漢風諡号よりホツマの成立は760年以前だった

漢風諡号よりホツマの成立は760年以前だった

ホツマツタヱの成立時期

概要

 ホツマツタヱの写本は、江戸時代の天安永四歳キシト(1775年)とされる。そのため、文字が古代文字のヲシテであるが、古い文献として世間に認めて頂いてない。そこで、天皇の名前の「和風諡号」、「漢風諡号」より、ホツマツタヱの成立時期を探求した。

その結果、奈良時代の藤原仲麻呂の右大臣が、「官号の唐風化や歴代天皇の漢風諡号の選進などに当たった」との記述を古文献より見つけた。そのため、日本書紀の編纂時期と藤原仲麻呂の官職時期、更に、天皇の諡号を比較すると、720年に編纂された日本書紀は和風諡号のみであった。そして、漢風諡号が日本書紀に追加されたのは、藤原仲麻呂の時の約760年頃以降であることが判明した。日本書紀が編纂された約40年後にあたる。

これまで、ヲシテが考古学上で未発見のため、ホツマツタヱの成立時期はも不明であった。だが、古文献の内容と比較できることでホツマツタヱの成立時期が推定できるようになった。

このことより、ホツマツタヱの成立時期は、江戸時代以前の奈良時代の760年以前の成立であることが確定する。


ホツマの成立(論文) 

 2021_12_17付 

 漢風諡号が教えてくれるホツマツタヱの成立時期

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

はじめに

 ホツマツタヱの最古の安聰本の写本は、天安永四歳キシト(1775年)とされる。そのため、ホツマツタヱは、日本の他古文献と比較されると存在感が希薄になる。そのため、天皇の諡号よりホツマツタヱの成立時期を考察することにした。  

藤原仲麻呂とホツマツタヱ

 藤原仲麻呂《慶雲3生年(706年)~天平宝字8没年(764年)》は右大臣の時、「官号の唐風化や歴代天皇の漢風諡号の選進などに当たった」とされる。そこで、藤原仲麻呂と日本書紀の編纂時期から諡号を見ると、藤原仲麻呂より約40年前の720年に編纂された日本書紀は和風諡号のみであった。そして、日本書紀に諡号が追加されたのは、約760年頃以降であった。

 そのため、日本書紀、ホツマツタヱの諡号を比較した結果、ホツマツタヱの成立時期が江戸時代の天安永四歳キシト(1775年)より遥か、古代に遡ることが判って来た。  

和風と漢風諡号の比較結果

 和風諡号は日本書紀、ホツマツタヱはほぼ同じ名である。そして、日本書紀、ホツマツタヱの本文には、漢風諡号の神武天皇の記述はない。

 このことより、ホツマツタヱは約760年以前の成立であり、更に、漢字文字より古い、古代文字のホツマツタヱは、日本書紀の編纂の720年以前に、すでにホツマツタヱが存在したことが証明される。

 kanfu_namae

<参考情報>

Web情報(1)

藤原仲麻呂

 藤原仲麻呂は、平宝字8(764)年9月藤原仲麻呂の乱、または、恵美押勝の乱で没するが、天平宝字2(758)年~4(760)年には淳仁天皇の右大臣を成した。その業績の特徴は、唐制の徹底した模倣により律令体制の完成を期そうとし、大宝律令にかわる養老律令を施行した。その中の一つに、官号の唐風化や歴代天皇の漢風諡号の選進などあった。

Web情報(2)

 中山千尋著「天皇の諡号と皇統意識-漢風諡号の成立をめぐって」(『日本歴史』2000年3月号 p1-20 吉川弘文館 2000.3)

 p3「漢風諡号の撰進は御船が文部少輔となった天平宝字六年(762)正月頃から開始され、彼が美作守に任ぜられた天平宝字八年(764)八月ごろまでの間に行われたと考えられるのである。」とあり。

(注)歴代天皇の諡号の一覧あり

 p7-10  表1 史料に見る歴代天皇の諡号(和風諡号・漢風諡号)

 p12-14 表2 『続日本紀』の編纂過程にみる天皇称号の採用の変遷

ご質問、ご意見などを受け付けております。ご気軽にどうそ゛!!

  woshite@b09.itscom.net

メールアドレスをクリックしますと、メール画面が現れますので、そちらより「発信」をお願いします。 


 最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。

                                 (以上)