伊吹山の由来の考察とモチタカ(イフキ神)
ホツマの世界 伊吹山の由来の考察とモチタカ(イフキ神) New !! 注記、スス暦の西暦年代への換算は、ホームページ「(1)ホツマツタヱ暦学講座」 (2)「日の神(天照大御神)の誕生と新紀年の設立」 を引用しました。
祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見
2018年11月22日~27日
伊吹山の由来の考察とモチタカ(イフキ神)
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
伊吹山と云えば、滋賀県米原市、岐阜県揖斐川町、関ケ原町にそびえる標高1,377米の山である。山頂は滋賀県米原市に位置している。 だが、この山は「なぜに 伊吹山」と呼ばれるのかとの疑問が先に立つ。だが、ホツマツタヱには伊吹山の直接の記述はないが、この疑問を解いてくれそうなヒントの記述が、モチタカが神上がりされた後の生誕97~114年頃と、生誕177年頃に残されていた。そのヒントの一つ目には、事代主のツミハがハラの宮、飛鳥の宮、イフキの宮を訪ねており、過去に「伊予の伊吹の宮が、二十四県をして治めていた。」と記述していた。 また、二つ目はタケヒト(神武)の臣の高倉下が、各地を視察中に聞いた昔話として「イフキの臣が三十二県、二十四県を征伐し治めた」と記述していた。 そして、征伐の国の範囲に現在の伊吹山も含まれていた。このように、伊吹山の命名の元になったであろうかモチタカ(イフキ神)の活躍(ハタレの戦い)の伝説が各地に残されていたことは、イフキ神が慕われていたことの証明であり、伊吹山の命名もその恩恵の一部かと思わる。
そのことを裏づけるように、アマテル神の御世(32鈴以前、25アヤ(綾)以前、紀元前245年~紀元前242年頃)ではあるが、実質の政は、伊予のイブキ宮での月読の神、イブキ神を中心に行っていたことが目に浮かぶ。
だが、月読の神の活躍は、後のヤマトタケの悲劇の話に隠されてしまった。
伊吹山のホツマの記述
ずばりの伊吹山の名は、ホツマツタヱには記述されてない。
だが、ホツマツタヱには、伊吹山の地名の元になったと思われるイフキヌシ、イフキト、イフキトヌシ、イフキカミ、阿波のイフキカミ、伊予のイフキの名が見える。また、イフキの宮、イフキト宮の名が見える。
伊吹山の由来の考察(ホツマより解説)
アマテル神には、約5歳(紀元前325年頃、吉田説)違いの弟がいる。その名は、モチキネ(月読神)である。生まれは、筑紫のオトタチハナのアワキ宮であり、モチキネと名付けられた。そして、アマテル神に次いで、民の政を扶けた。(5ー6、3ー18)
そんな折、「伊予の二名(伊予、阿波)の世が治まらない」との臣らの訴えがあった。そのため、アマテル神の名代として、約7歳~9歳になられた月読を急遽、伊予に派遣されることになった。伊予での政の宮は、天の原の外宮です。そして、月読は息吹きの勢いで活躍をされるや伊予の国を治められた。(6ー11)
天の原の外宮を治めていた頃の月読(モチキネ)の年齢は、約22歳~35歳頃(紀元前302年~紀元前289年頃、吉田説)であっただろうか。伊予の娘の伊予津姫を娶られて、長男のモチタカを儲けられた。そして、子のモチタカは後にイフキヌシの称え名を賜った。(6ー30)
スス暦の最大の汚点であるハタレの乱が、24鈴の末期~25鈴初期(紀元前290年頃、吉田説)にかけて発生していた。だが、イフキトらの活躍の甲斐があって、ハタレは征伐され、その功績によりモチタカは、アマテル神よりイフキヌシの称え名を賜っていた。(8綾)(6-30)
また、ハタレの乱の源になった「ネ」の益人らも討たし、ソサノオの罪が天晴れる頃にはイフキ神と呼ばれ、更に、伊勢の山田県を賜った時には阿波のイフキ神呼ばれていた。(9-20、9-28)また、当時のモチタカは、約13歳以上の働き盛りであったことが推定されるようです。(吉田説)
それにしても、イフキ神と同じ名の滋賀県の伊吹山の地名は、「本当にイフキ神に由来するのか」との疑問が消えない。だが、伊吹山の元になったであろう、モチタカの称え名は、モチタカ→イフキト→イフキトヌシ→イフキカミ→阿波のイフキカミと変遷していた。そして、その間に、ハタレが現れた地名に「イフキ」山が記述されているか否かをホツマツタヱより抜粋し更に調査して見た。
その結果、ハタレが現れた場所の地名には「イフキ」の記述はなかった。
サワヤマ(8-6)、ネの立山(8-22)、伊予の山より紀志井国(8-32)、高野(8-34)、
ササ山(8-40)、筑紫(8-44)、中国の花山の野(8-45)、
日隅 日高見 香久山本 二岩浦(8-55)、高野(8-90)、高天(9-14)
時が過ぎて、モチタカが約53~58歳頃(紀元前249年~紀元前244年、吉田説)になった頃か、或いは、モチタカも隠居する頃であろうか。天の原(伊予)の外宮で、政をしていたモチタカは、外宮より天山に住居を移し、田んぼを耕して余生を送られていた。(24ー107~108)
それにしても、ここまで、イフキ神と伊吹山との関連が掴めない。そのため、ホツマツタヱを詳細に吟味した。すると、以外に、ハタレ征伐の後の天の原の政は、モチタカ(イブキ神)を中心に回っていた記述が27アヤ(綾)、31アヤ(綾)に記述されていたことに気付いていた。
その27アヤ(綾)は、モチタカが神上がりされた後で、モチタカの生誕97~114年(紀元前205年~紀元前188年頃、吉田説)の記述になるが、「ウツキネ(ヒコホホデミ)の御世の瑞穂の宮に、妃の豊玉姫が再び上がりお祝いされていた。その瑞穂の宮では、天児屋根と子守神の物主が左右の臣として使え、三千の物部が八百万の草(人草)を治めていた。」その頃の昔話に、そう云えば、「先、(紀元前260年~紀元前250年頃、吉田説)に、子守神の次男のツミハ(後に事代主を賜る)と九男のタケフツの臣は、ニニキネのアマキミ(天君)に仕えられていた。そして、その当時の伊予の伊吹の宮は、二十四県をして治めていた。」(27-2、3)と記述しており、政の中心が伊吹の宮であったことを記述していた。
また、31アヤ(綾)の橿原宮の8年(モチタカの生誕177年、アスス65年、紀元前128年)の秋に、高倉下の総勅使が地方より帰って申す記述にも、「臣、昔、勅命を受けて、(天の原の)ト(外)国より 筑紫三十ニ(県)も山陰も 巡り治めて 越後 弥彦山辺に 土蜘蛛が ふだわる故に 矛持ちい 五度戦いひ 皆殺し 二十四(縣)治むと」(31ー2~3)と記述しており、やはり、昔は、政の中心が(天の原の)ト(外)国の伊吹の宮であったことを記述していた。 "
まとめ
筆者はこれまで、アマテル神の御世のハタレの乱の頃は、「モチキネ(月読)、モチタカ(イフキト)が、イフキの宮より、ナカクニ(中国)~コヱ国、ネの国、越を治めていた」ことは想像してなかった。だが、先のハタレが出没した各地名を各々に結んだ範囲を見ると、二十四県内の滋賀県、岐阜県にもまたがる伊吹山もこの範疇の地に入っていた。このことから、現在の伊吹山もモチキネのイフキ神より命名されたと思え、その由来が明々白々になって来たようである。
余談になるが、
イフキ神が活躍されれば、されたで、心配ごとが発生する。28アヤ(綾)のツミハと春日神の問答の記述を見ると、スス暦の元になるマサカキの枝が伸びなくなったことを心配していた。そのため、ツミハの事代主はマサカキの苗を捜しに伊予に行き、マサカキの苗の「鈴苗ありや」と問ふ記述である。その問に対し春日神は「われは臣であり、君が植える」と述べていた。それに対しツミハは、それでは「伊吹神かや」と問いかけていた。(28ー60)
このことは、「伊吹神かや」と述べたツミハは、本来の「君」の名を知らなかったことになる。況して、この年代のアマキミ(天君)は、二朝時代であり、一つ目はキヨヒト(瓊々杵尊)→ウツキネ(彦火々見尊)→カモヒト(渚武鵜葺草葺不合尊)→タケヒト(神武天皇)系統。二つ目はテルヒコ(奇玉火明尊)→クニテル(ニギハヤヒ)系統の時代であった。ことから、暦を担当する君が不明瞭であった可能性があった。このため、ツミハが訪れた伊予の宮は、当時の政の中心でもあり、一瞬の問答で、ツミハはハタレの乱で活躍した「モチタカ(伊吹神)かや」と述べたことが推測される。
また、モチタカ(イフキ神)が高い位の臣であったことを示す記述に、昔(年代不明)の話ではあるが、「(妃の)タナゴ姫 イフキト宮に 産む御子の 兄は伊予津彦 土佐津彦 宇佐津彦これ」と記述されていた。(28ー67)
このようにイフキ神について調査して来ると、40アヤ(綾)において、「ヤマトタケが、荒ぶる神のあるを聞き」伊吹山での経緯が、次の40ー6~8に記述されていた。
イフキ神とヤマトタケとの関係
40ー6~8
ユキスグミチニ 行き直ぐ道に
イフキカミ オオロチナシテ イフキ神 大大蛇なして
ヨコタワル カミトハシラス 横たわる 神とは知らす
ヤマトタケ オロチニイワク ヤマトタケ 大蛇に曰く
コレナンヂ アレカタカミノ これ汝 あれかた神の
ツカヒナリ アニモトムルニ 使いなり あに求むに
タランヤト フミコエユケバ 足らんやと 踏み越え行けば
イフキカミ ツララフラシテ イフキ神 氷柱降らして
カオウハフ 日お奪ふ
この40アヤ(綾)の記述は、紀元258年、モチタカの生誕560年頃のことになるが、伊吹山への「行き直ぐ道にイフキ神(が)大大蛇なして横たわるイブキ神」と記述され、このことは、ハタレを征伐したイフキ神がヤマトタケに対する忠告だったのか。それにしても、無視したヤマトタケの悲劇が伊吹山より始まった。
このことは、ヤマトタケの悲劇がクローズアップされるが、筆者は、アマテル神の御世(32鈴以前、25アヤ(綾)以前、紀元前245年~紀元前242年頃)ではあるが、実質の政は、伊予のイブキ宮での月読の神、イブキ神を中心に行っていたことが目に浮かぶ。だが、ヤマトタケの悲劇が隠してしまったようである。
(ご参考)
ハナキネ(ソサノオ)の生まれは、紀元前321年3月21日の日蝕日であったと推定。
(おわり)
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