阿智の里には阿智神社がある。その阿智神社の所在地は、長野県下伊那の「昼神温泉郷」であり、式内社の神社である。その阿智神社には、前宮と奥宮から成っている。私はこの3 月で、ホツマツタヱに接してから15年目の出会となった。その間「ホツマツタヱの暦」に熱中し、暦を紐解いてきた。そんな中に「昔日読みの 思兼 暦作りて ここにあり」とのホツマ ツタヱ文献の記載が脳裏より離れない。2007年秋、「暦」の研究も一段落したため、またホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く原稿の題材に、「阿智神社」を選んだ。



中央線、飯田線の車窓

 出発は9月中旬になった。阿智神社のある阿智村は、長野県飯田駅でJR下車し、あと阿智村までは公営バスと変則である。その間到着までは5~6時間がかかるため、中央線の岡谷経 由か、東海道・新幹線線の豊橋経由かと迷った。だが最終的には、「ヤマトタケが東国征伐・平定した後に、大伴武日命に見送られて信濃木曽路、尾張へと帰路に着いた」甲州街道、中 山道コースの中央線、岡谷経由とした。

当日は、現在版「ヤマトタケの帰路」気分で、横浜を午前7:20に出発した。八王子駅からは中央線のJR特急スーパーあずさ5号に08:33に乗車し、約2時間後の10:25分に岡谷駅に到着 した。その間車窓から富士山を眺め、甲府の手前では右に「酒折宮」を見て、また韮崎を過ぎてから南アルプスの北岳、駒ヶ岳を遠くに眺め、右に諏訪湖を眺めながら岡谷駅に着いた。 それにしても電車の車窓で見る山々も険しく、またまた山の連続である。ヤマトタケが通過した頃は人道は整備されていたと思うが、季節的には冬であり当時の暦の2月~3月である。歩 きでの山越えは、大変だっただろうと思えてきた。

 岡谷駅からは10:35発のJR飯田線の天竜峡行に乗車し、飯田駅への到着時間は13:25であった。その間ローカル電車として35駅に停車した。電車の窓から見る風景は山々と、平坦地 は稲刈りの真っ直中であり、至る所に木を組み合わせた「稲の棚」を目にした。飯田駅からは駅前のバス停より、出発中のバスに飛び乗った。1時間ぐらいで昼神温泉の阿智川(浜松市に 流れる天竜川の上流の川)沿いの「昼神グランドホテル天心」前に到着した。幸いに今夜の宿の前が停留所であった。



昼神温泉郷

 阿智村の形状を地図で見ると、その形状は「横に面長の六角形で、且つ、中央の上下を中凹にした」様な四国の形に似ている。その右上→中央→左上方向に高速道の「中央道」が通 過している。その中央→左上間が恵那山の裾野であり、中央道の「恵那山トンネル」が通過している。この恵那山トンネル工事に伴って昭和48年(1973年)に「温泉」が涌きだしたとの ことで、この温泉水を温泉源として、阿智川沿いの山間の開けた土地に「昼神温泉郷」があった。その「昼神」の名前は、ヤマトタケの東国征伐の帰路に関連しており、ホツマ39-97~98 文「峰の御饗に なる白鹿  前に息吐き 苦しむる 君は知ろして 蒜一つ」の「蒜」を「昼」へと読替えた。そして天の岩戸へお隠れ」になった「アマテル神」が、外の騒がしさに 惹かれ、岩戸を開かれ外に出られて、「昼間」を取り戻すことを先導した神が「思兼命」であったとの伝承より、命名されたと云われている。私はここに、「アチヒコ」の妻であった「 ヒルコ姫」の伝承を生かして「昼神温泉郷」としたと命名する暖かい言葉を贈って見た。

宿の数は、昼神温泉ガイドマップ登録で20軒である。また阿智村の村役場は、飯田インターチエンジよりの2km手前の阿智村の駒場地区にある。(昼神温泉郷のガイドより引用)

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阿智神社へ

 ホテルに荷物を預けて、早々に阿智神社の探索に出かけた。地図は数年前に阿知村・商工観光課の大下さんから送って戴いた、昼神温泉郷のパンフレットが役に立った。阿智神社に は皆さんも行ったことでしょうが、前宮は昼神温泉郷を一望できる高台にあり、奥宮は温泉街の中央を流れる阿智川に沿って2kmほど遡ったところにあることがわかった。それでは早速 、前宮より探索に出かけた。前宮へは、阿智川沿いより上り坂を200mくらい登ることになる。

途中に木で作られた「曲尺」の案内がある。その説明文を見ると「昼神温泉内の阿智神社に祀られている天思兼命(あめのおもいかねのみこと)は、「ものさし・かね尺」のもとをつ くった、智恵と学問の神として崇拝されています。この看板は、かね尺からデザインされています。」と書いてある。

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この「曲尺、かね尺」の出処は、ホツマ17-6文の「天の巡りの 曲がりさし」であり、智恵の神の「伝承」を、今日に残していた。

そして登り切ると、国道256号線に出る。そして5mくらい斜の道に「阿智神社の前宮」の案内の大きな札を目にした。



阿智神社・前宮

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 前宮の入り口は、国道256号線に面した神明鳥居が出迎えてくれる。6段の石段を上がるとしばらくゆっくりした登り坂続く。途中に表がガラス障子でできた小さな神倉「阿智大宮繪 傅」がある。その中にはたくさんの、阿智神社の神札類が掲示してあった。その一つは掛け軸「天八意思兼命」を目にした。それにしてもこの札を管理している人は、「鈴木」と云う人 らしく、ホツマツタヱの「スス」暦に何かと因縁を感じた。次に登坂の左側に、阿智神社のご由緒の大きな掲示があった。読んで見ると、

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 御祭神

  天八意思兼命

  天表春命

 相殿の神

  誉田訳命 

  健御名方命

  大山咋命

 由緒

  当社神社は先代旧事本紀に高皇産富命、兒天八意思兼命、その兒天八意思

  兼命と共に天降りまし信濃国阿智祝等の祖となるとあり大古越後より信濃

  にかけて躊躇する出雲系諏訪族に対抗する天孫系氏族の尖兵として信濃の

  国境を押える最重要地点御坂の東麓この地に来たり駐在し、その部曲の民

  を率いて阿智の地方を中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった信濃国

  、三大古族の一つ阿智族の本拠で駒場町鎮座安布知神社と共にその祖先神

  であり、守護神を祭る神社である。

  奥宮は、ここより、阿智川に沿って遡ること2kmの地点にあり、一山

  古墳の如く、境内にある苔生した大石は、古代祭祀の磐座であると、学者

  により立證せられ、里人は昔からこの山を川合陵と呼び祖神の神霊永久に

  鎮まります奥都城処(基地)として崇んでゐる。又、社伝によればこの神は、

  工匠の神として稲籾を十個並べて一寸として一寸を十並べて一尺とし、物

  の長さを計る単位を定め曲尺を、作り曲尺の祖神として、大工、建具職、

  細工職、等材木を扱う人々に、深く信仰せられてゐる。

  本県上水内郡鎮座戸隠神社中社天八意思兼命、宝光社天表春命二神は村上

  天皇天暦年間この社より分祀せられたと伝えられてゐる。



阿智神社のご由緒は、ホツマツタヱ文献より新しい出典の「先代旧事本紀」を基にしているため、ホツマツタヱでは単に「オモイカネ」と呼ぶ名称も、「兒天八意思兼命」「天八意思 兼命」「八意思兼命」そして「思兼命」の敬称を付けた呼び名になっていた。

それにしても奥宮に「一山古墳」「古代祭祀の磐座」「川合稜」があるとのこと。また「一寸」を決めたのが、「稲籾を十個並べた」長さであったことなど、オモイカネに関すること が、「ホツマツタヱ文献」を引用しない別世界の掲載に目を引きつけられた。



(参考-1)

ホツマツタヱの「一寸」について

・ホツマツタヱを読んで見るとやはり「一寸」を案じる個所が「19a文 馭典

 一貫き間の文」にある。それは「トヨケ」が孫の「オバシリ」に馬の乗り

 方を教える個所である。それは、「鐙(あぶみ)縄 まち(余裕)に五キ(寸)

 あげ」と教えている。

 現在訳は、「初めて馬に乗る時は、足を置く鐙(ステップ)は足が届く位置よ

 り余裕を持って握り拳一つ上にて試すと良い」の意味と「騎手が馬上で縄を

 持つ位置は騎手のお腹より握り拳一つ離すことで、馬に余裕ができるために

 試すと良い」との意味の掛詞になっていると解釈される。

 そこで「五キ(寸)」は握り拳の寸法になり、いわゆる指5本の寸法のことで

 あった。そうすると「キ(寸)」は、指1本のこととわかってくる。

  (検証ホツマツタヱ第10号・平成15年12月発行を引用)



(参考-2)

稲籾の長さについて、インターネットを検索して見た。

HPアドレス http://www.gene.affrc.go.jp/plant/core_collections-wrc01.html

すると「世界のイネ・コアコレクション」に掲載の「ID:WRC 01、原産地:日本、品種名:NIPPONBARE」の「籾長、籾幅」は、「籾長6.2mm、籾幅3.3mm」であった。すると籾粒を10粒縦 にして横に並べると、籾幅3.3mm×10粒=33mmとなる。

そこで、阿智神社のご由緒に記載の「稲籾を十個並べて一寸として」を適用すると、「一寸は、33mm」となり「旧の尺度」の原型が現れることになる。

それにしても「オモイカネのご由緒」と「世界のイネ・コアコレクション」の二つの情報よりを組み合わせただけで、偶然とは云え「一寸は、3.3cm」の旧尺貫法の「尺」の基本単位 が証明されるとは、曲尺を発明した「オモイカネ」の智恵に驚くばかりである。



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ご由緒の掲示版を過ぎて直ぐ10段ほどの階段を登ると、「第二の神明鳥居」が現れる。次に第三の神明鳥居まで20段ほど階段が続く。一気に登り切ると突然視界が開け、約50m奥に「 阿智神社の前宮」が燦然と鎮座していた。そして中央部は三列の石畳が続き、途中に相対して狛犬がいて、そして左側は樹齢約50~100年の大きい杉が一列に5~6本並び、右側には約20~ 30年の杉が列を成していた。見事な杉である。

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 私はホツマツタヱの暦を主に研究してきたが、阿智神社のオモイカネの前では、何故か「親父」の前に出た気分になり「親しみ」を込めてお参りした。そして「検証ホツマツタヱの 初号」を「思兼命」にお見せし、「昔日読みの 思兼 暦作りて ここにあり」の一節を、お礼を兼ねて読み上げご報告した。

それもこれも「スス暦」「アスス暦」の研究が、「ホツマツタヱの暦の考察」でご報告できたことへの感謝でもあった。

 神社の裏手に周り神社の全景を眺めた。すると神社の周りの木々は、全て杉の木である。このことにホツマ23-97、98文のニニキネより「オコヌシの神」を賜った奈良・大神神社の 「クシヒコ」を思いだし「直ぐなる主お 見分けんと 直ぐなる印の 杉植ゆる」の一節を読み上げていた。このことに阿智神社も大神(三輪)神社も「ホツマツタヱ」に関する神社の境 内は、「杉」が多く植えられていた理由が飲み込めてきた。

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阿智神社・奥宮

 前宮を後にして入り口の国道256号に出た。そして阿智神社の奥宮の方角を阿智の役場より頂いていた観光案内の地図より探索する。すると国道256号を北西方向(南木曽方向)に2k m歩いて行くことになる。この国道256号は高台を通過しており、左下の阿智川方向に昼神温泉郷を目にしながら歩くことになる。途中より国道256号に沿う様に阿智川が流れている。そ して歩き始めてしばらくすると、国道256号は直進する。一方左方向に分岐する道路が、中央道の園原インターチエンジ方向に向かう。

     阿智村の役場方面より阿智川沿いを歩く、阿智神社の奥宮への道順

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 この左方向への県道をしばらく歩くと、地形に合わせてアルファベットの「J」の文字を逆さまにした様に、県道と阿智川が曲がって行く。そしてしばらくして県道と阿智川の高低差が、約30~50mにもなろうかとする渓谷を目にして、「川の遙か上の道」を歩いていたことに気づく。それにしても阿智川の河原は大小の石は目にするが、あくまで平らであった。この景観を見た時、今も、昔も、古代も同じ景色と思えて来た。すると「思兼命」が歩いた「古代」の道は、阿智川の「川道」を歩いたのでは?と思えてきた。またしばらく歩くと今度は、アルファベットの「J」文字を裏返しして、逆さまにした様に県道と阿智川が右方向に曲がる。そして阿智川沿いの緩やかな坂道を下ると、阿智側川より分岐した和知野川に架かる小さなコンクリートの橋を渡った直後に、左方向の林に囲まれた丘陵を目にする。近づくと丘陵の脇に第一位の神明鳥居と両脇を杉の木立に挟まれた参道が見えてきた。右方向に金石文に刻まれた阿智神社の文字そして、阿智村観光協会が作成した「延喜式内社 阿智神社奥宮」の案内板を目にする。



              延喜式内社   阿智神社奥宮

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 延喜式内社 阿智神社奥宮

この丘陵は昼神に祭られている阿智神社の奥宮です。

昔から村人は「山王さま」と親しみをこめて呼び、小

丘を阿智族の祖天表春命の墳墓「河合の稜」と名づけ

て信仰を集めてきました。

丘の頂、玉垣に囲まれた巨石は磐座であると云われて

きました。

 このごろこの巨石を囲む遺溝が発見され、いよいよ磐

座であることが確かになりました。

 磐座とは古代の祭祀場において神霊が降りてきて鎮座

したところです。この地が阿智神社の祭神、八意思兼命

(天思兼命)・天表春命の鎮座地であるとともに、全国の

総本社であることがうかがえます。

「この二神は信濃国に天降って阿智の祝の祖となったこ

とが平安時代初期に編纂された「先代旧事本紀」に記さ

れておりますし、天思兼命は「古事記」「日本書紀」に高天

原随一の智恵の神として登場しています。

平成二年十月

                      阿智村観光協会    



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 丘陵の細い脇道の参道を登り切ると、眼下の約10m向こうに「阿智神社の奥宮」が見えてきた。奥宮の周りは、至る所に杉の木が生えている。

その宮の前には、石舞台が設置されている。阿智神社のご由緒を見ると、降臨祭(ご祭神の降臨奉祝、奥宮と前宮の御渡りを願う祭)が、斉行されている写真を目にする。そして奥宮の 社にお参りする。当然「ホツマツタヱの暦の研究のお礼」と「検証ホツマツタヱの初号」を「思兼命」にお見せし、更に「お礼」をご報告できた。

9月15日の奥宮は、夕日を左上に背にする。その反対方向に小高い丘がある。磐座参道と立て札がある手作りの石段を10段登ると神明鳥居がある。その奥に阿智神社の祭神である「天 八意思兼命」の磐座(いわくら)が祀られていた。その磐座は大きく周りを薄板の垣根で囲われていて、その中に大きな磐座が鎮座しており、その形状は横に大きな石で、表面は苔が生 えて「永久の時」を刻んでいた。そして傍に「磐座」の説明を目にした。



式内阿智神社本宮の磐座

 磐座のあるこの小山は昔から「河合の陵」と

呼ばれる

磐座の上面は比較的平らな巨石である。この

巨石が社殿の発達する以前、阿智族の守護神で

あり、祖先神である八意思兼神、その兒天

表春神二神の神霊を迎えて祭が営まれた式内

阿智神社の元宮であった。

 この磐座は東西南北を指し、冬至の日の

太陽は磐座の東側先端の延長線、南より下る

網掛山と北より流れる清内路山の稜線との

接点より静かに昇っていくのを拝することが

出来る

              式内阿智神社  本宮の磐座

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阿智神社・奥宮にて思うこと

 オモイカネ、諱アチヒコ・・・・この阿智神社の奥宮にお参りして、「磐座」そして「遺構」の情報を見聞きして感じることは、ホツマツタヱ文献の記述がそのまま現在でも確認で きたことである。このことは何と素晴らしいことであろうか。このことは、古代よりの歴史の波「仏教伝来後の神社の荒廃」や「神仏習合の時代の神仏混同」や明治時代の「廃仏毀釈」 等の影響に打ち勝って、尚かつ、村民に愛されている「阿智神社」、こんなアチヒコが祭られている奥宮に、私は思わず、ホツマツタヱ文献の「ヒルコ姫」と「アチヒコ」の仲睦まじさ を思い出して、ついつい和歌を詠んでしまった。

  

 阿智神社・奥宮を訪ねて

   ヒルコ姫  河合陵 

   訪ね来る  思い焦がるる 

   イモオセの道



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奥宮にお参りした後今日の宿である、「昼神グランドホテル天心」に向けて来た道を戻ることにした。

それにしても「河合陵」と呼ぶからには、川と川が合流する土地のことだが、と思い手持ちの地図を広げると納得した。奥宮のあるもう一方に阿智川の上流が流れていた。この奥宮の 地は、阿智川と和知野川の河合の地にあった。

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帰り道に県道と国道256号が合流する地点のコンクリート垣に、道路標識を目にする。奥宮に来る時は気付かなかったが、標識は右方向に、「飯田・昼神温泉」、左方向に「南木曽・ 妻籠宿」を矢印で書いてあった。

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ヤマトタケの木曽路を探る

 ヤマトタケの東国征伐・平定ルートを通じて、ヤマトタケが訪問した「酒折宮」の所在地を考察してきた。そしてホツマ国平定に同行した「大伴武日命」に見送られて、ヤマトタケ の一行は「弓削(ユゲ)神社」を後に信濃木曽路、尾張へと旅立って行った。このことは、1年前の「検証ホツマツタヱ・第28号(平成19年2月発行)」にて取り上げたので、記憶に新しい読 者も多いことだろうと思う。

この度阿智神社の奥宮からの帰りに、県道と国道256号が合流した場所に掲示してあった、左方向に「南木曽・妻籠宿」、右方向に「飯田・昼神温泉」の標識を見た時、1年前の疑問が 一気に解けた思いがした。



ホツマ39-94~97文

       一人御幸の

ヤマトダケ 信濃木曽路は

山高く   谷かすかにて

つづら折り 架け橋伝ひ

馬行かず  雲別け歩み

飢え疲る



そのことは「ヤマトタケ」が東国平定後に、信濃木曽路を経由して尾張に帰って行くが、上伊那の駒ヶ根市に「ヤマトタケ」の東国平定の記録を残す神社があったが、その後の足取り 掴めなかったからである。

この左方向の「南木曽・妻籠宿」の標識の記載を眼にしてから、尾張方向の岐阜県の「ヤマトタケ」の東国平定に関する神社を捜して見た。



39-98~99文

美濃に出れば

タケヒコも 越より帰り

ここに会う



すると「土岐市」に1社があった。この駒ヶ根市~阿智村~美濃・土岐市と続く道は、国道256号になる。この国道256号の古代・中山道を「ヤマトタケ」が尾張へと帰って行った「道 」となった様だ。

その古代・中山道は、「ホツマツタヱ文献」に記載された「昔、山中 道開く」の「中山道」でもあった。

 ヤマトタケ木曽路を行く  (3) (おわり)



「ヤマトタケ日暮宮を訪ねてく (4)」

 平成28年6月4日作成



 ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く   

 美濃の熊野神社を訪ねて、ヤマトタケの美濃路を探る  

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄



ヤマトタケ、木曽路~美濃に出る ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く 

ヤマトタケが平定した「ホツマ国」「タケヒテル」との別れを惜しみながら、宮津姫が待つ尾張へと、古代の中山道を帰路に着いた。そして信濃木曽路の阿智村を後に、美濃に出られるヤマトタケは、土岐口で日が暮れて、熊野神社で宿をとられた。この宮をのちに「日暮の宮」と伝えられた。今回、熊野迅社を訪ねた。詳細は、論文に発表する予定。

胞 山(恵那山の古名) (本人の撮影)

地元の山名は今でも胞山の名であり、ヤマトタケ伝説が語り継がれ胞山超えの古道は、後に東山道となり仙台に続く街道となった

中山道の妻籠~馬籠の道中から見える雲がかかった胞山の風景 (妻籠~馬籠の中山道は、ヤマトタケは歩いてない)

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美濃の熊野迅社を訪ねる
地図の土岐駅より右下の土岐津町の歩き出すと、約10分くらいで、 

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地図は、約10年以上前に購入したゼンリンの地図を引用した。

土岐川にかかる国道19号の白い橋が見える

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曲がった国道19号の先に地図の右下の熊野神社の森が見える

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国道19号の土岐橋と熊野神社の鎮守の森

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土岐橋より眼下に見る土岐川

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土岐口の熊野神社入り口と参道(この間、土岐市駅より約30分弱)

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第一の鳥居と参道

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熊野神社の御由緒

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御由緒 (拡大)

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第二の鳥居、階段の参道

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第三の鳥居を上の広場より見る

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社務所(この日は閉じていた)

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熊野神社 拝殿、奥に本殿が鎮座  

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熊野神社  別名 : 日暮の宮 

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熊野神社の住所

  岐阜県土岐市土岐津町土岐口1575-1

 

次のヤマトタケの旅は、滋賀県の「醒ヶ井」を尋ねる予定。

 ヤマトタケ日暮宮を訪ねてく (4) (おわり)



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