スス暦、一百七十九萬二千四百七十餘歳の解読

本 文

 令和 2年1月22日 誤植訂正

 平成29年9月 5日 デートアップ

 平成23年3月16日作成



 スス暦 一百七十九萬二千四百七十餘歳の解読



     

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄



あらすじ

ホツマの記述にしかない事跡が現存していた

 神武天皇が奈良の橿原に、都を開かれる七年前のことである。神武天皇は、兄たちや皇子たちに「天神」や「天祖」の歴史を語られていた。その中の一節に「自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」があった。だが、この「大きい数字」は、記紀、倭姫命世記、そして先代旧事本紀にも記述されているが、現在では、意味不明となっていた。

 平成六年三月に、「ホツマツタヱ」に接した研究者は、ホツマツタヱに古代の旧暦の「スス暦」と新暦「アスス暦」に魅せられて研究して来た。その甲斐があって、「ホツマの記述にしかない事跡が現存している」ことがわかって来た。

明らかになった事項

(一)「一百七十九萬二千四百七十餘歳」は、ホツマ・ヱトで記録されていた。

                                ⇒裏ネタはパートⅠ参照

(二)自天祖降跡以逮の本来の意味は、ワカヒトの誕生からを指す「自天祖誕

   生以逮」であった。(日本書紀編纂時の翻訳ミスの可能性あり)⇒裏ネタはパートⅠ参照

(三)古代の一日は、「十六穂(ホツマ・ヱト期間)」であった。  ⇒裏ネタはパートⅡ参照

(三`)約二十七鈴以降、一日が「八穂(ホツマ・ヱト期間)」に改暦の記録があった。

    だが、人物の年齢、在位期間は、逆に、長大化していた。  ⇒裏ネタはパートⅡ参照

(四)スス暦の暦形態は、太陽暦にて計算した時の精度が最も高かった。

(五)スス暦時代の期間は、神武天皇以前に約390.153年間、五十鈴千枝

   二十年も存在していた。

(六)アスス暦や日本書紀暦は、スス暦(大きい暦数字)からの改暦時に誤変

  換された可能性が高いようだ。例として、天皇の高年齢化など。

この度、古代日本の歴史(年代)研究を正しく理解してもらうため、広く資料を公開し、読者の評価をお願いしたいと思う。





Ⅰ部 瓊瓊杵尊 天孫降臨



天つ祖の始まり

 日本書紀(注一)巻の第三は、「神日本磐余彦の天皇、諱は彦火々出見、彦波瀲武??草葺不合の尊の第四の子にまします。」より始まる長文である。

そして私が今回論文のテーマとして取り上げる内容は、巻の第三の八頁に記述された「天つ祖の降りまししより以遠、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳なり。」の文章になる。次の行に漢字文を併記する。



漢字文

  自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳

(注一)

日本古典全書 日本書紀二(武田祐吉校注)の神武天皇紀を引用・抜粋した。



では、なぜこの「大きい数字」を取り上げたのかと云えば、私の「歴史への想いは、古代日本を遡ることで、この国の起源が、紀元前の何年前になるのだろうか」との自問である。この自問に対し、この「大きい数字」が、古代日本の歴史を紐解くヒントになるのでは?と直感した。



 そして次に、「天つ祖の降りましし」の「天つ祖」は、年代を解く「キーポイント」になると推定した。だが、「大きい数字」の年代が判明したとしても、この「大きい数字」を採用した時の「天君」が不明のままであるならば、この大きい数字は歴史として扱えない。このように考えると「大きい数字」と「天つ祖」は一体であり、詳しく調べて見る必要があった。

 わが国には記紀があり、また多くの古史古伝の資料がある。その中で、日本書紀の「天つ祖」は、先ず、どの神のことを指しているのだろうかと、検証することにした。そこで神武天皇記・巻第三(七~九頁)について、読んで見た。



(漢文)日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇

 及年四十五歳、謂諸兄及子等曰、昔我天神高皇産霊尊、大日霊尊、挙此豊葦原瑞穂国、而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。於是火瓊瓊杵尊、闢天関、披雲路、駆仙蹕以戻止。是時運属鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歴年所、自天祖降跡以逮、于今一百七十九万二千四百七十余歳。



(訳文)日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇

 【年四十五歳に及(いた)りて、諸兄(いろせたち)と子等(みこたち)とに謂(の)りたまひしく、「昔我が天つ神、高皇産霊の尊、大日霊の尊、この豊葦原の瑞穂の国を挙げて、我が天つ祖、彦火の瓊々杵の尊に授けたまひき。ここに火の瓊々杵の尊、天の闢(と)を開き、雲路を披(おしはら)き、仙蹕(さき)を馳せて戻止(いた)りたまひき。この時に、 運(よ)は鴻荒(あらき)にあひ、時は草味(くらき)に鍾(あた)れりき。枯、蒙(くら)くして正しきを養ひ、この西の偏(ほとり)を治(し)らしめしき。皇祖皇考(みおや)、神にしてまた聖にましまし、慶を積み、暉(ひかり)を重ね、多さに年所(とし)を歴(へ)たり。天つ祖の降りまししより以遠、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳なり。」】



 そして天つ祖とは、「我が天つ祖、彦火の瓊々杵の尊に授けたまひき」とあるところから、「瓊々杵の尊」のことを指しているようだ。このことから「天つ祖の降りまししより以遠、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳なり」を翻訳すると、「天照大神の御孫であり、かつ、天つ祖の瓊々杵の尊が、九州筑紫の高千穂の峰に降りられたこの方、今日までに経過した年 数は、一百七十九萬二千四百七十餘歳になる。」



 

一百七十九萬二千四百七十餘歳

 この訳に対し武田祐吉は、日本書紀・巻の第三の八頁において、「一百七十九萬二千四百七十餘歳」をどのように訳しているのかと思い、神武天皇紀の校注(一四)を読んで見た。校注の記述は、「(一四)天孫降臨からこの時まで年数を挙げたのであるが、後人の記述とする説がある。しかしどの本にもあり、非常に年数の多い事を数字に挙げて述べたものと見るべき である。」と記述していた。 



しかしどの本にもあり

 武田祐吉は、「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の大きい数字のことを指して、「どの本にもあり」と記載した。この記載の背景は、何であろうか。私なりに武田先生の気持ちを考えて見た。恐らく「この数字の根拠は自分ではわからない。そのため他の文献を調べて見た。(だがその本の題名までは記載してないが、)その調べた本の多くにも記述していたため、現在の私には意味がわからないまでも、将来の研究者のためにも、無視や抹消できないだろうと思った」と察した。その武田祐吉の没年は昭和三十八年である。今から半世紀も昔になる。当時の武田祐吉が調べた本については、今となっては確かめる術がない。否ないだろうかだろうか。



武田祐吉の調べた本(推測)

 そして、武田祐吉が見たであろう本の内、「一百七十九萬二千四百七十餘歳」が記述されている本について私なりに調査して見た。

 最初に見つかったのは、「倭姫命世記」の「神武天皇記」に「自天祖降跡以逮,于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」の記述があった。また「神代事紀」には、他の数字の三例が、次の通り記述されていた。

 ①紫日向高千穗□觸之峰仁に,天降・・(中略)・・治天下,二十一萬八千五百四十二年

 ②彦火々出見尊・・(中略)・・.治天下,六十三萬七千八百九十二年.

 ③彦波瀲武??草葺不合尊・・(中略)・・治天下,八十三萬六千三十二年

二つ目に、先代旧事本紀・訓注(大野七三編著)も調査して見た。百四十三頁の「皇孫本紀」の項に、日本書紀と同様に「自天祖降跡以逮,于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」と記述されていた。



大きい数字の意味が不明

 この「一百七十九萬二千四百七十餘歳」について、私は、「天照大神の御孫であり、かつ、天つ祖の瓊々杵の尊が、九州筑紫の高千穂の峰に降りられたこの方、今日までに経過した年数は、一百七十九萬二千四百七十餘歳になる」と訳した。だが、現在の社会で考えた限りでは、「一百七十九萬二千四百七十餘歳」を数えた歴史がない。現在のグレゴリー暦でも「二千十一年」程度である。(ただユダヤの歴史では、五千年の歴史を聞くが)

 そして、日本書紀、倭姫命世記および先代旧事本紀を調べた限りでは、「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の意味は、わからないままである。





Ⅱ部 古史古伝



ホツマツタヱ

 世間では、ホツマツタヱのことを「古史古伝」の一種として紹介している。そのため、時に偽書扱いされている。だが私は、平成六年三月六日より「ホツマツタヱ」を研究してきたが、前述した「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の大きい数字も、他文献と少し表現は違うが、次のようにホツマツタヱに記述している。



ホツマツタヱ 御機の二十九 タケヒト大和討ちの文

二十九文の六

【君、歳四十五 物語り 「昔の御祖 高皇産霊 日高見生みて 百億万穂 過ぎて天日の 大御神 天成る道に 民を治す 皇子の忍仁 譲り受く 御孫清仁 また受けて 別雷の 天君と 天の磐座 押し開き イ威の道別に 治まりて 御祖に仕ふ 道開きて 光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで」】



大きい暦数字の解読

 そして記紀や倭姫命世記や先代旧事本紀が解読できないでいる、大きい数字について、ホツマツタヱは解読方法を、「私にだけ」教えてくれていた。だが、解読方法を教えて戴いた日々は、途轍もない日数になっていた。



大きい暦数字と名付ける

 私はこの「大きい数字」を解読できた時点で、「大きい暦数字」と名付けた。それではこれから私が手掛けた、「大きい暦数字」の解読エッセンスを、日本中に公開したいと思う。なお「大きい暦数字」が、ホツマ・ヱトより作成されているため、以後のホツマ・ヱトの説明は、少し詳しく説明する。



ホツマ・ヱトとは

 ホツマツタヱの暦の基本は、ホツマ・ヱト(一穂~六十穂で一周)より組み立てられている。表示の仕方には、累計数を表す「大きい暦数字」と年号に当たる「鈴、枝、穂」の二つの方法で表示されている。



ホツマ・ヱトの表示

 ホツマ・ヱトは、最少単位を「穂」と数える。そして中国渡来の干支と同じように「一~六十」を一周りとするヱトである。だが、中国・干支との違いは、二周目以降に発生する。中国ヱトには、位上りはないが、ホツマ・ヱトの二周目以降は、位上りがわかるように「枝」の単位が採用されている。ヱトの六十一穂は、表示として、「一枝一穂」となる。更に「枝」が「千枝」になると、位上りがわかるように「鈴」の単位が採用されている。ヱトの「千枝一穂」または、「六万一穂」は、表示として、「一鈴一穂」となる。



 

ホツマ・ヱトの作られ方

ホツマ・ヱトは、方角を示す「キツオサネ」と、組み合わせを意味する「アミヤシナウ」、それに兄弟を意味する「ヱト」の言葉を組み合わせて作られている。この「五音」「六音」「二音」の言葉を組み合わせると、全六十通りの「ヱト」ができる。そして、最初のヱトは「キアヱ」次は「キアト」になっている。これを続けて行くと、次のホツマ・ヱト表ができる。

futomani_no_uta

大きい暦数字の解読式

 大きい暦数字を解読するには、「Y=AX+B」の一次方程式の変形を利用すると解読できる。式は、「Y=AX+BY`+C」となる。

式の英字を説明すると、次の通りとなる。

Y:大きい暦数字、A:任意の鈴数、X:鈴の常数(一鈴:千枝、六万穂)、B:任意の枝数、Y`:枝の常数(一枝:六十穂)、C:任意の穂数



大きい暦数字⇒ホツマ・ヱト(鈴枝穂)に変換する

例題①

 ホツマツタヱ文の中から引用すると、「二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に」の文章がある。この意味であるが、「二十一の鈴」は、AXに該当する。そしてこの文には、BY`+Cを表記してない。また「百ニ十万七千 五百二十」は、Yに該当する。



これを先ほど説明した一次方程式のY=AX+BY`+Cに代入すると、等式 百二十万七千五百=二十一×X+BY`+Cになる。

更に、ここで、X、Yに常数を代入すると、方程式は、百二十万七千 五百=二十一×六万穂+B×六十穂+Cとなる。



それでは、BとCを求めて見たいと思う。BとCを求める過程では、先ず大きい暦数字より、①鈴を求める。鈴の残った小数点以下の数字より、更に②枝を求める。同じように、最後に③穂を求めることになる。説明は少し複雑になるが、この順序で説明する。



大きい暦数字を「Y」とすると、Y=百ニ十万七千五百二十になる。

この式より、まず①鈴の値を求めると、

Y=百ニ十万七千五百二十を、一鈴の六万穂で割り算する。

A=二十.一二五三三・・・三鈴が求められる。①二十鈴が求められる。



次に②枝の値を求めると、

Aの値より整数の二十鈴を差引くと、残りの値が②枝である。

A=二十.一二五三三・・・三鈴より①二十鈴を差引くと、残り

A=〇.一二五三三・・・三鈴となる。この鈴と枝の関係は、一鈴が千枝

となるため、

A=〇.一二五三三・・・三鈴に千枝を掛け算すると、

B=百二十五.三三・・・三枝が求められる。②百二十五枝が求められる。



次に③穂の値を求めると、

Bの値より整数の百二十五枝を差引くと、残りの値が③穂である。

B=百二十五.三三・・・三枝より②百二十五枝を差引くと、残り

B=〇.三三・・・三枝となる。この枝と穂の関係は、一枝が六十穂となるため、

B=〇.三三・・・三枝に六十穂を掛け算すると、

B=十九.九九・・九穂が求められる。③二十穂が求められる。



このようにして求めた、例題①の「二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に」の文章の意味は、ホツマツタヱの暦である「鈴暦」を構成する鈴、枝、穂の値が隠れていた 。このヱト暦の鈴、枝、穂の値で表現すると、二十鈴百二十五枝二十穂となっていた。

だが、良く見ると、計算で求めた鈴の値は、二十鈴であるが、ホツマツタヱの文章は、この時、「二十一の鈴の」と記述していた。すると、「年すでに 百二十万七千 五百二十に」の意味は、計算で求めた「二十鈴百二十五枝二十穂」でなく、一鈴を加算した「二十一鈴百二十五枝二十穂」のこととなる。このことは、鈴暦の暦を「数え年」と同じように数えていた。



例題②

「二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日ほのぼの いずる時」。この文章は、ホツマツタヱに記述される「ワカヒト、のちのアマテル神」の生れた日の鈴暦の「鈴、枝、穂」の表示である。このヱト暦の表示を大きい暦数字に変換すると、①鈴の値を得るには、二十鈴に六万穂を掛け算して、百二十万穂を得る。②枝は、百二十五枝に六十穂を掛け算して、七千五百穂を得る。次に③穂は、ホツマツタヱの「ヱト」の三十一番目の「キシヱ」である。この①、②、③の鈴、枝、穂の値を加算すると、百二十万七千五百三十一穂を得ることができる。



検証、「自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」

 大きい暦数字とホツマ・ヱトの関係がわかった所で、「自天祖降跡以逮」と「一百七十九萬二千四百七十餘歳」について、検証することにした。なぜ検証するかと云えば、日本書紀の記述とホツマツタヱの「天祖」の記述において、少しニアンスが違うと感じたからである。そこで大きい暦数字が理論的に多くの資料が記載されている「ホツマツタヱ」をベースに検証して見たい。

 ホツマツタヱのスス暦は、一鈴一穂から始まり~五十鈴で終焉する。その時の大きい暦数字「三百万穂」になる。その三百万穂より、天孫降臨した日~神武天皇四十五歳までの経過日数の「一百七十九萬二千四百七十餘歳」を引き算すると、答えは、「一百二十万七千五百三十穂」の大きい暦数字になる。

(式)

三百万穂(一)一百七十九萬二千四百七十餘歳=百二十万七千五百三十穂

となる。



 この(式)で求めた大きい暦数字の①「一百二十万七千五百三十穂」と、ホツマツタヱに記述の②「ワカヒト、のちのアマテル神」が生れた日の大きい暦数字「百二十万七千五百三十一穂」を比較すると、違いは「一穂」である。このことから「天自天祖降跡以逮~今」文の大きい暦数字の数え初めの天君は、瓊瓊杵尊でなく、ワカヒトのちのアマテル神ではなかっただろうか?



結論

 前述のように「降臨」と「大きい暦数字」の関係を検証してきたが、今回の検証結果から判断し、日本書紀で記述している漢文、瓊瓊杵尊の「自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」とする文章は、見直されるべきで、正しくはワカヒトの「誕生」の言葉に差し替えて、「自天祖誕生以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」とすべきであった。そして、「ワカヒトの誕生日を起点」とすべきであった。このミスティクが発生した時期は、古史古伝を一書として、紀元七百二十年に日本書紀が編纂されたが、この時の「一書」の翻訳ミスと思いたい。その証拠に、ホツマツタヱの同個所の同文章を読むと、「天つ祖」は、瓊瓊杵尊であると記述してない。ホツマツタヱの記述は、「天祖に仕ふ」と、なっており、ホツマツタヱの直訳文は「ミオヤニツカフ」である。その証拠に、「昔の御祖」と「天祖に仕ふ」の「天祖」は同じ意味であり、天祖とは、「高皇産霊、大御神などの神々」を指すと思われるが、大きい暦数字の比較検証からこの場合の「天祖」とは、「ワカヒト、のちのアマテル神」を指していた。



ホツマツタヱ 御機の二十九 タケヒト大和討ちの文

二十九文の六

【君、歳四十五 物語り 「昔の御祖 高皇産霊 日高見生みて 百億万穂 過ぎて天日の 大御神 天成る道に 民を治す 皇子の忍仁 譲り受く 御孫清仁 また受けて 別雷の 天君と 天の磐座 押し開き イ威の道別に 治まりて 御祖に仕ふ 道開きて 光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで」】



天自天祖降跡以逮~今日までの経過年数の考察

ホツマツタヱの記述より「大きい暦数字の歳」の基準は、「一日が十六穂」、また(約)27鈴以降は「一日が八穂」であることがわかった。このことから、(約)27鈴前後の日数の変化を穂を基準にして相対的に見ると、「十六穂」の場合、前では一日、後では二日となっていた。このため、(約)27鈴以降は、(約)27鈴以前に対し二倍暦になっていた。これにより、頭書の「自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」の古代の経過年数を算出すると、次の式より、太陽暦にて約183.52026年となる。

(式)

(1)アマテル神の生まれ年~(約)27鈴まで

①アマテル神の生まれ、 21鈴125枝31穂→ 1,207,531穂

②1日16穂の最後の年、(約)27鈴→ 1,560,000穂

③、②-①の差の大きい暦数字→ 352,469穂

④年の算式→ 約60.31426年

 352,469穂÷16穂/日÷365.2422日/年=約60.31426年



(2)(約)27鈴~

①1日16穂の最後の年、(約)27鈴→ 1,560,000穂

②光重ねて一百七十九萬二千四百七十餘歳→3,000,001穂

③、②-①の差の大きい暦数字→ 1,440,001穂

④年の算式→ 約123.206年

 1,440,001穂÷32穂/日÷365.2422日/年=約123.206年



(3)アマテル神の生まれ年~光重ねて→一百七十九萬二千四百七十餘歳

①、(1)+(2)の年数→約183.52026年

約60.31426年+約123.206年=約183.52026年



 

スス暦の初め~五十鈴 千枝二十年までの経過年数の考察

 ホツマツタヱの記述では、スス暦は、ウビジニ~神武天皇の初期で終わり、その間は、五十鈴 千枝ニ十年と記述している。この期間の五十鈴千枝二十年までを太陽暦に換算すると、スス暦の経過年数は、太陽暦にて約390.153年になる。そして、このスス暦の年代は、アスス暦(日本書紀の暦)以前の年代になる。益して、天神、天君しては、ウビジニ~神武天皇までは「十代」を数えることも重みをもって来るようです。

(式)

(1)1日16穂の最後の年、(約)27鈴→ 1,560,000穂

1,560,000穂÷16穂/日÷365.2422日/年=約266.946年

(2)1日8穂の最後の年、(約)51鈴20年(注記)→ 3,000,020穂

(2゛)(2)の経過穂、(2)-(1)の差→1,440,020穂

1,440,020穂÷32穂/日÷365.2422日/年=約123.207年

(3)年の算式→ 約390.153年

約266.946年+約123.207年=約390.153年



スス暦を解明した感想

 ホツマの研究者の中には、今だ、アマテル神が、百七十万年まで生きたなどとする記述をそのままに信じている人がいるようです。そのため、ホツマツタヱのことを話をしても、多くの国民よりホツマツタヱの信憑性に疑問を持たれ兼ねないようです。ホツマツタヱが再発見されて、2016年で五十年になりす。再発見された五十年を新たな機会に、更に国民の多くに超古代の日本を知って戴く機会であろうかと思います。このような現状より、アマカミ(天神)、アマキミ(天君)のスス暦の世が、古代暦だけでなく、太陽暦においても、年代、年数が判明できるようなったのは、国民にとって大変に嬉しいことだと思われます。それも、現在の数学を用いた解明は、貴重な意見と思われます。今後、ホツマツタヱを志される多くの若者がいるかと思います。高度な学問を志された若者の手により、更に、当スス暦の解明を再度、精査されて、更なるホツマツタヱ研究の飛躍を望みたいものです。 

                                        (おわり)



 

注記 

「五十鈴の 千枝の二十年 天替わる」の記述を、ホツマの暦のルールで(約)51鈴20年と訳しましたが、ホツマツタヱ本文では、51鈴の御世があったとする記述がありません。  従って、「五十鈴の 千枝の二十年 天替わる」の訳を、51鈴20年と訳するか、通常は千枝で拆鈴となるものが、20年で拆鈴になり早枯れ失せたことから、50鈴の御世に早枯れし、「20年を持って千枝となす」との訳もできるようです。そのため、他のホツマツタヱのスス暦の解読書では、51鈴20年→50鈴20年を採用しております。裏ネタは、パートⅠで詳細に説明しております。

  • 解説 五十鈴の 千枝二十年 天替わる の意味


  • PDF原稿

    百七十九万 二千四百 七十穂の意味(初発表日:平成14年10月27日) 





    スス暦の質問に答える バック データー(パート Ⅰ)

    祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見

     1999年12月3日初稿

     2021年3月16日更新

      本物のスス暦解析 スス暦の解読が出来ない出来ることの差って、何?

     ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

    はじめに

     スス暦は、ホツマツタヱに記述される暦である。暦の性質は、近代の暦と違うホツマツタヱ独自の暦である。強いて上げると古代暦と云える。年代的には、ホツマの創世記~アマテル神の生まれ~その後の五代フキアハセズ(略称)まで、また、考古学的には、縄文時代~弥生時代になる。それにも況して日本に暦がなかったとされる時代に存在した古代暦である。

    (注)日本の暦の歴史

     近代の教育では、日本には暦がなかったとされる。それも、シナの魏志倭人伝に、「その俗、正歳四時をしらず」と記載してあるからである。


    Ⅰ、スス暦の解読が出来ない人の傾向

    結論

     スス暦を解読できない人の傾向を見ると、初めからできないとしていた。

     ある人は、「植物のマサカキのため、植物に託した年数計算であるため、太陽暦との間には齟齬を生じやすいと考え、現在人には理解が及び難い。」また、ある人は、「この疑問に科学的な解答を与えることは不可能と考えている。即ち、スズ暦で現わされる大きな数値には宗教的な意味が込められており、科学万能の現代人感覚では理解困難と言わざるを得ないのである。現代と同じ太陽太陰暦を持っていた時代背景からして、この大きな数値は、宗教的な意味合いを加味して解釈しなければ思考の渋滞を免れない。」としている。(検証ホツマツタヱ、ホツマ辞典本より引用)

     また、ある人は、私のスス暦解読を批判し、「文脈によってキアヱ暦は臨機応変に年、月、日のいずれかを指すということです。決して短絡的に断定できるものではありません。」と述べていた。

    出来ない根源

     ホツマを読むと、「アマテル神の頃の暦は、長い年月を数えるために用いた暦の基準は、マサカキ、ススキ、ススと云った植物であった。その年の数える方法は、60年でミタ(三尺)の伸びを一枝とし、10枝で600年、100枝で6000年、1000枝で6万年。そして、マサカキの寿命は6万年で枯れる。」と記述される。

     だが、植物のマサカキは、自然環境の影響で早枯れするものもあるだろう。また、ホツマのスス暦の記述は、21鈴、22鈴、25鈴、26鈴、29鈴、32鈴、36鈴、42鈴、49鈴、50鈴のみが記述され早枯れ説も推定される。だが、マサカキが早枯れしても、50本まで植え継がれていた。この早枯れ説より、マサカキの暦は、植物に託した年数計算であるため、太陽を元にした暦との間には、齟齬を生じやすいと考えられ、これ以上のマサカキ暦の研究がなされていなかった。また、古参の一部のホツマツタヱ研究者の間では、この説が支持されるらしい。


    Ⅱ、スス暦の解読が出来る人の意見

     一方、スス暦を解読できた人は下記の項目について、理系的に根拠を突き詰めていた。

    ○マサカキは暦に当初は植物が採用され、途中から植物から離れた暦法になっていた。

    ○マサカキの枝の数えを元にした鈴枝穂と年の関係が立証された。

    ○マサカキ暦は、50鈴まで継続。だが、50鈴の頃の穂の数え起点が変化していた。

    ○マサカキ暦の終焉は50鈴。だが、次のアスス暦の51穂に、51鈴の形跡があった。

    ○ホツマは、「拆鈴二十(年)」を誤記し、50鈴1000枝20年と記述していた。

    ○スス暦には、1日と穂の関係が隠れていた。それも、27鈴で改暦されていた。

    結論

     当初のマサカキ暦の運用、年数計算の方法は、マサカキの伸び、枝の本数、マサカキの本数の数え方を見習っていた。だが、マサカキが早枯れする場合が想定されたため、植物のマサカキの枝の観察を離れ、鈴、枝、穂のみでスス暦を年数計算に適合するように考えた形跡があり、その暦を運用したのが、暦の臣である「オモイカネ」などのようである。ホツマでは、日読みの臣として記述されている。従って、スス暦は、古代暦として継続された暦であった。

     また、継続性を表すホツマの記述は、アマテル神の生まれ年、長男のオシヒトの天日嗣年、アマテル神の神上がりの頃の年、タケヒトのスメラギ(神武天皇)の即位前のアスス51穂の年数などで見ることができる。そして、スス暦は、50鈴20穂で終焉していた。

    1、継続性の根源

    (1)スス暦の累積年

     スス暦のマサカキは、1鈴~50鈴まで植え継がれているため、年の累計は、式「(50-1)鈴×60.000穂」より、50鈴の年に2,940,000穂になる。なお、ホツマには、50鈴の20年にスス苗が生えずとの記述がある。その記述は、「鈴苗ありや」「かつて無し 手を空しくす」。この記述からしても、マサカキを更に植えて50鈴より51鈴になったとの記述はない。

     だが、スス暦→アスス暦に変わる以前の記述に、50鈴1000枝20年の記述があるが、ホツマには、「拆鈴二十(年) 伸び如何に」と記述しており、51鈴20年はない。そこで、仮に51鈴の年として、累計年を計算すると、式「(51-1)鈴×60.000穂」より、51鈴の年に3,000,000穂になる。

    (2)ホツマツタヱ研究者の間で見逃され易いホツマ文の読み下し

     アマテル神の生まれは、21鈴である。また、アマテル神の神上がりは、50鈴の頃である。当然、ホツマに記述される年は、スス暦の継続年、または、累積年であるべきである。そして、この二つの差の年が、アマテル神の生涯年齢になる。

     そこで、ホツマを見ると、アマテル神の生まれ年のスス暦の年は、21鈴の1,207,531穂に記述されている。また、神上がり年は、50鈴の頃とされるため、スス暦の累積年の2,940,000穂~3,000,000穂の範囲なる。

     だが、意に反して50鈴の年に約1,732,500穂との記述がある。また、スス暦と年の関係を更に調べるため、アマテル神の長男のオシヒトが、天日嗣した年をホツマより抜粋すると、25鈴の年に1,447,858穂と記述されている。

     このことを作図すると、①アマテル神が生まれた時の年の数字~オシヒトが天日嗣された時の年の数字が描く「直線の傾きが大」に対し、②オシヒトが天日嗣された時の年の数字~アマテル神が上がりされた時の年の数字で描く「直線の傾きが小」になり、二つの傾きは大きく違っていた。

     この直線の傾きの違いの原因は、鈴の記述に対し、それぞれの穂の数える起点が違っていた。21鈴、25鈴はスス暦の1鈴1穂が起点であり、50鈴はアマテル神の生まれ年の21鈴125枝31穂を起点になっていた。

    2、鈴と穂の関係

     解読された鈴、穂より判明することは、

    (1)50鈴になると穂の記述も、アマテル神の生まれ年を起点としていた。

    (2)伊勢神宮には五十鈴の宮は、あるが五十一鈴の宮は無いように、スス暦も50鈴で終焉していた。

    (3)50鈴20年でスス暦が終焉するが、その後もスス暦が使用された形跡があった。そのことを証明するように、神武天皇の即位前のアスス51穂に、51鈴を示す1,792,470穂または、3,000,001穂の年代を見出しことからも判明する。

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    3、解読された50鈴以降の穂の数字の実態

     ホツマの50鈴の頃に記述される「百七十三万二千五百穂」。また、ホツマ、日本書記の神武天皇前記に記述される「一百七十九万二千四百七十余年」の二つの年の数字は、アマテル神の生まれ年を起点とした数字であった。

    (1)アマテル神が神上がりされた50鈴の頃の1,732,500穂の意味

     振り返って、スス暦の累積年の項を参照して見ると、スス暦50鈴の穂の数字は、2,940,000穂である。それに対しアマテル神が生まれた時の年の数字は、21鈴に1,207,531穂である。そこで、50鈴より21鈴の穂の数字を差し引くと、1,732,469穂が求められる。(式) 2,940,000穂―1,207,531穂=1,732,469穂。すると、1,732,500穂と1,732,469穂の差は、僅か31穂であるが、二つの数字は同根であり、アマテル神が生まれた年を起点に、アマテル神が神上がりされる頃の年数(年齢)を表していた。

    アマテル神の生まれ年

     ホツマの記述には、「フソヒスズ モモフソヰヱタ トシキシヱ ハツヒホノホノ」に、アマテル神が生まれ記述がある。訳する、「ニ十一鈴 百二十五枝 年キシエ 初日ほのぼの」になる。年に換算すると、21鈴の年に1,207,531穂(21鈴125枝31穂)になる。

    アマテル神の生涯年齢

      50鈴の記述に、「タミノタメ ニガキオハミテ モナソミヨ フチヰモトシオ ナカラエテ アメノタノシミ」があり、アマテルが長生きされたことが記述されている。訳すると「民のため 苦きを食みて 百七十三万 二千五百年お 長らえて 天の楽しみ」になる。これをアラビア数字の年に換算すると、50鈴の年に1,732,500穂(29鈴875枝0穂)になる。

    (2)神武天皇の前記に記述される1,792,470(余)年の意味

     スス暦の次の暦のアスス51穂の記述に、初代神武天皇が御祖、大御神の物語を読まれたとの記述がある。その記述は、「ヒカリカサヌル トシノカス モモナソコヨロ フチヨモモ ナソホヘルマデ」である。訳すると「光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで」となる。だが、アマテラス神の神上がりは50鈴の頃のため、アスス51穂の1,792,470穂(30鈴874枝30穂)の記述は、アマテル神が生まれた以降の御世年数を表していた。だが、スス暦の累積年でないため、修正すると、3.000.001穂になり、鈴枝穂では、51鈴1穂になる。

    (式)1,792,470穂+1,207,531穂=3.000.001穂→51鈴1穂

     日本書記の神武天皇前記の記述にも、1,792,470年の記述があった。その記述は「自天祖降跡以逮。于今一百七十九万二千四百七十余歳。」がある。訳は、「天祖が自から降ってから、今まで一百七十九万二千四百七十余年」になる。この数字も、アマテル神が生まれた以降の御世年数を表していた。


    Ⅲ、スス暦には、1日と穂の関係が隠れていた。

     スス暦の継続性を否定する人たちには、スス暦の1日と穂の関係をホツマの文章より解明できることはないようだ。その理由は、40~50年ホツマを読んでいても、「植物のマサカキのため、植物に託した年数計算であるため、太陽暦との間には齟齬を生じやすいと考え、現在人には理解が及び難い。」としているからである。

    ここでは、私の研究結果の1日と穂との関係を、簡単に述べると、ホツマには、独自のヱトがある。このヱトの1~60までについて、ニニキネの頃の記述「アヱよりヤヱの 中五日」を検証すると、中五日の一日はヱトの数が掴める。(21アヤ、27鈴のニニキネの頃の記述)

     また、4アヤのアマテル神の頃の記述の「天の原 十六穂居ます 一日ぞ」を、前述の「アヱよりヤヱの 中五日」の法則により検証すると、前述の同じ法則でも解読される。

     なお、ここでは詳細な説明は省略するが、詳しくは、次の自費出版(2冊)をご覧下さい。または、下記のパートⅡをご覧下さい。

    新刊・論文本

     ホツマツタヱ 古代暦法「スス暦」、長在年暦法「アスス暦」

    http://indigoseal30.sakura.ne.jp/susu_asusu_syouzainenreki/asusu_cyouzaireki.html

    新刊名

     日本書紀に隠された 古代天皇の秘密

    http://indigoseal30.sakura.ne.jp/nihonsyoki_ni_kakusareta/nihonsyoki_ni_kakusareta.html


    Ⅳ、否定されるスス暦の二つの説

    1、スス暦の51鈴説

     ホツマの一部の研究者の間では、28アヤに50鈴1000枝20年の記述があるところから、1000枝→位上がりして1鈴となり、50鈴+1鈴=51鈴になり、ホツマの終焉は51鈴と信じられているところがある。だが、スス暦の暦法から見ると、50鈴⇒51鈴変わる時の最後の枝穂は、50鈴999枝60穂であり、次は、51鈴1穂である。そのため、暦法上に1000枝の記述は存在しない。

     重複になるが、また、ホツマには、50鈴の20年の記述に、「鈴苗ありや」「かつて無し 手を空しくす」、また、「拆鈴二十(年) 伸び如何に」との記述されている。このことから、999枝の次を拆鈴云うが、50鈴の年のみ20年で「鈴苗がなくなり」、20年を「拆鈴二十(年)」とホツマは記述していた。このことからも、スス暦の御世には、50鈴20年で終焉しており、51鈴の御世はなかった。51鈴が存在した御世は、次のアスス暦のアスス51穂の神武天皇前紀の7年前のことである。

    2、1年3000穂説

     この説を唱えたのは、千葉富三(盛岡ほつまの会)と云う人である。だが、本人も根拠を説明できないまま、検証ほつまつたえに掲載されたため、ホツマの一部の間で信じられている説である。誤説の根拠を本人に変わり説明すると、28アヤに記述される「50鈴1000枝20年」の記述がある。そして、安易に、1鈴=1000枝=60,000穂を20穂で割り算し、1年3000穂を求めていた。 (式)60,000穂÷20穂=3,000穂

     だが、前述したが、1000枝の記述はスス暦の暦法上に存在しない。50鈴999枝60穂の次は、51鈴1穂である。よって、1年3,000穂説は、根拠なき悪説である。せめて、拆鈴(999枝60穂)の意味が掴めていれば、こんな間違いはしなかったであろう。

                (おわり)



    補足

     十二代景行天皇40穂、ヤマトタケのホツマ国討ちの記述に、「アマテラスカミ コヨミナシ ゾロウエサセテ カテフヤシ ミオタモタシム モモナソコ ヨロミチツヅク」があり、日高見が国を授かったのは大御祖の時との記述がある。訳すると「アマテラス神 暦なし 稲植えさせて 糧殖やし 身を保たしむ 百七十九 万三千続く」になる。これをアラビア数字の年に換算すると、十二代景行天皇40穂の年に1,793,000穂になる。だが、アマテラス神の神上がりは50鈴のため、十二代景行天皇40穂に1,793,000穂(30鈴883枝20穂)の記述は、暦の累計値としては疑問が生じる。



    スス暦の質問に答える バック データー(パート Ⅱ)

    祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見

     1999年12月3日初稿

     2021年 4月2日更新

    本物のスス暦解析

    「天の原十六穂居ますも一日とぞ」、

      否定される「十六年、または、長い年月居ますも一日の如く」説

       穂と年は、スス暦での意味が違っていた

     ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄


    1、神武天皇の前記に記述される1,792,470穂、または、1,792,470余年の意味

     1,792,470穂(ホツマ)、1,792,470余年(日本書紀)の数字は、私の解読によれば、ホツマおよび日本書紀ともアマテル神の生まれ日を起点した経過の穂、または年であることが判明した。また、ホツマにはアマテル神の生まれ日が、21鈴125枝31穂(換算値;1,207,531穂)と記述され、キアヱ暦(スス暦)の初穂より3,000,001穂(内数1,792,470穂)経過した穂であることも判明した。また、次のアスス暦の御世に、鈴枝穂の51鈴1穂があった。


    2、スス暦の御世のツイタチ(朔)、ハツヒ(初日)、コトヒ(一日)

     前述のようにスス暦の御世が、暦法上に51鈴間も存続していたことが判明する。そして、この期間は鈴枝年穂と月日の二本立てであり、ツイタチ、ハツヒ、ヒトヒで記述された件数が8件残されていた。(下記参照)また、この年サナト、三十八(穂)らの年は、現在の一年の年と類似するような表記になっていた。更に、年中に12月、うる月もあった。

    ツイタチ(朔、朔日)の記述  2件

     6-  1  二十一鈴 百二十六枝 年サナト 弥生ツイタチ(朔日)

    24-  6  時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月ツイタチ(朔日)

    ハツヒ(初日) の記述        6件

     4- 24  二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ ハツヒ(初日)ほのぼの 

    15- 22  ハ月ハツヒ(初日)に なる初穂  

    19B- 1  二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のハツヒ(初日)に

    21-  1  二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生ハツヒ(初日)

    28- 11  二十一鈴 百二十五枝 三十一穂キシヱの ハツヒ(初日)の出

    ヒトヒ(一日)の記述       1件    

    4- 39  天の原 十六穂居ますも ヒトヒ(一日)とぞ

     上記のホツマの記述を信じると、アマテル神は1,792,470穂も生存し、長生きされたことになる。だが、ホツマの記述は、近代の暦の記述と大きくかけ離れていると思われ「本当だろうか」。または、近代暦との変換方法はあるのだろうかとの疑問も沸く。


    3、推量、鈴枝穂のイチニチ(一日)の尺度を捜す

     そこで、現在の暦と同じような一日(24時間)の尺度が、鈴枝穂の期間に隠れていないか。また、その尺度は、スス暦の月日にも同じように運用されているだろうかと推測して見た。そこで、ホツマを読んで見ると、イチニチ(一日)の記述が含まれるのではないかと推定される文章がアマテル神の皇孫(ニニキネ)の御世の21アヤ64に見つかった。その文章は、「アヱよりヤヱの 中五日」になる。 

    アヱよりヤヱの 中五日    「2013年4月に検証ホツマツタヱに発表」

     訳すると、ホツマ・ヱトの「〇アヱより〇ヤヱの中五日の間は、森お離れて遊び行け」とあり、イチニチ(一日)の長さが推測できそうである。まず、原文の平仮名訳を紹介する。また、と、「〇アヱ」、「〇ヤヱ」は、ホツマ・ヱトの三文字の内の下二桁の文字と判明する。そこで、「キアヱ 1」と「オヤヱ 5」らの関係を調べて見た。

    本文の平仮名訳

     これにより あゑよりやゑの  これにより アヱよりヤヱの

     なかゐつか もりおはなれて  中五日   森お離れて

     あそびゆけ          遊び行け


    Ⅰ、スス暦の解読が出来ない人の傾向

    結論

     古参の解釈を見ると「中」を訳してない。訳は『「○アヱ」から「○ヤヱ」にかけての5日間は遊びに行く日、また、アヱの日から○ヤヱの日までの五日間は守りを離れて遊びに行け。』となり、二つの文章とも五日間としているが、「○アヱ」から「○ヤヱ」の文章は、「から~まで」の文章であり、必然的に五日間になる。古参は、「中」の意味を誤訳し、訳がない。

     プロの投手は、中4日とかで次の試合に登板している、1戦に投げて、2戦、3戦、試合なし日、5戦は調整し、6戦に投げている。これが中4日の意味である。

    Ⅱ、スス暦の解読が出来る人の意見

    検証

     「アヱからヤヱの 中五日」は、○アヱから○ヤヱは、中五日の意味である。そこで、中を網羅するか否かを例題 1、2のように調べた。

    例題1の結果

     検証の始めは、「〇アヱ」の最初の「キアヱ 1」を含め、次の「〇ヤヱ」の「オヤヱ 5」までコマを進めた。この結果、コマ(駒)数は五つになる。また、「サヤヱ 17」、「ネヤヱ 29」、「キヤヱ 41」、「ツヤヱ 53」までの駒数を調べると、17、29、41、53個になる。更に、中の穂数を調べると、3穂、15、27、39、51穂になる。だが、このように、完全な中五日は、再現しない。

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    例題2の結果

    結論

     「アヱよりヤヱの 中五日」を網羅する検証結果は、「キアヱ 1」から「キヤヱ 41」までの差 40を五日で割り算することで、イチニチ(1日)の長さの8穂を求め、その一日の5倍が中五日の意味であった。(1日8穂×5日=40穂)

    結論を先に書いたが、振り返って説明すると、

     その中五日の解釈であるが、「中」は一定の範囲の内と解釈される。また、「中」を数学的に考慮すると、完全な中でないが、差の内とも解釈される。そこで、下記のホツマ・ヱト表のように、各々「〇ヤヱ」と「〇アヱ」の中(差)を求め、更に、五日で割り算し、各々の一日のヱトの日数を求めて見た。その結果、鈴枝穂の期間にイチニチ(一日)で区切れる尺度の長さは、キアヱ・ヱト表中の進み数の「8個」の期間であった。このように、鈴枝穂の期間が、イチニチ(一日)当たり8進み数で運用されていたことが判明する。

    表での説明

     「キアヱ 1~ツヤヱ 53」までの5例を下表のように計算した。その結果、エトの差が中五日になるヱトは、キアヱ1~キヤヱ41であり、中五日で割り算すると、鈴枝穂の御世での一日とヱトの穂の関係は、イチニチ(一日)当たりの穂は「8個」で成立していた。他は不成立。

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    ご参考

     スス暦の暦法を紹介すると、天のマサカキ

      年の穂の   十年には五寸  六十年に   ミタ(三尺)伸ぶヱト 

      一周り    明くる年なる  ミタ(三尺)の天枝 なれば二ヱト(の初めの)

      キアヱより  枝と穂と数え  1枝60    10枝は600年

      100枝は6000 1000枝に6万年を 天守りの   一周りづつ 

      暦なる    故、千枝の年  種植えて   明くれは生ゆる マサカキお

     そしてマサカキの寿命は6万年で枯れる。と記述される。

     そこで、前述のヱトの8進み数をスス暦の暦法と対比すると、『二ヱトの初めの「キアヱ」より枝と穂と数え』と記述している所から、進み数の8個⇒8穂のことであった。そのため、イチニチ(一日)は、8穂で成り立っていたことになる。また、念押すが、「表 キアヱ・ヱト表」の60個の一つ一つは、穂であった。この穂の意味は、次の年の意味の違いで明確になる。

    穂と年の関係、穂は年の意味でなかった。 (穂≠年)

     ホツマの記述では、穂の数が圧倒的に多い。また、スス暦には、穂と年が併記される。また。タケヒト(神武)のスメラギ(天皇)の御世以降は、初年を穂で記述されるため、穂と年を同じ意味として扱って来た。だが、アマテル神が生まれた頃の二つの記述には、「年」、ヱトの穂のキシエらが併記されていた。すると、スス暦の年と穂の意味は違うことになる。

    4- 24  二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ ハツヒ(初日)ほのぼの 

    6-  1  二十一鈴 百二十六枝 年サナト 弥生ツイタチ(朔日)

    そこで、もう一度、ホツマの暦法を見ると、「ミタ(三尺)伸ぶヱト 一周り 明くる年なる」と 記述していた。勘弁的に要約すると、「ヱト(1穂~60穂)が一周りすると、明くる年」になる。すると、ホツマで呼ぶ年の意味は、1穂~60穂までの経過穂を年としていた。重複するが、穂は前述したように、ヱト(1穂~60穂)の60分の1を穂と読んでいた。(穂≠年)

    4、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の意見を検証する

    古参の意見

     私は、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の文章を素直に解釈した結果、「天の原の一日は、十六穂を数えていた」と解釈した。だが、キアヱ暦を解読できないとする古参の研究者らの意見は、前後の文章より「二神はアマテル神を篤く養育され、過ごされた十六穂、または、長い年月はあっという間に過ぎ、丸で一日のようだった。」と訳されていた。この根拠には、「穂を年」と同じ意味と解釈され、「十年一日如し」に準じるような意味に訳されていた。その原文の平仮名訳と古参の訳を下記に紹介する。

    本文の平仮名訳 (四行を提示された。)

     ふたかみの みこころつくす  二神の   御心尽くす

     あまのはら そむほいますも  天の原   十六穂居ますも

     ひとひとぞ おぼすわめぐみ  一日とぞ  思すわ恵み

     あつきなり          篤きなり

    アマテル神の生まれと養育が篤く書かれている説の訳(吉田代筆)

     (1)イサナギ、イサナミの二神は御心尽くしてアマテル皇子を養(育)されていた。

     (2)このようにして、天の原の御世は、十六穂居ますも一日の如く過ぎ

     (3)二神がアマテル皇子を思す恵みは篤きなり。

    古参の解説文

     二神はアマテル神を篤く養育され、過ごされた十六穂、または、長い年月はあっという間に過ぎ、丸で一日のようだった。

    私の意見

     前述したように、穂と年は意味が違う。このため「十六穂居ますも」の十六穂の意味は、16年のことでなく、ホツマ・ヱト表の16穂(16進み数)の意味になる。また、仮に16年と誤訳すると、16ヱトの巡りを意味し、16枝と同じ意味になってくる。 従って、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の文章の本来の解釈は、「天の原(では、ヱト表の)十六穂居ますも、一日(のこと)とぞ」であったとなる。

    「アヱよりヤヱの法則」で立証される私の意見の再検証

     アマテル神の御世の「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の文章は、暦法的に「イチニチ(一日)をホツマ・ヱトの16穂で数えていた。また、アマテル神の皇孫(ニニキネ)の御世の文章の「アヱよりヤヱの 中五日」は、暦法的に「イチニチ(一日)は8穂で運用されていた」と説明して来た。そして、この二つの文章は、独立しているように見えるが、「アヱよりヤヱ」の文章で共通性があった。なお、「アヱよりヤヱの 中五日」の文章は、先に、ホツマ・ヱト表で検証して来た。

     そこで、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の文章についても、下記のホツマ・ヱト表に準じて、「アヱよりヤヱ」の方向に、「キアヱ 1」より十六穂進めて見た。すると、十六穂目は、「サヤヱ 17」になり、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の文章も、「アヱよりヤヱの法則」で成り立っていたことが判明する。

     結論的になるが、アマテル神の御世のイチニチ(一日)は、十六穂であり、神武天皇の前記に記述される1,792,470穂も、イチニチ(一日)の単位に変換できることがわかって来た。

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    本文の平仮名訳 (本文の区切れは、アマテル神が生まれた時より始まる。)

     ひさかたの ひかりあれます  久方の  生(あ)まれす

     ういなめゑ あゆきわすきに  初嘗めゑ  アユキ、ワスキに

     つげまつり みこひたさんと  告げ祀り  皇子養さんと

     ふたかみの みこころつくす  二神の   御心尽くす

     あまのはら そむほいますも  天の原   十六穂居ますも

     ひとひとぞ おぼすわめぐみ  一日とぞ  思すわ恵み

     あつきなり          篤きなり

    解説文 (古参の解説文と比較して頂くと幸甚です。)

     久方の光と共にア(生)れますウヒルギ御子。生まれたばかりの天日嗣の御子が初めて穀物を供え、 食する祭儀の初嘗会の斉場には、赤玉の若日霊の霊が差し込む「キ(東)」の方向にアユキの宮が造られ、「九星のアメノミナカヌシの1神とトホカミエヒタメの8神」を祭られました。

    また、暮れ日の御玉の落つる「ツ(西)」の方向のワスキ殿には、「ウマシアシガイヒコチ神の11神(キツヲサネの5神とアミヤシナウの6神)が祭られました。そして、天上の元明けの天御祖神に、天日嗣の御子のウヒルギの誕生を告げ祭りが奉納され、初嘗会を経てウヒルギの御子は、天御祖神の信任を受けて、アマキミ(天君)の皇子になられたのでした。

     そして、ウヒルギ御子を養さんと二神のイサナギ・イサナミは、御心尽くす寵愛をされ天の原の一日が過ぎて行きます。天の原での一日は、スス暦において、「1日を16穂」で数えており、 「十六穂居ますも 僅か一日とぞ(一日のことになります。)」 そのような二神のオボス(お思いになられる)は恵みも伴に篤きことなり。 

     私は、1999年12月より『アマテル神の御世は、「イチニチ(一日)をホツマ・ヱトの16穂で数えていた。」』と提唱して来た。今回(2021年3月)の検証に於いても、同意見であった。            

                                    (おわり)



    ・・・・・・・・ここまで検証するかホツマ研究者・・・・・・・・・・・・・・・

    ご参考

    「中五日」の再検証

     例題1で、最初の「キアヱ 1」~「ツヤヱ 53」までについて、「中」の穂数を検証していた。その結果は、3穂、15、27、39、51穂と説明した。そこで、それぞれの穂数を5日で割り算すると、3穂÷5日の1日0.6穂になる。同じように計算すると、15穂÷5日の1日3穂、27穂÷5日の1日5.4穂、39穂÷5日の1日7.8穂、51穂÷5日の1日1.2穂になる。注目されるのは、1日が3穂になる15穂÷5日である。そうすると、中五日の意味は、「キアヱ 1」~「サヤヱ 17」の期間となる。

     だが、もう一つ検証することがある。それは、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」との整合性である。前述の説明で、二つは「アヱよりヤヱの法則」で説明できると述べていた。そこで、「アヱよりヤヱの法則」により、「キアヱ 1」から中15穂になるように駒を進めると「サヤヱ 17」で止まる。このように、中15穂は、「アヱよりヤヱの法則」に準じていた。だが、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の文章は、1日を16穂と記述しているため、駒数で17個、中15穂のため、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」に整合しなかった。この結果、中15穂は不採用とした。



    スス暦の質問に答える バック データー(パート Ⅲ)

    祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見

     1999年12月3日初稿

     2021年 4月9日更新

    なぜ、スス暦のイチニチ(1日)の発見が必要か

       遡り年の古代日本史の年表が太陽暦に準じた暦で作れる

          それも、日本人の心の古里であるアマテル神が

             ハラミサカオリ宮(富士の南麓)で生まれられた年代まで遡れる。

      

     ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

    古代・スス暦の年表

     今では、神社の祭神となっている「オオヤマスミ」や「オオモノヌシ」であるが、ホツマツタヱでは、アマカミ(天神)の臣として、活躍した人たちである。その人たちの活躍した年代、活躍した在位年数が、スス暦のイチニチ(1日)が判明することにより、現在人と同じ人間であったことがわかる。                                                  本古代・スス暦の年表は、下記の「スス暦の研究発表資料」の「・66-H2504-201304 スス暦(二十七鈴~)、アスス暦が長暦になった原因と是正の考察4)長暦の原因」について、見直した年表になる。(更新日 2014_2_12原簿のコピー版) 

    オオヤマスミの家系の年表  作成 2014年3月13日付

    年表の見方

     スス暦の21鈴~50鈴までの年代を抜き出し、表の左列に記載した。次に、オオヤマスミの6代~10代が、それぞれ21鈴~50鈴間で活躍した時の記述を挿入した。そして、21鈴~50鈴のスス暦の鈴枝穂の年代を1日の穂、更に、一年の日数で割り算し、年数を計算した。最後に、6代~10代までのそれぞれの代の最初~最後の年数を求めで、代の在位年数とした。

    年表の解説

     下図は、1日16穂として、算出した在位年数である。8代以降の在位年数が、それ以前の在位年数に比べて長いことが判明する。特に、9代は62年、10代は特段の70年の在位年数と異常であった。このように、スス暦の21鈴~50鈴までの年数を同じ尺度の1日で、年代を計算すると、27鈴以降は、一代当たりの在位年数が長くなっていた。                                                         この原因は、スス暦が27鈴~改暦され、1日が16穂の刻み⇒2日で16穂の刻みになっていたことを知らずに、同じ尺度の1日と思い込み計算したためと思われる。この現象は、次の暦のアスス暦にも踏襲され、神武天皇の年齢も127歳と異常な高齢になっていることからもわかる。余談であるが、スス暦~アスス暦に渡り長生きした臣の六代オオモノヌシのワニヒコは、192歳以上に記述されていた。

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     下の図は、21鈴~26鈴までを、1日16穂で算出。また、27鈴~50鈴は改暦により2日16穂で算出。その結果、9代は31年、10代は35年と、6代、7代のオオヤマスミの34年、11年の在位年数や現在に近い在位年数であったことがわかる。

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    オオモノヌシの家系の年表  作成 2014年3月13日付

    年表の解説

     下図は、1日16穂として、算出した在位年数である。3代以降の在位年数が、それ以前の在位年数に比べて長いことが判明する。特に、3代115年、4代107年、6代131年の在位年数と異常であった。但し、5代は記述がないため不明。

    futomani_no_uta

     下の図は、21鈴~26鈴までを、1日16穂で算出。また、27鈴~50鈴は改暦により2日16穂で算出。その結果、3代58年、4代53年、6代66年のオオモノヌシの40年、33年の在位年数や現在に近い在位年数であったことがわかる。

    futomani_no_uta

    ・・・・・スス暦の研究発表資料・・・・

     平成22年~平成29年(48号、52号~70号)に渡り、検証ホツマツタヱに発表したスス暦の研究レポートです。その中でスス暦の研究が大幅に進展したのが、2013年4月発行の研究になります。年代は更新前(最終でない)ですが、ご参考にして頂ければ幸甚です。

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