学問ホツマツタヱ辞典「月刊ほつま・普及PR版

学問ホツマツタヱ辞典「月刊ほつま・普及PR版

   2017年8月20日付

 学問 

  ホツマツタヱ辞典  由緒書 


 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄


辞書の出典


 昭和の時代にホツマツタヱを再び見出し、ホツマツタヱ研究の先駆者として精力的に研究された松本翁を偲び、氏が生前「月刊ほつま」として昭和49年~平成6年までに定期発行された「月刊ほつま」の文中より、「辞典」に見合った言葉を選び、辞書の言葉にしました。また掲載にあたっては、全面的に「月刊ほつま」の文章を引用し、叉、書名も「ホツマツタヱ辞典」として、氏の「高潔なホツマツタヱへの志」を受け継いで、ホツマツタヱ普及のため 無料公開をはじめました。

       松本翁、最後の弟子・吉田六雄(ホツマツタヱ研究歴23年)より

氏より戴いた言葉



「吾と同じ年より ホツマ志す 

 君のゆくえに  実り満つらん」
 

        平成六年三月十九日

                      松本善之助             

在りし日の松本先生の勉強方法

 こう述べると、先生のお宅で、先生がホツマツタヱを勉強するお姿ですが、先生は、平たい机で、男坐りの胡坐をかいて、勉強されております。机の上の左に、ホツマツタヱ(長弘本)、右側に、日本書紀を広げられて、両方を比べられて、勉強されておりました。その中から、辞書にない「ホツマツタヱ」の「言の葉」を、先生が作られていた辞書と同じ思考で、「ヲシテ」を「新しい訳」にされておりました。また「ヲシテ」文字以外の文字にも肯定的であった。

先生のお言葉

 先生宅でお聞きした言葉に、『ホツマツタヱを完全に解読できた者のみが「ホツマの道」を歩く』であろうと述べられていた。そして、難題はホツマの暦である「アマテルの暦」と「神武天皇の暦」であると。「アマテルの暦」は「スス暦」であり、「神武天皇の暦」は「アスス暦」のことである。これからは、ホツマ暦を解読した者を捜すことになる。


☆コトの音 清く  新発見の六弦

 ホツマには、日本古来の三弦、五弦、六弦のコト(琴)が、記載されていた。

 新春はコト(琴)の音で明ける。うべなる哉、コトは日本最古にして至上の楽器なのである。

昭和49年11月、津市納所町納所遺跡から出てきた、表面に芸術的文様のあるコトは、弥生時代前期の地層から発見され、然も、弦が六筋だったというニュースは関係者に衝撃を与えた。というのは、このコトが本当に六弦ならば、嘗て静岡県登呂遺跡、千葉県菅生遺跡、福岡県宗像神社沖津宮などで発見されたのより、更に古いという事になるからであり、又、これ迄発掘された殆どが五弦だったし、その上、六弦は正倉院にもある処から、渡来楽器であって日本固有のもでないとされてきた定説が、一挙に覆されてしまうからである。・・(中略)・・宗像神社沖津宮で出土したのを折りに、NHKテレビの一時間番組が行われたが、そこでの専門家たちの発言は勿論、五弦最古という線を前提にしたものであった。 これを聞いた私は、ホツマにはこれまで出土した五弦はもとより、新発見の六弦も、更には、まだ全然出てこない三弦のコトのことも記載されている・・(後略)・・。

 出展・・松本善之助・月刊ほつま・正月号(12号)(昭和50年1月1日)より。

コメント

 中国よりすべてが渡来してきたと思っている人たちは、この日本の国が、最低でも、2回は他国に占領されたという事実さえも知らない「ノー天気」な人たちでしょうか。せめて「古代日本に高い文化があった」ことくらい、知っておきたいですね。  


☆あの漢学者の「安岡正篤」先生が、ホツマツタヱを習っていた



 その記録は、「・・それから同家で、既に安岡正篤先生らのために開いていた例会にならい、「ホツマ」を勉強しはじめる。・・・」 

  出展・・・松本善之助・月刊ほつま・193、194号(平成2年2月、3月)より。

コメント

 このことを裏付けるように、平成20年9月20日赤坂例会の勉強の場で、故・松本喜之助先生と故・安岡正篤先生の関係が話題になった。松本先生は、「ホツマツタヱに出会ってから3年間は、安岡先生から物心両面の激励を受けいた。このことでホツマツタヱ研究の基礎が築けたと先生より聞いた」とのことであった。

このページの一番上に戻る


☆イフキ神顕彰その後

 記紀の伝承は、文字の上だけのことで、イフキドヌシを祭る伊吹山に対する村民の信仰は、古来忘れていなかったのである。

 (故松本善之助)

胸中の疑い

 岐阜県揖斐郡春日村は伊吹山を領有する。その伊吹山には荒ぶる神がいて、その悪神が大蛇(白猪)に化けて大和武尊を苦しめ、遂に同尊を死に至らしめたと古事記・日本書紀に書かれている。私は春日村についてすぐ樋口村長にきいてみた。

Q :「伊吹山を、村民の方々はどう思っているでしょうか。古事記や日本

  書紀に書かれているように、悪い神が住んでいると思っているので

  しょうか」

A :「いや、そんなことはありませんよ」

Q :「じゃあ、お山に向かって朝夕手を合わせて拝むというような風習

  はあるのでしょうか」

A :「ええ、老人たちは朝夕拝んでおりますよ」

 私はこの言葉をきいてホッとした。村長はなおも詳しく老人たちの山への崇敬について語ってくれた。”さもありなん”私のくすぶりつづけた胸の疑いは吹っとんだ・記紀の伝承は、文字の上だけのことで、イフキドヌシを祭る 伊吹山に対する村民の信仰は、古来忘れていなかったのである。

 出展・・松本善之助・月刊ほつま・193、194号(平成2年2月3月)より。


☆イフキド神

 イフキド神が教えてくれる、ホツマツタヱ~記紀までの間に、

漢字で書かれた(原)前資料が存在した。・・・その根拠の証明

 (故松本善之助)

 岐阜県揖斐郡春日村。この村は伊吹山を有する。この山は、実はイフキドヌシというど偉い神の名をとったものなのだ。式内社として伊富岐(美濃)、伊夫岐(近江)、意布伎(出雲)、意布伎(丹後)の各神社がある。だがこのイフキド神は、どうしたわけか記紀にのらない神である。その理由があるようだ。

その第一は、この神がツキヨミの神の御子だったことだろう。ツキヨミはアマテル神の弟君であったが、ある大事な交渉に失敗、大神の怒りを買ったりした。こんなことが御子神イフキドにも影を落としたといえないこともない。

第二には、イフキドの功績として、はびこったハタレ征伐が著しい。だが不幸にしてこの神代の大事件は、なぜか記紀にど漢字で書かれるようになった文献には一切うけ継がれてない。

第三に、大神の弟神ソサノオをホツマでは「罪におちるおイフキ神ひきて神とす」(40-40)とまで絶賛しているがのに、この落としてはならない記事も、後代文献に一切伝わっていない。

第四に、この神の子孫が繁栄せず、姓氏録ほか、どんな古典にも影も形もないのも関係あろう。

 だか、このイフキド神がどういう神かわからなくなっているのは、すでに古く十世紀の大祓の祝詞中に見える。 「かくかか呑みては、伊吹戸に坐す気吹戸主という神、根の国・底の国に気吹き放ちてむ」とあって、故武田祐吉といあ権威ある学者でさえ、その註に「息を吹く神」としいてる。・・・中略・・・・最後に、イフキドヌシが消されてしまった根本原因をはっきりさせておこう。ホツマ40-3文~イフキ神とあるのに注目しよう。ここで大事なのは、ヤマトタケが「荒ぶる神」がいるという話をきき、山にゆくと、イフキ神が雄大蛇(オヲロチ)に化けて路に横たわっていたというのである。ここを古事記では、「山の神」・・・「この白猪に化けれるは、其の神の使者ぞ。」と、「イフキ神」が「山の神」に代えられ、また「雄大蛇」も「白猪」に変わっているのに気づく。・・・(中略)・・・・この書紀でも、・・(中略)・・「イフキ神」は単に「山の神」に変えられ、・・・(中略)・・・「雄大蛇」の方は、ここは「蛇」とだけあり、「雄」を落としただけだった。

 ところで、ホツマ、記紀の三書比較の結果、ホツマに「イフキ神」とあったのに対し、記紀両書ともに「山の神」とある点に、私は特に注意せざるを得ない。というのは、この過ちは記紀それぞれの編者が犯したものではなく、両書の仰いだ原資料そのものに、「山の神」と書かれていたのではないかと、思わせるからである。・・・中略・・・すると記紀の前資料にもこの「イフキ神」の記事はなかつたのかもしれない。そうなら・・・中略・・・記紀はどう頑張っても真の「イフキ神」を・・・中略・・・載せられず「山の神」と書くのが精一杯だったかもしれない。

 出展・・・松本善之助・月刊ほつま・192号(平成2年1月1日)より。

 参考論文 モチタカ(イフキ神)と伊吹山の由来の考察


☆天君、即ち天皇のはじめ



①天君の    もとはミマゴの  

②イカヅチを  分けて治むる

 大御神    ほめてミマゴは 

 アマ神の   現はる稜威と

 賜ふ名は   ワケイカツチの

 天君と

①天君即ち天皇のはじめは、神武天皇からでなく、皇孫ニニキネから始まるといふのが、ホツマツタヱの一貫した叙述である。

②ニニキネが雷の鳴神の猛威を、火のカグツチの神と水のミヅハメの神と分けることに成功し、アフヒバ(陽)とカツラ(陰)のほどよき扱いに抜群の働きを示されたことに対して、アマテル神がこれを褒め、以下のやうにミコトノリされた。

 「これまでの京都地方は、雷雨ばかりで激しくて天候が安定しなかった。その雷雨を皇孫ニニキネが、火と水との二つに分けるのに成功したので、日照りと降雨とがほどよくなり、稲作も上々である。この活躍は、トコタチの神が新たに出現したほどのすばらしさである。だから、これに対し"イカヅチを分けた天君"といふ呼び名を贈りたい」といふのである。


☆三種神宝(ミグサノカンタカラ)が次々に伝えられた



ホツマ創世記、アマテルカミ、オシホミミ

 ①(ヲシデ)アマテル ②(カガミ臣)オモヒカネ ③(ツルギ臣)サクラウチ

 ①(ヲシデ)オシホミミ ②(カガミ臣)ココトムスビ③(ツルギ臣)タカキネ

2朝時代、ホノアカリとニニキネ

 ①(ヲシデ)ホノアカリ ②(カガミ臣)フトタマ ③(ツルギ臣)カクヤマ

 ①(ヲシデ)ニニキネ ②(カガミ臣)コヤネ ③(ツルギ臣)コモリ

 ①(ヲシデ)ホホデミ ②(カガミ臣)コヤネ ③(ツルギ臣)コモリ

 ①(ヲシデ)ウガヤ ②(カガミ臣)オシクモ ③(ツルギ臣)クシミカタマ     

ここで重要なのは、世々の天君がヲシデを拝持し、カガミとツルギを左右の臣に分ち預けたということである。このことは記紀に全く載らないだけに一層注目すべきと思ふ。

 出展・・松本善之助・月刊ほつま114号(昭和58年7月1日)より。

「コメント」 

 松本先生の「イカヅチを分けた天君」の訳文は、師事された生徒としても感心する訳文である。この訳の仕方で、先生の域を超えれることが「ホツマ研究」の醍醐味と思える。そしてその魅力が、ホツマを勉強する意味と思える。話は変わるが、神奈川県の大山も雨が多い。その「阿夫利神社」の祭神も「雷神」の「ニニキネ」である。

このページの一番上に戻る


☆26年前 ホツマツタヱ、拓殖大学で公開講義される



拓殖大学の客員教授に(故)松本喜之助先生が招かれ、公開講座(90分)が無事終了した。学生350人、一般人250人の大聴衆は、予想外の入りだった。(26年前)

  公開講座の開講・日時

     昭和56年7月1日 午後2時40分~

  場所

     八王子市、拓殖大学八王子校舎 (中央線高尾駅下車)

  出展・・・松本善之助・月刊ほつま・88月号、91号(昭和56年5月、8月1日)より。

コメント 

 私は平成6年3月にホツマツタヱ文献と出会って、いつも「隠れた文献」と教えられていた。また大半の研究者は今でもそう思っていることだろう。だが、現実には26年前に、拓殖大学で公開講座が行われ、白日の下で勉強されていたのであった。自分自身でも驚いている。


☆オシデ(古代文字の一つ)の神札 素盞鳴神社の神札

 

 奈良県桜井市の大神神社の神札を・・・読者から送って下さったもので、とても珍しい。といふのは、今ではもうこの種のものは当神社からだされていなゐないからである。その読者のお手紙には次のやうにある。「・・・私の父は大和三輪の住人で五十年前に他界致しましたが、父の残しております三輪御符の中にホツマ文字で記されたものがあります。この文字を先生の今度の新刊本と照合しました処、明瞭に読むことができたことを喜んでおります。・・・・」

  神札の文面    

    アメガシタ ユクベキミチモ ナカレケリ

    ウチハラウゾヤ  ムシノモグラオ

 この手紙を書かれたのは、兵庫県西宮市甲子園町二ノ四 素盞鳴神社宮司畑中秀雄氏である。

  出展・・・松本善之助・月刊ほつま・85月号(昭和56年2月1日)より。

「コメント」 

 現在は経済性を重んじる世になっていることを否定しないが、「神社の神札」までが日本古来の文化を放棄し、ホツマ文字の神札までも、表にでないことを畑中さんは、時代の証人として「提議」してくれた様に思う。反面、日本文化の根底には、ホツマ文字があることを思い出させてくれる手紙である。

このページの一番上に戻る


☆スズカ姫の静まります聖地を求めて



 今もなほ鈴明の神と箱根神 向ふイモヲセ(妹背)大いなるか 

スズカとは、スズアカの略である。

そのスズアカの意味とは、神代にススキといふ六万年の寿命をもつ樹木に喩えて、スズは真に栄える木(マサカキ)であって、六万年もの長い間栄える。それと同じように、人間が私欲を去ればスズキの様に栄える。反対の言葉は、スズクラといふ。では、スズカ姫とは、いかなる神なのだろうか。ところが、このスズカ姫こそアマテル神の御子オシホミミの后のタクハタチチ姫のことだった。

ホツマツタヱ文献の13文には、

 この道を  学ぶ処は

 神風の   伊勢の国なり

 チチ姫も  後にはイセの

 道を得て  伊勢と淡路の

 中の洞   鈴明の神と

 箱根神   向ふ妹背

 欲しを去る スズカの教え

 大いなるかな

 この道即ちイモヲセ(男女又は陰陽)の道を学ぶ処は、神風のイセ(イモヲセの略・イセ→伊勢)の国である。タクハタチチ姫も晩年は、このイセの道の悟り道に達せられたのだった。そして神去りました聖所は、伊勢とイサナギの神の崩じた淡路島との中間の洞であった。チチ姫には、「スズカの神」と御名を奉つた。そしてその場所は、夫君オシホミミの神の鎮まります箱根神と丁度向ひ合ってゐる。このアヤで説いてきた「私欲」を去るスズカの教へは、実に感銘深いものであることよ。

 私の次の調査(仕事)は、それなら鈴鹿山脈の山麓付近の古い神社に、スズカ姫を祭る神社があるかどうかを捜すことだった。すると吉田東五「大日本地名辞典」の鈴鹿峠に「鈴鹿御前社」があった。この神社は延喜式神名貼の伊勢国鈴鹿郡片山神社であることもわかった。また片山神社の片山といふのが、夫君オシホミミの鎮まります箱根山に対する片方の山といふ意味であるらしいことも初めて了解した。 このスズカ姫は、ニニキネの母君であってニニキネを祭るカモ(賀茂)神社に縁があるのもわかった。

 出展・・松本善之助・月刊ほつま・4月号(昭和54年4月1日)より。


☆八朔の起源



その八朔の日についてのホツマツタヱの記述は、

15ー22 ~26

ウケモチが    ハヅキ(葉月・八月)初日に

なる初穂     トヨクンヌシに

奉る       君はカシキの

ユフニキて    ミナカヌシ(天中主)の

神祭る      ゾロの穂積の

ミケ(御食)もまた ウス(臼を)揚き白げ

初日には     粥と汁とぞ

ウビチニは    月毎祭る

オモタルの    末にほぼぞと

なる故に     月読やりて

ウルゾ種     得んと至れは

マルやにて    クニに向かえは

継ぎ桶の     口よりヨネ(米)の

イイ(飯)炊ぐ   園に迎えは

こゑ(肥)かくる  テコに入れ来て

ススナ(清菜)汁  モモ蓄えて

ミアエ(御饗)なす 

   出展・・松本善之助・月刊ほつま十二月号(昭和51年12月1日)より。

このページの一番上に戻る


☆コモリ神



史上から消されたコモリ神 

 コモリ神といっても古事記、日本書紀にはまるで出てこないから記紀中心でしかモノを考えられないこれ迄の学者は、この神に関心をもつ筈もないから、学術雑誌に論文一つ載せられない。だがコモリ神はホツマツタヱでは「ど偉い存在」なのである。イミナの「ミホヒコ」や称え名の「オホモノヌシ」という呼び名で書かれている同神の記載を含めると40数カ所にも上がっていて、行数では750行ほどにはなるであろう。同神は系図から見るとオコヌシ(大国主)や事代主命の系譜に連がる。

①ソサノオ(ハナキネ)→②オホナムチ(クシキネ)→③コトシロヌシ(クシヒコ)→④コモリ(ミホヒコ)→⑤ツミハヤヘコトシロヌシ→⑥クシミカタマ(ワニヒコ)→⑦アタツクシネ(タタヒコ)→⑧オホミケヌシ→⑨オオタタネコ(スエトシ)

( )カッコ内の四字は、神代や上代で生まれた時に必ずつけられるイミナといふもので記紀に逸しているのに、ホツマに見られるのは、正に貴重といはねばならない。

この系譜で見る様にコモリ神とは、①ソサノオを大祖父とし、→②オホナムチを祖父に、③コトシロヌシを父としているのである。この系譜の子孫の⑥クシミカタマ(ワニヒコ)が「ホツマツタヱ」の前半部を書き、後半部を⑨オオタタネコ(スエトシ)が書き12代景行天皇にを捧げた。この二人もコモリ神の名誉ある子孫であった。

   出展・・・松本善之助・月刊ほつま二月号(昭和51年2月1日)より。

「コメント」 

 記紀に記述されてないことに驚くことはないが、あの「富士山」もまるで出ていないのである。現在人は富士山の歴史を誰よりも知っており、古代に富士山が無かったと云っても誰も信じないことでしょう。それに対しホツマツタヱ文献では「ハラミヤマ」と云う名で、明確に記載されていることをお伝えします。このようなものがホツマツタヱには沢山ありますが、「日本人が認めない」うちに、世界の人々が「認める」ことになり、ひいてはこのことが日本人の「恥」として指摘される時代が到来する日が近いように思えます。


☆タカミムスビの神



 タカミムスビの神といふ名称は、ヒタカミの国を産み出した神といふ意味であり、タカミとは「ヒタカミ」のヒを略したものだったのである。ホツマツタヱの記述によれば、当タカミムスビの神は5代目にあたり、現在の東北六県から関東の茨城・千葉両県に及ぶ広大な版図をもつヒタカミの国の最高の存在だったのだ。同神の諱は「タマキネ」といひ、イザナミ女神の御父に当たり、同神が「八千座契りミソギ」までされ祈念をこめた甲斐あってお生まれになったのが、御孫アマテル神であった。タカミムスビノ神とアマテル神が神上がりされた「聖地」、「朝日宮」の場所が判明したことであり、(中略)マナヰノ原と朝日宮の場所について、結論から先にいふと、今次探訪において、我々は各所を廻った末、京都府中郡峰山町九次の式内「比沼摩奈為神社」付近と「九次岳」に比定したがこれに不安は残らない。

  出展・・松本善之助・月間ほつま十二月号(昭和50年12月1日)より。

「コメント」

 また宮津市の籠神社の右山麓に「真名井神社」がある。その真名井神社にある「真名井原神体山」と刻まれたの石碑の↑印の方向は、西日差しに対し「直角」方向(北)を示していた。後日籠神社に電話でお問い合わせしたところ、真名井神社周辺を真名井原と云うとお聞きしました。


☆古代の数字の数え方



 「ミソムスス・ミソヨヱ・ミソヤ・ヤヨヒモチ」いきなりこんな風に云われても、古代語専門かでさえ何のことかよく解らないだろうが、古事記以前の書「ホツマツタヱ」には、度々出てくる暦日の呼び方である。即ち、当時の一から十までの数字の数え方はヒフミヨヰムナヤコソ、この場合、五は「イ」ではなく「ヰ」、十は単数の場合は「ト」、複合数では「ソ」といふ。また百、千、万はモモ、チ、ヨロで、数が重なると、モモはモ、ヨロはヨとだけ略される。単数の場合は今日でも、ヒ、フ、ミと数えるが、数が多くなった時の呼び方は、古事記や日本書紀など八世紀以降の文献では既に呼称は失われてしまひ、例えば、書記神武天皇即位前期にでてくる「一百七十九万二千四百七十余歳」のことを「ももよろづとせあまり・ななそよろづとせあまり・ここのよろづとせあまり・ふたとせあまり・よほとせあまり・ななそとせあまり」のやうに、長たらしく読むことになつてしまった。

  出展・・松本善之助・月刊ほつま五月号(昭和50年5月1日)より。

「コメント」

 それに対しホツマツタヱでの「一百七十九万二千四百七十余歳」の読み方は、ヒモモナソ コヨロフチヨモ ナソヨトシ」となる。


☆トホカミヱヒタメの意味

 記紀に載らないこの称言が実は神代ながらの最古最重のものだった

 天御祖神と四十八神(これが四十八音のアワのウタと深く関わる意味は重大)があり、この四十八神の内トホカミヱヒタメ八神をアモト(天元)神、アイフヘモオスシ八神をアナミ(天並)神といひ、右四十八神から天元、天並の十六神を除いた残りの三十二神をミソフ(三十二)神といふ。そしてトホカミヱヒタメ天元神は、モトモトアケ(元元明け)の御祖神(国常立大神)の添え神とされる。叉、天皇の最重儀たる大嘗祭の時に民の平安を念じて天元八神の印として八幡籏が飾られる(八幡神社の八幡の原意はここに発すると思われる。)が、一方、日本武尊のご葬儀の時にも八色籏が行列に加えられたし、叉、新築の棟あげの時にもこの八神き祭られる。

他方、クニトコタチ大神の八柱の御子神クニサツチに対してトホカミヱヒタメの名を各々に冠し、例えばトノクニサッチ、ホノクニサッチと呼ばれねこの八柱神が全地球上の各地に配された。そして最後に、天照大神の勅として、同神のご加護を得たいならトホカミヱヒタメの称言を唱えよ、即ち「招かば上に現れてハタレ破れば障りなし」とされる。

 出展・・松本善之助・月刊ほつま六月号(昭和49年6月1日)より。

このページの一番上に戻る


☆ホツマツタヱ以前にも、多くの書物(フミ)があった

 それは正に驚くべき事だ

○フミの言葉(ホツマツタヱ文中のフミの個数)

  84ヶ所

○フダ

  2ヶ所

○ウタミ

  7ヶ所

  計93ヶ所

1.ミハタノフミ・・・・・・・・・・・・27-20(未発見)

2.ミソキノフミ・・・・・・・・・・・・5 - 2(未発見)

3.タマガヘシノフミ・・・・・・・・8 -96(未発見)

4.ススカノフミ・・・・・・・・・・・13-31(未発見)

5.ノリノフミ・・・・・・・・・・・・・・19-b1(未発見)

6.ケタツホノフミ・・・・・・・・・・24-89(未発見)

7.タマガハノカンタカラフミ・・32-26(未発見)

8.タケウチノフミ・・・・・・・・・・38-84(未発見)

9.ナナヤノシルシフミ・・・・・・序 -10(未発見)

10.ヨツギフミ・・・・・・・・・・・・・28-51 (未発見)

11.ミカサフミ・・・・・・・・・・・・序 -21(保有)

12.ホツマフミ・・・・・・・・・・・・序 -23(保有)

13.アメナルフミ・・・・・・・・・・23-15(未発見)

14.カグノフミ・・・・・・・・・・・・27-33(未発見)

15.ヨツキフミ・・・・・・・・・・・・27-44(未発見)

16.カンタカラフミ・・・・・・・・・32-26(未発見)

17.フトマニ・・・・・・・・・・・・・・3 - 9 (保有)

 出展・・松本善之助・月刊ほつま六月号(昭和49年6月1日)より。


☆アユキ・ワスキについて



 このアユキ・ワスキの語の漢字文献での初見は、「日本書紀」天武五年九月条で、天(ア)と地(ワ)の語を失ってただ「斉忌(ユキ)」、「次(スキ)」とだけの表現となる。月間ほつま70月号(昭和54年11月1日)

この様に日本書紀では、天武五年の紀元676年に初見する言葉が、ホツマツタヱ文献では既に記載され、解説されいている。このことは「大化改新」をされた大海人皇子と中大兄皇子の時代に、古代日本の行事に戻されたことを意味するのだろうか。それ以前の古代日本は、近隣諸国の知識に蝕まれていたのだろうか。

 アユキ・ワスキについて

  天皇一世一代の最高儀式・大嘗祭とは何か

ユキ

 「ユ」は斎で、「キ」はキ(木)、ネキ(葱)、ウナキ(鰻)、サナキ(蛹)の 「キ」で、生気横溢のエネルギーや生気横溢の精気ということになる。

スキ

 「ス」はスナホ(素直)、スガシ(清し)の「ス」と見たい。するとスキとは、清浄なるエネルギーや清らなる元気ということにになる。

アユキ・ワスキ

「ア」は天であり、「ワ」は地を意味することから、要するにアユキ・ワスキとは「天地一杯に漲(みなぎ)る清浄の霊気」という意味になる。

 このアユキ・ワスキとは、何といふすばらしい古語であることか。もっとも有難いのは、天皇の行事の「オホナメヱ」の内容であるが、天皇自身が、このアユキ・ワスキを一身に受けるために厳修される儀式だったいうことである。さればこそ、天皇一世一代の最高の儀礼たるばかりか、同時に日本国の最大の礼節たりうるのであった。それを記紀以下の文献の記す如く、「大嘗祭」とは、新穀を天皇が神々と共に食す「新嘗祭」と同質のものと見、その差は規模が大なるのみとし、この様に施行されてきたのであったが、これでは肝腎の「アユキ・ワスキ」受容の精神を没却するものと云わねばならない。元来「オホナメヱ」の語は、オホ(大)、ナ(助詞の音韻変形)、メ(見るの名詞形ミの音韻変形)、ヱ(会)で、大集会とか大儀式とか云う意味(私見)であったが、これに中国での秋の収穫祭の「大嘗祭」のプレ記紀資料の段階で当てはめられたのが、そもそも初めてのボタンの掛け違いだったのだ。その後、段々と本来の意味と違がってきて変質していったと云う。

 出展・・・松本善之助・月刊ほつま三月号(昭和49年4月1日)・ 月間ほつま70月号(昭和54年11月1日)より。

このページの一番上に戻る


 (続く)

ご質問、ご意見などを受け付けております。ご気軽にどうそ゛!!

  woshite@b09.itscom.net

メールアドレスをクリックしますと、メール画面が現れますので、そちらより「発信」をお願いします。 


 最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。

   (以上)