平成20年1月15日作成
ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く
阿智の里を訪ねて、ヤマトタケの木曽路を探る
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
ヤマトタケ、木曽路行く ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く
ヤマトタケが平定した「ホツマ国」「タケヒテル」との別れを惜しみながら、宮津姫が待つ尾張へと、古代の中山道を帰路に着いた。そして信濃木曽路の伊那には、アマテル神の「
剣臣・ツルギオミ」であり、アマテル神の長子「忍仁・オシヒト」の「皇子・ミコ」守りであり、そして暦を作った「思兼命・オモイカネ」が神上がりされた「阿智の里」があった。
ホツマ10-3~4文
先に皇子守り
オモイカネ 信濃伊那洞
阿智の神
40-1文
マキ向の 日代の暦
四十一年春 ヤマトタケ君
木曽路より 至る尾張の
阿智の里を訪ねて
阿智の里には阿智神社がある。その阿智神社の所在地は、長野県下伊那の「昼神温泉郷」であり、式内社の神社である。その阿智神社には、前宮と奥宮から成っている。私はこの3
月で、ホツマツタヱに接してから15年目の出会となった。その間「ホツマツタヱの暦」に熱中し、暦を紐解いてきた。そんな中に「昔日読みの 思兼 暦作りて ここにあり」とのホツマ
ツタヱ文献の記載が脳裏より離れない。2007年秋、「暦」の研究も一段落したため、またホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く原稿の題材に、「阿智神社」を選んだ。
中央線、飯田線の車窓
出発は9月中旬になった。阿智神社のある阿智村は、長野県飯田駅でJR下車し、あと阿智村までは公営バスと変則である。その間到着までは5~6時間がかかるため、中央線の岡谷経
由か、東海道・新幹線線の豊橋経由かと迷った。だが最終的には、「ヤマトタケが東国征伐・平定した後に、大伴武日命に見送られて信濃木曽路、尾張へと帰路に着いた」甲州街道、中
山道コースの中央線、岡谷経由とした。
当日は、現在版「ヤマトタケの帰路」気分で、横浜を午前7:20に出発した。八王子駅からは中央線のJR特急スーパーあずさ5号に08:33に乗車し、約2時間後の10:25分に岡谷駅に到着
した。その間車窓から富士山を眺め、甲府の手前では右に「酒折宮」を見て、また韮崎を過ぎてから南アルプスの北岳、駒ヶ岳を遠くに眺め、右に諏訪湖を眺めながら岡谷駅に着いた。
それにしても電車の車窓で見る山々も険しく、またまた山の連続である。ヤマトタケが通過した頃は人道は整備されていたと思うが、季節的には冬であり当時の暦の2月~3月である。歩
きでの山越えは、大変だっただろうと思えてきた。
岡谷駅からは10:35発のJR飯田線の天竜峡行に乗車し、飯田駅への到着時間は13:25であった。その間ローカル電車として35駅に停車した。電車の窓から見る風景は山々と、平坦地
は稲刈りの真っ直中であり、至る所に木を組み合わせた「稲の棚」を目にした。飯田駅からは駅前のバス停より、出発中のバスに飛び乗った。1時間ぐらいで昼神温泉の阿智川(浜松市に
流れる天竜川の上流の川)沿いの「昼神グランドホテル天心」前に到着した。幸いに今夜の宿の前が停留所であった。
昼神温泉郷
阿智村の形状を地図で見ると、その形状は「横に面長の六角形で、且つ、中央の上下を中凹にした」様な四国の形に似ている。その右上→中央→左上方向に高速道の「中央道」が通
過している。その中央→左上間が恵那山の裾野であり、中央道の「恵那山トンネル」が通過している。この恵那山トンネル工事に伴って昭和48年(1973年)に「温泉」が涌きだしたとの
ことで、この温泉水を温泉源として、阿智川沿いの山間の開けた土地に「昼神温泉郷」があった。その「昼神」の名前は、ヤマトタケの東国征伐の帰路に関連しており、ホツマ39-97~98
文「峰の御饗に なる白鹿 前に息吐き 苦しむる 君は知ろして 蒜一つ」の「蒜」を「昼」へと読替えた。そして天の岩戸へお隠れ」になった「アマテル神」が、外の騒がしさに
惹かれ、岩戸を開かれ外に出られて、「昼間」を取り戻すことを先導した神が「思兼命」であったとの伝承より、命名されたと云われている。私はここに、「アチヒコ」の妻であった「
ヒルコ姫」の伝承を生かして「昼神温泉郷」としたと命名する暖かい言葉を贈って見た。
宿の数は、昼神温泉ガイドマップ登録で20軒である。また阿智村の村役場は、飯田インターチエンジよりの2km手前の阿智村の駒場地区にある。(昼神温泉郷のガイドより引用)
阿智神社へ
ホテルに荷物を預けて、早々に阿智神社の探索に出かけた。地図は数年前に阿知村・商工観光課の大下さんから送って戴いた、昼神温泉郷のパンフレットが役に立った。阿智神社に
は皆さんも行ったことでしょうが、前宮は昼神温泉郷を一望できる高台にあり、奥宮は温泉街の中央を流れる阿智川に沿って2kmほど遡ったところにあることがわかった。それでは早速
、前宮より探索に出かけた。前宮へは、阿智川沿いより上り坂を200mくらい登ることになる。
途中に木で作られた「曲尺」の案内がある。その説明文を見ると「昼神温泉内の阿智神社に祀られている天思兼命(あめのおもいかねのみこと)は、「ものさし・かね尺」のもとをつ
くった、智恵と学問の神として崇拝されています。この看板は、かね尺からデザインされています。」と書いてある。
この「曲尺、かね尺」の出処は、ホツマ17-6文の「天の巡りの 曲がりさし」であり、智恵の神の「伝承」を、今日に残していた。
そして登り切ると、国道256号線に出る。そして5mくらい斜の道に「阿智神社の前宮」の案内の大きな札を目にした。
阿智神社・前宮
前宮の入り口は、国道256号線に面した神明鳥居が出迎えてくれる。6段の石段を上がるとしばらくゆっくりした登り坂続く。途中に表がガラス障子でできた小さな神倉「阿智大宮繪
傅」がある。その中にはたくさんの、阿智神社の神札類が掲示してあった。その一つは掛け軸「天八意思兼命」を目にした。それにしてもこの札を管理している人は、「鈴木」と云う人
らしく、ホツマツタヱの「スス」暦に何かと因縁を感じた。次に登坂の左側に、阿智神社のご由緒の大きな掲示があった。読んで見ると、
御祭神
天八意思兼命
天表春命
相殿の神
誉田訳命
健御名方命
大山咋命
由緒
当社神社は先代旧事本紀に高皇産富命、兒天八意思兼命、その兒天八意思
兼命と共に天降りまし信濃国阿智祝等の祖となるとあり大古越後より信濃
にかけて躊躇する出雲系諏訪族に対抗する天孫系氏族の尖兵として信濃の
国境を押える最重要地点御坂の東麓この地に来たり駐在し、その部曲の民
を率いて阿智の地方を中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった信濃国
、三大古族の一つ阿智族の本拠で駒場町鎮座安布知神社と共にその祖先神
であり、守護神を祭る神社である。
奥宮は、ここより、阿智川に沿って遡ること2kmの地点にあり、一山
古墳の如く、境内にある苔生した大石は、古代祭祀の磐座であると、学者
により立證せられ、里人は昔からこの山を川合陵と呼び祖神の神霊永久に
鎮まります奥都城処(基地)として崇んでゐる。又、社伝によればこの神は、
工匠の神として稲籾を十個並べて一寸として一寸を十並べて一尺とし、物
の長さを計る単位を定め曲尺を、作り曲尺の祖神として、大工、建具職、
細工職、等材木を扱う人々に、深く信仰せられてゐる。
本県上水内郡鎮座戸隠神社中社天八意思兼命、宝光社天表春命二神は村上
天皇天暦年間この社より分祀せられたと伝えられてゐる。
阿智神社のご由緒は、ホツマツタヱ文献より新しい出典の「先代旧事本紀」を基にしているため、ホツマツタヱでは単に「オモイカネ」と呼ぶ名称も、「兒天八意思兼命」「天八意思
兼命」「八意思兼命」そして「思兼命」の敬称を付けた呼び名になっていた。
それにしても奥宮に「一山古墳」「古代祭祀の磐座」「川合稜」があるとのこと。また「一寸」を決めたのが、「稲籾を十個並べた」長さであったことなど、オモイカネに関すること
が、「ホツマツタヱ文献」を引用しない別世界の掲載に目を引きつけられた。
(参考-1)
ホツマツタヱの「一寸」について
・ホツマツタヱを読んで見るとやはり「一寸」を案じる個所が「19a文 馭典
一貫き間の文」にある。それは「トヨケ」が孫の「オバシリ」に馬の乗り
方を教える個所である。それは、「鐙(あぶみ)縄 まち(余裕)に五キ(寸)
あげ」と教えている。
現在訳は、「初めて馬に乗る時は、足を置く鐙(ステップ)は足が届く位置よ
り余裕を持って握り拳一つ上にて試すと良い」の意味と「騎手が馬上で縄を
持つ位置は騎手のお腹より握り拳一つ離すことで、馬に余裕ができるために
試すと良い」との意味の掛詞になっていると解釈される。
そこで「五キ(寸)」は握り拳の寸法になり、いわゆる指5本の寸法のことで
あった。そうすると「キ(寸)」は、指1本のこととわかってくる。
(検証ホツマツタヱ第10号・平成15年12月発行を引用)
(参考-2)
稲籾の長さについて、インターネットを検索して見た。
HPアドレス http://www.gene.affrc.go.jp/plant/core_collections-wrc01.html
すると「世界のイネ・コアコレクション」に掲載の「ID:WRC 01、原産地:日本、品種名:NIPPONBARE」の「籾長、籾幅」は、「籾長6.2mm、籾幅3.3mm」であった。すると籾粒を10粒縦
にして横に並べると、籾幅3.3mm×10粒=33mmとなる。
そこで、阿智神社のご由緒に記載の「稲籾を十個並べて一寸として」を適用すると、「一寸は、33mm」となり「旧の尺度」の原型が現れることになる。
それにしても「オモイカネのご由緒」と「世界のイネ・コアコレクション」の二つの情報よりを組み合わせただけで、偶然とは云え「一寸は、3.3cm」の旧尺貫法の「尺」の基本単位
が証明されるとは、曲尺を発明した「オモイカネ」の智恵に驚くばかりである。
ご由緒の掲示版を過ぎて直ぐ10段ほどの階段を登ると、「第二の神明鳥居」が現れる。次に第三の神明鳥居まで20段ほど階段が続く。一気に登り切ると突然視界が開け、約50m奥に「
阿智神社の前宮」が燦然と鎮座していた。そして中央部は三列の石畳が続き、途中に相対して狛犬がいて、そして左側は樹齢約50~100年の大きい杉が一列に5~6本並び、右側には約20~
30年の杉が列を成していた。見事な杉である。
私はホツマツタヱの暦を主に研究してきたが、阿智神社のオモイカネの前では、何故か「親父」の前に出た気分になり「親しみ」を込めてお参りした。そして「検証ホツマツタヱの
初号」を「思兼命」にお見せし、「昔日読みの 思兼 暦作りて ここにあり」の一節を、お礼を兼ねて読み上げご報告した。
それもこれも「スス暦」「アスス暦」の研究が、「ホツマツタヱの暦の考察」でご報告できたことへの感謝でもあった。
神社の裏手に周り神社の全景を眺めた。すると神社の周りの木々は、全て杉の木である。このことにホツマ23-97、98文のニニキネより「オコヌシの神」を賜った奈良・大神神社の
「クシヒコ」を思いだし「直ぐなる主お 見分けんと 直ぐなる印の 杉植ゆる」の一節を読み上げていた。このことに阿智神社も大神(三輪)神社も「ホツマツタヱ」に関する神社の境
内は、「杉」が多く植えられていた理由が飲み込めてきた。
阿智神社・奥宮
前宮を後にして入り口の国道256号に出た。そして阿智神社の奥宮の方角を阿智の役場より頂いていた観光案内の地図より探索する。すると国道256号を北西方向(南木曽方向)に2k
m歩いて行くことになる。この国道256号は高台を通過しており、左下の阿智川方向に昼神温泉郷を目にしながら歩くことになる。途中より国道256号に沿う様に阿智川が流れている。そ
して歩き始めてしばらくすると、国道256号は直進する。一方左方向に分岐する道路が、中央道の園原インターチエンジ方向に向かう。
阿智村の役場方面より阿智川沿いを歩く、阿智神社の奥宮への道順
この左方向への県道をしばらく歩くと、地形に合わせてアルファベットの「J」の文字を逆さまにした様に、県道と阿智川が曲がって行く。そしてしばらくして県道と阿智川の高低差が、約30~50mにもなろうかとする渓谷を目にして、「川の遙か上の道」を歩いていたことに気づく。それにしても阿智川の河原は大小の石は目にするが、あくまで平らであった。この景観を見た時、今も、昔も、古代も同じ景色と思えて来た。すると「思兼命」が歩いた「古代」の道は、阿智川の「川道」を歩いたのでは?と思えてきた。またしばらく歩くと今度は、アルファベットの「J」文字を裏返しして、逆さまにした様に県道と阿智川が右方向に曲がる。そして阿智川沿いの緩やかな坂道を下ると、阿智側川より分岐した和知野川に架かる小さなコンクリートの橋を渡った直後に、左方向の林に囲まれた丘陵を目にする。近づくと丘陵の脇に第一位の神明鳥居と両脇を杉の木立に挟まれた参道が見えてきた。右方向に金石文に刻まれた阿智神社の文字そして、阿智村観光協会が作成した「延喜式内社 阿智神社奥宮」の案内板を目にする。
延喜式内社 阿智神社奥宮
延喜式内社 阿智神社奥宮
この丘陵は昼神に祭られている阿智神社の奥宮です。
昔から村人は「山王さま」と親しみをこめて呼び、小
丘を阿智族の祖天表春命の墳墓「河合の稜」と名づけ
て信仰を集めてきました。
丘の頂、玉垣に囲まれた巨石は磐座であると云われて
きました。
このごろこの巨石を囲む遺溝が発見され、いよいよ磐
座であることが確かになりました。
磐座とは古代の祭祀場において神霊が降りてきて鎮座
したところです。この地が阿智神社の祭神、八意思兼命
(天思兼命)・天表春命の鎮座地であるとともに、全国の
総本社であることがうかがえます。
「この二神は信濃国に天降って阿智の祝の祖となったこ
とが平安時代初期に編纂された「先代旧事本紀」に記さ
れておりますし、天思兼命は「古事記」「日本書紀」に高天
原随一の智恵の神として登場しています。
平成二年十月
阿智村観光協会
丘陵の細い脇道の参道を登り切ると、眼下の約10m向こうに「阿智神社の奥宮」が見えてきた。奥宮の周りは、至る所に杉の木が生えている。
その宮の前には、石舞台が設置されている。阿智神社のご由緒を見ると、降臨祭(ご祭神の降臨奉祝、奥宮と前宮の御渡りを願う祭)が、斉行されている写真を目にする。そして奥宮の
社にお参りする。当然「ホツマツタヱの暦の研究のお礼」と「検証ホツマツタヱの初号」を「思兼命」にお見せし、更に「お礼」をご報告できた。
9月15日の奥宮は、夕日を左上に背にする。その反対方向に小高い丘がある。磐座参道と立て札がある手作りの石段を10段登ると神明鳥居がある。その奥に阿智神社の祭神である「天
八意思兼命」の磐座(いわくら)が祀られていた。その磐座は大きく周りを薄板の垣根で囲われていて、その中に大きな磐座が鎮座しており、その形状は横に大きな石で、表面は苔が生
えて「永久の時」を刻んでいた。そして傍に「磐座」の説明を目にした。
式内阿智神社本宮の磐座
磐座のあるこの小山は昔から「河合の陵」と
呼ばれる
磐座の上面は比較的平らな巨石である。この
巨石が社殿の発達する以前、阿智族の守護神で
あり、祖先神である八意思兼神、その兒天
表春神二神の神霊を迎えて祭が営まれた式内
阿智神社の元宮であった。
この磐座は東西南北を指し、冬至の日の
太陽は磐座の東側先端の延長線、南より下る
網掛山と北より流れる清内路山の稜線との
接点より静かに昇っていくのを拝することが
出来る
式内阿智神社 本宮の磐座
阿智神社・奥宮にて思うこと
オモイカネ、諱アチヒコ・・・・この阿智神社の奥宮にお参りして、「磐座」そして「遺構」の情報を見聞きして感じることは、ホツマツタヱ文献の記述がそのまま現在でも確認で
きたことである。このことは何と素晴らしいことであろうか。このことは、古代よりの歴史の波「仏教伝来後の神社の荒廃」や「神仏習合の時代の神仏混同」や明治時代の「廃仏毀釈」
等の影響に打ち勝って、尚かつ、村民に愛されている「阿智神社」、こんなアチヒコが祭られている奥宮に、私は思わず、ホツマツタヱ文献の「ヒルコ姫」と「アチヒコ」の仲睦まじさ
を思い出して、ついつい和歌を詠んでしまった。
阿智神社・奥宮を訪ねて
ヒルコ姫 河合陵
訪ね来る 思い焦がるる
イモオセの道
奥宮にお参りした後今日の宿である、「昼神グランドホテル天心」に向けて来た道を戻ることにした。
それにしても「河合陵」と呼ぶからには、川と川が合流する土地のことだが、と思い手持ちの地図を広げると納得した。奥宮のあるもう一方に阿智川の上流が流れていた。この奥宮の
地は、阿智川と和知野川の河合の地にあった。
帰り道に県道と国道256号が合流する地点のコンクリート垣に、道路標識を目にする。奥宮に来る時は気付かなかったが、標識は右方向に、「飯田・昼神温泉」、左方向に「南木曽・
妻籠宿」を矢印で書いてあった。
ヤマトタケの木曽路を探る
ヤマトタケの東国征伐・平定ルートを通じて、ヤマトタケが訪問した「酒折宮」の所在地を考察してきた。そしてホツマ国平定に同行した「大伴武日命」に見送られて、ヤマトタケ
の一行は「弓削(ユゲ)神社」を後に信濃木曽路、尾張へと旅立って行った。このことは、1年前の「検証ホツマツタヱ・第28号(平成19年2月発行)」にて取り上げたので、記憶に新しい読
者も多いことだろうと思う。
この度阿智神社の奥宮からの帰りに、県道と国道256号が合流した場所に掲示してあった、左方向に「南木曽・妻籠宿」、右方向に「飯田・昼神温泉」の標識を見た時、1年前の疑問が
一気に解けた思いがした。
ホツマ39-94~97文
一人御幸の
ヤマトダケ 信濃木曽路は
山高く 谷かすかにて
つづら折り 架け橋伝ひ
馬行かず 雲別け歩み
飢え疲る
そのことは「ヤマトタケ」が東国平定後に、信濃木曽路を経由して尾張に帰って行くが、上伊那の駒ヶ根市に「ヤマトタケ」の東国平定の記録を残す神社があったが、その後の足取り
掴めなかったからである。
この左方向の「南木曽・妻籠宿」の標識の記載を眼にしてから、尾張方向の岐阜県の「ヤマトタケ」の東国平定に関する神社を捜して見た。
39-98~99文
美濃に出れば
タケヒコも 越より帰り
ここに会う
すると「土岐市」に1社があった。この駒ヶ根市~阿智村~美濃・土岐市と続く道は、国道256号になる。この国道256号の古代・中山道を「ヤマトタケ」が尾張へと帰って行った「道
」となった様だ。
その古代・中山道は、「ホツマツタヱ文献」に記載された「昔、山中 道開く」の「中山道」でもあった。
ヤマトタケ木曽路を行く (3) (おわり)
「ヤマトタケ日暮宮を訪ねてく (4)」
平成28年6月4日作成
ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く
美濃の熊野神社を訪ねて、ヤマトタケの美濃路を探る
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
ヤマトタケ、木曽路~美濃に出る ホツマツタヱ「ゆかりの地」を歩く
ヤマトタケが平定した「ホツマ国」「タケヒテル」との別れを惜しみながら、宮津姫が待つ尾張へと、古代の中山道を帰路に着いた。そして信濃木曽路の阿智村を後に、美濃に出られるヤマトタケは、土岐口で日が暮れて、熊野神社で宿をとられた。この宮をのちに「日暮の宮」と伝えられた。今回、熊野迅社を訪ねた。詳細は、論文に発表する予定。
胞 山(恵那山の古名) (本人の撮影)
地元の山名は今でも胞山の名であり、ヤマトタケ伝説が語り継がれ胞山超えの古道は、後に東山道となり仙台に続く街道となった
中山道の妻籠~馬籠の道中から見える雲がかかった胞山の風景 (妻籠~馬籠の中山道は、ヤマトタケは歩いてない)
美濃の熊野迅社を訪ねる
地図の土岐駅より右下の土岐津町の歩き出すと、約10分くらいで、
地図は、約10年以上前に購入したゼンリンの地図を引用した。
土岐川にかかる国道19号の白い橋が見える
曲がった国道19号の先に地図の右下の熊野神社の森が見える
国道19号の土岐橋と熊野神社の鎮守の森
土岐橋より眼下に見る土岐川
土岐口の熊野神社入り口と参道(この間、土岐市駅より約30分弱)
第一の鳥居と参道
熊野神社の御由緒
御由緒 (拡大)
第二の鳥居、階段の参道
第三の鳥居を上の広場より見る
社務所(この日は閉じていた)
熊野神社 拝殿、奥に本殿が鎮座
熊野神社 別名 : 日暮の宮
熊野神社の住所
岐阜県土岐市土岐津町土岐口1575-1
次のヤマトタケの旅は、滋賀県の「醒ヶ井」を尋ねる予定。
ヤマトタケ日暮宮を訪ねてく (4) (おわり)
ご質問、ご意見などを受け付けております。ご気軽にどうそ゛!!
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ヤフーメールアドレス : woshite@ymail.ne.jp
最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。
(以上)