島原の乱の地と島原記(明和4年)

島原の乱の地と島原記(明和4年)



歴史探訪 江戸時代のキリシタンの歴史を辿って見ませんか



島原の乱の地

私は島原出身ですが、キリシタン側ではなく島原藩士側だったようです。

 その根拠が知りたくて、原城のキリシタン布陣を見ました。そこには、杉谷村の両側の村である、島原村と三会村は記載されておりましたが、杉谷村は記載されておりませんでした。更に、疑問が湧き、島原の乱の当時は、杉谷村はそもそも存在したか、否かを調査して見ました。

 国会図書館の資料を見たところ、島原村と三会村は記述されているが、杉谷村はありませんでした。このため、島原の乱の当時は、杉谷村は存在してなかったことがわかってきました。

 だが、昭和15年の市政採用まで杉谷村が存続したことを考察しますと、島原村、三会村のどちらから分村したかをと考えて見ました。すると、杉谷村の中の宇土に水源がありますが、この場所に島原の乱の前に、外堀を造る計画が存在した記録がありました。

 すると、杉谷村は元々は、島原城の農村の島原村に含まれており、江戸時代にその島原村の北東部が分村し杉谷村になったことがわかってきました。そして、島原市が昭和15年に市政を採用したおり、大昔に島原村であった杉谷村は、市政と同時に簡単に編入されたようです。

 なお、先ほどの三会村は、市政への編入に遅れること15年後でした。このことは、島原城の城下でなかった三会村は市政への参加も遅れることになったことが推測されるようです。                                                                                                      

 このように、私の先祖は、島原藩士のようです。もし、キリシタンであったならば、すべて殉職しているため、このHPも書けなかったと思います。時は、400年近く前のことになりますが、忘れることができなく、全世界の人に訪ねてもらいたく掲載しました。また、嶋原記と云う江戸時代の写本を手に入れましたので 島原の乱について紐解いて見たいと思います。

また、島原の乱が、講じて、下記のように杉谷村の起源を解読できました。ご覧下さい。

歴史探訪 長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り)

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

 

 嶋原記 明和4年(西暦1767年写本)島原の乱より129年後 (本:吉田所有)      

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(注)嶋原記

インターネットで嶋原記の古書を調べますと、上記の写本は5点中4番目に古い本になります。                                                             

(1)1649年(慶安2年)早大図書館

(2)1704年(寛永元年)筑波大図書館

(3)1762年(宝暦12年)国会図書館

(4)1767年(明和4年)吉田所有写本

(5)1786年(天明6年)国会図書館

島原の乱と幕府施策                                                    

 島原の乱を放置していた場合、日本はポルトガルの植民地になっていた可能性がありました。 そのため、幕府は一年半後に鎖国政策を取らざる得ませんでした。      

 

 本物語は、「国立国語研究所のくずし字」のWebより引用した。

 吉利支丹物語 (1637年、寛永16年年8月編)

 2021年5月9日~20日付

吉利支丹物語の持つ意味

 島原の乱についての戦記は、11年後、66年後、124年後、146年後の文献は目にするが、当吉利支丹物語は 約1.5年後に書かれた文献であった。(1639年、寛永16年年8月編)

(ご参考)島原の乱

寛永14年10月25日(1637/12/11)勃発、

寛永15年1月27日 (1638/2/12)の夜総攻めせん 

寛永15年2月28日 (1638/4/12)終結

○筑紫の肥前 島原 天草 一揆を起こす事

現在文 (吉田六雄訳文)

寛永14年10月25日(1637/12/11)勃発、

 寛永十四年十一月中旬の比、島原天草一揆頻り(頻繁)に起こして、櫛の歯を引かく。早、飛脚、早、伝馬の行き違ふ事。夜昼の境なし。その乱症を尋ぬるに、松倉長門守は入用の地也。六万石宛行なわるる所々(あちこち)。

 私、検知して、髙拾弐万石を物成(年貢のこと)、五つ六つにして無体(無理)にむさ(むちゃ)ぶり取る。百姓とも年々の疲れによつて、当年は閏べき子も牛馬もなし。何を以て、神妙を繋ぐべきやと、ても(それにしても)がし(考え)に及ばんより一揆を起こし、末代まての好期に止むべきと。

 天の四郎と云ふ者を大将にして、即ち、吉利支丹のたんぎ(弾碁・昔の遊戯の一種)を解かせしつてい(砧を打つ音や機を織る音などを表す語)を一途に究るも四威儀(行・住・座・臥の四種の作法)云ふ者。荒れは、切って捨て。腰差し笠印し、まぼり(守り・見守る)にクルスと云ふ者を知りける。

 すなわち長門の守、在江戸の留守を伺い。城下は申に及ぼす。二、三里四方(に)放火せしめ ひやうらう。味噌、塩、玉薬以下で、うぶ(初)に用意して島原の古城(原城)を夜昼(に)普請を企つる。総じて、此城と申すは、東は荒海、西は沼塩のさし(尺)引き合って、馬の蹄も絶たず。南北(に)岩石そびへたり。縦十八町、横十町ばかり。中に空ら堀、三重に堀り通し。山の腰を掘って鉄砲ざまを上け、本丸にこでん(戸田)周を挙げ出し、矢倉出し塀い、境も木階立て、二の丸三の丸まで思ふづに拵え(て)立て篭もる。

 人数は、ざうひやう(座右兵・身のまわりの兵)三万四五千に及へり。中にも下げ針をも射る程の弓、四五百ちやう(丁)、獣兎の走り物空飛ぶ鳥を初刺さる程の鉄砲八百(丁)からはかり又、土手にひつ(櫃)添えて、どう木、石、弓共切って落とす匠。女、這うとものやくやく(次第に)には、砂を入りて、大杓子にて救い、軽くにゑ湯を沸かして掛くるもあり。鞠ほと(の)つゝの石を投くるも、それぞれの役者付けをしたり。

 御上使(幕府らの勅使)に、板倉内膳正石谷十蔵介、重ねて御奉行に松平伊豆守。筑紫大名には、細川越中守、黒田右衛門佐鍋島信濃守、 有馬玄番允橘飛騨騨守、寺沢兵庫頭小笠原右近、大夫侍大将水野日向守、戸田左門督。その外は記すに及ばす。其一、備へひと早苗。芝手を付き、 逆茂木(いばらのとげを並べた垣根)を結い、柵を付(け)、井楼(物見矢倉)を挙げ。しより(胥吏・ 低地位の役人)を千取り掛けに竹束もつ。

 縦亀の甲、水銀掘り、八重は重へに取り巻き、海手(海の方)は垣楯(大形の楯)。盲船、大せんを絡み矢倉を挙げ、石火屋(火葬場)大筒並む(ぶ)間もなし間に鳥ならては、陰り難し。昼は、足軽、鉄砲の物をいたして、雨の降る程は無しけれ(ど)、共(に)過こしもひめ(る)まず。城の内よりは、山の腰を掘り穿ち(穴をあけ)。鉄砲ざまを三段に上け、坂をとし(妬視・徒死)に撃つ。 城への道、大手絡めてに、二筋有(り)と云へとも細道、岩伝ひなれは、一揆討ちにしてさう(障ふ・さえる)なり。

 平時玉手は思ひもよらず、夜は去る火車火を致しありの這うまでも見透かす日々夜々よせて(寄せ手・ 攻め寄せて来る方の人または軍勢)の人数(を)損する計り也。城は岩石圏、何してた(堪)うの苦輪の上を中群る(群れる)瑕疵。何とも攻めあぐ(倦)んて、日々談から一途に極まらざる所に、江戸よりの御ちうしん(忠臣)に曰く札。即に、攻め手(の)人数(を)損なふべからす。一揆風情、倹素(質素で飾り気がない)をかまへいかほと有りと云ふとも物の数ならす。追い構へて攻む枯らすと追々に早飛脚重なれり。

 諸大名衆、御上使(幕府の勅使)の陣屋に集まり賜ひて、ひやうぢやうに曰く。そうして此こしろたとひがくつせきへきして、黒鉄の網、二重三へに張と云ふとも、蚊虻(ぶんぼう・弱小なもの、詰まらない物の例え。)(が)集まって、雷を成すに似たり。一時、攻めにして文(を)散らさん事。 あんの内なりと云えとも百姓、ゑつた(穢多)、乞食の炊く火に所作不意(に)友を撃たせては、不貧の事也如何はあらん。

 詮ずる所は、すねん(数年)の蓄えも無く俄かに立て篭りたる物なれは、ひやうろうか玉薬担きざる事は、夜も嵐、其上、御おきてと云ひかたかた持って、先一ヶ月も揺るがせすへしと、檀家浮きわまる所に、鍋島信濃守(の)手先へ夜討ちを打(ち)、内々思ひ設けたる事なれは、得たりやかし枯死と引っっかんて、百四五十首を取り、(そして)、生け捕り二十人(を)絡め取る。残る二百人余り、はうはう(這いつくばりながら)城へ逃げ登る。さて、死人どもの腹を(切り)開けて見れば 海藻、木葉、青麦なとを喰らひて飯のある腹は、一人もなし。

寛永15年1月27日 (1638/2/12)の夜総攻めせん 

 さては、ひやうらう無きと、心へて(1638年)寛永十五年正月廿七日の夜半より総攻めせんと、ちよぢんへ相触れ、一番(ほら)貝に飯をく、二番(ほら)貝に身(を)こしらへをし、三番(ほら)貝を合図に、腰差し(腰にさすこと)合ひ記し、大方は素肌ざうひやうは藁にて兜を組み手(に)かつき(被衣)合う。鳥群雀のくへい坂も木かんぜきひし(災難、身の不幸、破滅)を、巻きたる所とも云はず、乗り越え跳ね超え、我おとらしと二の丸に着くかな(と我)恥とや思いけん。

 門を開き槍、襖を作りて込み入りこみ致し、二三度、火花を散らしけるが、付け入れにせられて、肩端、首を取られ(て)、詰の丸へ窄む所に、火屋を雨のふる降る八は、よりいこめは身の置き所なさに込み出るを、串射し、胴斬り、追い打ちに、時(を)計りの内にらつ(拉・くだく、つぶす)(に)きよ(寄与)して、死骸(は)山のことし。

 諸手へ取らるゝ、首かす(首のない胴体)を記すに壱万五六千(人)。やけじ(焼け死)に切り捨てに成る者女(か男か)わ(か)らんへ(ん)、都合四万余り寄せてもを、ひたゝ(水が押し寄せるように、次第に迫ってくるさま。)しく損じて、哀はれはこれにと止めたり、大やう小ミやうによらす。

 今度の働き、自身、(自ら)手を砕かれ人数のやり配りの見事。何れをそれと分けて褒め難し。昔、物語に、顔と人の滅ひたる(は)、聞も、をよはさる(及ばさせる)御事也。

 おわり

(1)原城攻防布陣  左下:キリシタン 右上:幕府軍   

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(2)原城 遠望視 二の丸方面から本丸を望む   

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(4)原城 近望視 二の丸方面から本丸を望む   

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(5)原城 北側の石垣   

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(6)原城 左石垣   

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(7_1)原城本丸   

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(7_2)本丸虎口跡   

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(8_2)天草四郎時貞   

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(10)天草四郎時貞の墓碑 解説   

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(11)原城 史跡 長崎県知事筆   

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(12)原城史跡 (拡大)   

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  顕彰文 (全文)   

 徳川幕府のキリスト教弾圧、同時に松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪性によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。 天然の要塞、原城はたちまちにして、修羅の巷と化した。時は、寛永十四年十二月(一六三六年) 幕府の征夷将軍板倉内膳正重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。しかし、信仰に固く結束した、信徒軍の反撃に惨敗、重昌、自らも、戦士した。 思わぬ苦戦に、あせった幕府は、老中松平伊豆守信綱を急派。陸海両面より、城を包囲、やぐらを組み、地下道を堀り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。遂に、信徒軍の食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と、相次いで落城。  主将四郎時貞をはじめ、老若男女、全信徒相抱いて、古城の露と消えた。これ、寛永十五年二月二十八日である。その数、二万七千有余。思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ、幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。強大な武力と、権勢に立向った、その団結と、情熱、信仰の強さ。遂に、悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱に、当時の国政の上に、痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを、内外に宣伝した。 史家をして、 「苛政に始まり、迫害に終わった。」と、いわしめた島原の乱。優美にして堅固。かつては 日暮城とまで讃えられた原城。いま、古城のほとりに立つて、往時をしのべば、うたに、感慨無量。信仰に生き抜いた、殉教者の、みたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じ得ない。ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を、顕彰する次第である。昭和三十二年五月二十五日 長崎県知事 西岡竹次郎     

 

(15)史跡 原城跡案内版   

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(17)史跡 原城跡 案内文   

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