長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り)
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2021_10_9付 改7
2020_3_14付 4_13、改6
長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り)
ホツマツタヱ史学研究家 吉田六雄
杉谷村を起こしたのは、松平家の初代殿様の忠房であった。 筆者が、子供の「1958 年(昭和 33 年)頃、父より杉谷村の起りを聞いていた」との風聞につい て、その風聞の出所を調べた所、その風聞は真実の話であった。そして、杉谷村の命名者は、江 戸時代、丹後国宮津藩の宮津城より 1669 年に肥前島原に移封して来た、松平家の初代(島原 城としては 5 代目)、忠房であった。今回、この情報元を原城、Web 情報より下記のように調査した。
Ⅰ、前編
1、杉谷村(旧名)
杉谷の地名は、1889年(明治22年)4月1日に町村制施行により、長崎県南高来郡杉谷村として単独村制にて発足したが、1940年(昭和15年)4月1日に島原町、安中村と合併し市制施行。島原市が発足し、杉谷村は自治体として消滅した。
その消滅した杉谷村が、本来は「いつ頃から存在したか」について、歴史を遡って調査した。本文はその記録である。
明治以前に杉谷村が存続したか否かの記録を、これまでに辞書、地名辞典などにより捜して来たが不発であった。新たに杉谷村の記録を捜す機会になったのは、2008年に原城を訪問した時、幕府軍とキリシタンの陣容図に杉谷の名が未記載であったことです。だが、良く見ると、両隣村の島原と三会は記載されていた。このため、「島原の乱の1638年には杉谷村は無かったのか」との疑問が出てきた。それから長年に渡り、「杉谷村はいつ頃から起こったのか」と自問して来た。
杉谷村の起こりを父から拝聴して約60年、原城を訪問してから12年と、少しばかり時が経ったが、今年の三月に江戸時代前期(4代藩主)→後期(6代藩主)の文献に、杉谷村の名が未記載→記載されていた文章を発見していた。このことより、今回の杉谷村の起こりは、6代藩主の頃の記録に杉谷があり、恐らく5代藩主が杉谷村を起こしたことが容易に推定できる内容であった。また、命名に当たっては、峰山町の繁華街に当たる杉谷を峰山より島原に移封された島原藩の5代藩主が命名していた可能性がわかって来た。この杉谷村の起こりの年代が判明したことは、旧・杉谷村の住民には大きな歴史的な遺産になるであろう。
2、杉谷村の起こり
風聞
1958年(昭和33年)頃、父より杉谷村の起りを聞いていた。その記憶は、『島原半島の北の愛野(地図 15番)当たりに、宮崎一族の祖先が居た。ある時、島原の殿様の前で、「鉄砲を所持している理由を問われた」とのことである。咄嗟に出た言葉は、「島原半島に侵入して来る敵を打つためです。」と答えたと云う。これに、殿は感心され「宮崎一族の長に杉谷村を分けて与えられ、庄屋にされた」とのことであった。だが、島原村を分けて杉谷村をもらったのか? 記憶の中では曖昧である。そして、現在も、昔の杉谷村の旧庄屋元の家は存続している。また、この風聞はいつ頃のことだったか、聞き漏らしていた。
3、杉谷村
地図上の場所
1883年(明治16年)頃の地図を見ると、2番の島原村に対し杉谷村の3番は島原村を半分包むような形状の地形であった。他地区の形状を見ると、すべてが島原半島の尾根~海に至る形状であった。
1.島原町 2.島原村 3.杉谷村 4.三会村 5.大三東村 6.湯江村 7.多比良村 8.土黒村 9.神代村 10.西郷村 11.伊福村 12.古部村 13.守山村 14.山田村 15.愛野村 16.千々石村 17.小浜村 18.北串山村 19.南串山村 20.加津佐村 21.口之津村 22.南有馬村 23.北有馬村 24.西有家村 25.東有家村 26.堂崎村 27.布津村 28.深江村 29.安中村 30.湊町(紫:島原市 桃:雲仙市 赤:南島原市)
4、杉谷
意味
現在の辞書の解説を見ても杉谷の単語はない。現在に残されている杉谷は、「大杉谷」の渓谷の地名であった。「大辞林より引用」すると、【大杉谷】 三重県中部、大台ヶ原山から流れる宮川最上流の渓谷。日本屈指の多雨地域。密林の間に多数の滝がかかり豪壮な景観を呈する。
5、杉谷
地名を辿る
現在では、杉谷の意味は不明であるが、明治→江戸時代の後期、中期、前期へと遡ると、年代的に杉谷村の地名が使用、未使用であったことが判明するだろうと思い、Web上で調査して見た。
1)江戸時代(1603年~1867年)、後期(1779年~1867年)
(1)伊能大図1809年 杉谷村の名あり。
伊能忠敬は、「伊能大図」を作るため、1800年~1818年にかけて全国を回っていた。そして、1809年には、第7次測量として、中山道、近江、山陽道、九州、中国内陸、甲州街道を測量していた。また、1812年には、8次測量として、島原城下も測量していた。伊能大図の旧地名を見ると、杉谷村杉山名、杉谷村山寺名、杉谷村馬場名が見られた。なお、1812年は島原大変の20年後であり、島原内の地名は、安徳村、中木場村、嶋原、島原村今村名、島原村柏野名であり、島原~安中(安徳村、中木場村)までの間の地名はなく、この原因は、眉山の崩落で地名が消滅していたことが想像された。
(2)島原大変1792年 杉谷村の名あり。
寛政4年(1792)4月1日夜、島原城下町の裏にそびえている眉山が崩壊して町を埋め尽くし、大津波が発生しました。この記録を国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所は、「日本の歴史上最大の火山災害 島原大変」としてWebに掲載していた。引用すると、「寛政4年1月18日(1792年2月10日)、地震は再び活発火し。鳴動も起こりました。翌19日朝、普賢岳から噴煙が上がるのが確認されました。・・中略・・昼過ぎに手代二人ともに、山奉行二人と杉谷村番人中村利右衛門が踏査から戻ってきて山頂の状況を・・中略・・」と報告しており、杉谷村があったことが判明する。
2)江戸時代(1603年~1867年)、中期(1691年~1779年)
(2)島原大概様子書1707年 杉谷村の名あり。 第6代松平忠雄1698年~1735年
第5代松平忠房1669年~1698年
角川地名大辞典(旧地名)長崎県の島原藩(近世)を引用すると、北目筋に杉谷の地名が記載されていた。『現在島原市立図書館に収蔵されている「松平文庫」は,忠房が収集したものである2代忠雄(1698年~1735年)の時期には藩側の記録「島原大概様子書(1707年)」も完成し,村々の概況を知ることができるこれによれば,島原本藩領は城下の島原町のほか,村々は北目筋・西目筋・南目筋の3筋に大別され,北目筋には島原・杉谷・三会・三之沢・東空閑・大野・湯江・多比良・土黒【ひじくろ】・西郷・伊古・伊福・三室・守山・山田・野井・愛津の17か村など・・(中略)・・』。
3)江戸時代(1603年~1867年)、前期(1603年~1691年)
(1)寛文朱印留(総検知)1662年 杉谷村の名は不明。 第4代高力隆長1655年~1668年
角川地名大辞典(旧地名)長崎県の島原藩(近世)を引用すると、村名に島原、三会は記載されていたが、杉谷の地名が未記載であった。『1662年・寛文2年に領内総検地を実施した「寛文朱印留」での高力氏の所領は,肥前国高来郡のうち31か村,高3万7,000石で,村名は島原・三会・三沢・東穴(空)閑【ひがしこが】・大野・湯江・多比良【たいら】・・・・(中略)・・』。と記述されており、島原・三会はあるが、杉谷は未記述であった。このことから、1662年には、杉谷村がなかったことになる。
(2)島原の乱(1637年~1638年) 杉谷村の名は不明。
島原の乱は、初代板倉重政、2代勝家の圧政により「島原の乱」が起ったと云われている。そこで、杉谷も島原の乱に参入していたかを見るため、原城のキリシタンと幕府軍の布陣を見た。だが、両陣営には、杉谷の名は無かった。杉谷村の両隣の村である島原村と三会村は記載があった。更に、疑問が湧き、国会図書館の資料を見たところ、島原村と三会村は記述されているが、杉谷村の名見られなかった。
原城攻防布陣 左下:キリシタン 右上:幕府軍 4)戦国時代 杉谷村の名は不明。
Web上の長崎県島原市・南高来郡方言研究(一) 古瀬順一(昭和42年5月10日)書を引用すると、『現島原市は、戦国時代、島原氏と呼ばれる豪族が勢力を貼っていた。元和2年(1616年)大和五条より島原藩主にとして松倉豊後守重政が派遣されている。その後、高力、松平、戸田、松平と当藩主が変わっている。旧藩主時代は、当市街を三等分し、三会町、新町、古町の各別当をおいていた。その外郭は島原村と呼び、庄屋が統治したのである。その明治4年の廃藩置県によって島原県となったが、同11月には長崎県に統合されている。』と記述されていた。
注釈になるが、当市街は内郭のことと思われる。なお、杉谷村の地名は文章上にないが、島原村の城下の外だったか、または、島原村の中にあり、未だ、分かれてなかったことが推測される。
6)杉谷村
まとめ
(1)島原藩杉谷村の歴史的の起り
まだ、調べ尽くしてないかもしれないが、1638年の島原の乱の記事には杉谷村の記述はなかった。また、1662年版の寛文朱印留(総検知)にも島原、三会の村名は記載されていたが杉谷の地名が未記載であった。だが、1707年版の島原藩の総検知書である「島原大概様子書」を見ると杉谷の地名が記載されていた。このことから、杉谷村の起こりは、1662年~1707年の間になるようだ。
(2)藩主と杉谷村の関係
なお、この間の島原藩主は、高力家の第2代(4代)の隆長(1655年~1668年)で1662年に「寛文朱印留(杉谷の記述なし)」の総検知を実施した。次の藩主は、1669年に福知山より入城した松平家の初代(5代)忠房(1669年~1698年)になる。次の藩主は、2代(6代)の忠雄(1698年~1735年)で1707年に「島原大概様子書(杉谷の記述あり)」を完成させた。
(3)藩主の移封元と杉谷の関係
また、杉谷の名の起こりに関連して、島原藩の藩主の移封元を調べて見た。すると、松平家の初代(5代)忠房は、島原藩主に赴任する前に、1649年に丹波天田郡・何鹿郡など、また、丹波福知山に移封。また、1666年には丹後国宮津藩の宮津城の受け取り役になり、1669年に肥前島原に移封して来た。そこで、忠房が赴任した地区に杉谷の地名がないかとWebで捜すと、丹波天田郡、何鹿郡、丹後国宮津、福知山の近郊に京都府京丹後市峰山町杉谷(旧・中郡峰山町杉谷)が存在する。杉谷は他に、君津、富山、越前、掛川、菰野、鳥取、岡山、甲賀、森山にあるが、松平家の赴任地でなかった。このことより、松平家が島原に杉谷村を起こした説が有力になって来た。また、新しい史実がわかって来た。峰山町の杉谷は、街の中心部にあるとのことであった。昔、殿様が街の中心部の杉谷の地名を島原村を分けた時に、杉谷の地名を付けたことも頷ける。(現在の銀座、戸越銀座の名づけに近いようだ。)
(4)島原より杉谷を分けたのは、松平家の初代、忠房が有力となった
また、松平家の誰が杉谷村を命名したかを調べると、初代(5代)忠房は1619年生まれであり、2代(6代)の忠雄は1673年の生まれである。松平家が島原藩主に赴任したのが、1669年である。すると、2代の忠雄は1673年の生まれのため、島原で生まれたことになる。このことより、筆者が子供の「1958年(昭和33年)頃、父より杉谷村の起りを聞いていた」との風聞は、真実の話に近く、杉谷村の命名者は、過去の経歴で杉谷の地名を知っていた松平家の初代(5代)忠房と云うことになる。2代(6代)の忠雄は、杉谷の地名を知り得なかったことになる。
(このHPをご覧の方で、1707年以前、島原の乱以前に杉谷村が存続したとの情報があれば、ご一報下さい。)
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メールアドレス woshite@b09.itscom.net
2021年7月24日付
杉谷村の起こり
現島原市本町には、現在も旧庄屋家が存続しております。
そこで、当主に電話てお話をお聞きしました。すると、口伝や地方誌の四篇に杉谷村の起こりが残されているそうです。
要約しましすと、杉谷村の庄屋は、杉谷村に来る前は千々石の村長であったそうです。そして、江戸時代の万治元年(1658年)に移封があり、三会村杉山郷より分割された杉谷村に庄屋として赴任されたとのことです。
万治元年(1658年)は、第4代高力隆長1655年~1668年)の藩主の頃になります。
この長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り)を最初に公開したのが、2020_3_14付である。それから、約4年が経過した。その間、杉谷村の起源(起り)に関する新たな史実を見出せなかった。だが、2024_2_15付に場面が変わっていた。その変化は。ヤフーの検索エンジンのお陰であった。
ホームページ「長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り)」は、現在では、ヤフーに取り上げられている。そして、コメント欄に「島原大概様子書」を引用されている。私のホームページの下を見ると、コメント欄に「島原大概様子書」を引用した無料ウェブ百科事典。DIGITALIOとC-POTが運営するホームページの「杉谷村(読み)すぎたにむら・日本歴史地名大系 「杉谷村」の解説」などの他があった。後編では、このような多くのWeb情報を引用し「長崎県(旧)南高来郡杉谷村の起源(起り)」を探究した。
Ⅱ、後編
1、1707年前後の史実
Webより引用
(1)元和2年(1616)の大村領預り地村役人証文(大村見聞集)に記される「三会村北道さし(散使)」「同 南道さし(散使)」の南道が当村とされ、有馬氏転封に伴い大村藩預地になっていた。
(2)寛永14年(1637)の島原の乱で地内の宇土で一揆勢と島原藩兵との激戦があり、寺は焼失したという。
(3)正保2年(1645)の高来郡内高力氏領分図に「三会内杉山村」として高六五四石余とあるのが当村で、また別に「杉山村内千本木」と記される
(4)高力家の第2代(4代)の隆長(1655年~1668年)となる。
(5)(三会村)村より分立したのは万治元年(1658)か同2年(1659)とされる。
(6)だが、1662年版の寛文朱印留(総検知)にも島原、三会の村名は記載されていたが「杉谷」の地名が未記載であった。このため、万治元年(1658)の三会村より分離の杉谷村は、公式的(検知)に認知されてなかったと思われる。
(7)次の藩主は、1669年に福知山より入城した松平家の初代(5代)忠房(1669年~1698年)になる。
(8)次の藩主は、2代(6代)の忠雄(1698年~1735年)になる。
(9)宝永3年(1706)から宝永4年(1707)の検知の記録とされ、早い時期の検地は「島原領内村明細帳」に記され、この島原領内村明細帳によれば、杉山名・山寺名の二名に分れ(中略)が見える。だが、杉山名・山寺名は、現在も存続しており「町名、または、部落名」とも思われる。そして、検地の記録書が完成し、改名された宝永4年(1707)の「島原大概様子書」には、前編て記述したように、「杉谷」の記述が見え、その後の寛政七年改、文政六年にも加筆されたと云う。
2、杉谷村(旧名)の出現
今回のWeb探究で、今後の探究すべき歴史的な確認事項が明確になった。そして、現在、島原図書館内の肥前島原松平文庫に保管されていると云う「高来郡内高力氏領分図」より三会村、杉山村、杉谷村の再確認が必要になって来た。また、同様に「島原領内村明細帳」、更に、「島原大概様子書」においても、三会村、杉山村、杉谷村の再確認が必要になって来た。このことより、「杉山村」、「杉谷村」の変遷、出現時期が明確になると思われる。
3、現在(2024_2_16付)より考えられる杉谷村(旧名)の出現と必要性
吉田の推理
高力氏の万治元年(1658)の頃には、杉谷村(旧名)は別名の「杉山」として存続していた。なお、杉山は、現在も町名として一部に存続している。だが、宝永3年(1706)から宝永4年(1707)頃の「島原領内村明細帳」によれば、「杉山名・山寺名の二名に分れ」とあり、この時点では、まだ、杉谷村(旧名)は存続してなかった。そして、後の宝永4年(1707)の「島原大概様子書」には、「杉谷」の記述が見えるところから、当時の役人には、検知の記録を「三会村」と「三会内杉山村」を明確に分けることが生じた。このことから、松平家の2代(6代)忠雄にお伺いしたところ、前編の「松平家の初代(5代)忠房は、島原藩主に赴任する前の前任地の丹波天田郡、何鹿郡、丹後国宮津、福知山などの近郊にある京都府京丹後市峰山町に杉谷(旧・中郡峰山町杉谷)が存在した。」ことを述べられた。そして、「三会村」より分離した新しい村名を「杉山」の地名に近い「杉谷村」と命名されたとも推測され、そして、検知結果の「島原大概様子書」に記載されて幕府に報告されるに至った。
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