八女山より見たアワミサキ(泡三東⇒大三東)

八女山より見たアワミサキ(泡三東⇒大三東)



本 文

 2021年5月4日デートアップ

 2014年9月12日~24日付

景行天皇 筑紫巡幸で見た 

 マエヤマ アワミサキとは 島原半島の眉山、大三東(おおみさき)のことだった。だが、旧七月は夏のガスで見えない。八女山より大三東が良く見えるは秋である。写真は、八女山のお茶畑より望んだ風景 (八女茶)

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 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

 

アワミサキ(大三東)

景行天皇が見たアワミサキ(大三東)

 福岡県八女市(黄色の矢印方向)の山より、長崎県島原市の眉山、大三東(町)が良く見えるのは、秋から冬の季節である。とても、旧7月後半には、見えないとのことである。(八女の人に電話で確認済)そのマエヤマ、アワミサキは、長崎県島原市の眉山、大三東(緑矢印方向の先端の町)だった。

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上地図の黄色の三角△方向より見た大三東駅

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引用Webアドレス ; 長崎県フィルムコミッション様(ありがとうございます。) https://www.jldb.bunka.go.jp/location/420111332/?search=1&cate%5B%5D=114

 



ホツマツタヱの本文の解説に戻ると

景行天皇、筑紫への御幸

 景行天皇の御世の十二年七月、南九州の熊襲が背いて貢をしてこなかつた。そのため、スメラギ(天皇)は筑紫にヲシテ(親書)を送られた所、筑紫のクニツコ(国造)から熊襲の御狩を依頼してきた。これは唯ものでないことを察せられたスメラギ(天皇)は、八月望(十五日)より御幸され、周防、宇佐、豊国(行橋市、大分県)を廻られて、十一月に日向(宮崎県)の高宮に到着された。

 



熊襲兄アツカヤ、実娘の姉に殺される

 十二月五日諸を集めて熊襲征伐を打ち合わせされて、「矛借らず 平けん」、「隙を窺い 虜(とりこ)にす」と、穏便に熊襲を生け捕りにすることを提案された。そして、熊襲の姉妹を召して御許(おそば)に置いて恵みなされた。だが、その姉は君の憂いを察したのであろうか。姉が兵に申すには、「君な憂いそ 謀らん」と云い、兵を連れて家に帰るや酒をあたた(沢山)に飲ませて、酔い潰れた父(熊襲)を弓の弦にて殺してしまった。

 



兄アツカヤ、亡き後の熊襲の平定

 スメラギ(天皇)は、「姉が肉親を断った」とのことを聞かれるや、君の御心を理解してくれなかったと嘆かれて、姉を憎み殺された。その変わり御心を理解していた妹は襲緒のクニツコ(国造)と結婚させて、スメラギ(天皇)は「筑紫を平定させたい」と申されて、十六年まで高屋の宮に滞在された。

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児湯県ニモ野の御幸

 七年三月十二日宮崎県の児湯県ニモ野に御幸されて、「昔、高千穂の峰に登られて神となられたニニキネ、日の山の朝日に辞なまれたコノハナサクヤ姫を偲ばれました。」

 



帰路、高田宮大御木 朝日影、夕日影

 十八年三月都帰りのため、日向の高宮を出発され、宮崎県小林、四月三日熊本県球磨、五月初日に八代、六月三日高来県、玉名、十六日阿蘇国、七月四日筑紫道後の高田(注1)宮に入られた。高田宮に到着されると、宮の翁から「御神木である大御木が倒れた」時の話を聞かれました。倒れた木を見ると、長さが九百七十丈もある大御木でした。人々は、往来の度に大御木を踏み越えながら、「朝霜の 御木の竿橋 前つ君 いや渡らずも 御木の竿橋」と歌っておりました。その歌の意味について君が問われると、高田宮の翁は、この木は「クヌギなり 倒れぬ前は 朝日影 杵島峰(佐賀県武雄市近郊の南の山)にあり 夕日影 阿蘇山覆ふ 神の御木」でしたと申されたのでした。そこで景行天皇は、この御神木にあやかり、高田宮のある「国もミケとぞ 名付けます」と申されました。

(大御木の影が作る「朝日影、夕日影」が、杵島峰、阿蘇山を覆ふとの記述は、下記のPDFまたは、HPでご報告。)



PDF

景行天皇 筑紫巡幸で見た マエヤマ アワミサキとは、島原市大三東で正しいか? ?  

 



検証(1)

八つ女お越えて マエヤマの アワミサキ見て

 景行天皇の一行は、高田宮(福岡県大牟田市歴木)を後にされて八女(市)に向かわれた。八女(市)は高田より約20Km北東に位置しており、現在の八女(市)の市街を越えて、小高い山を登る段になりました。時は、旧暦の七月から八月頃の秋の快晴の日だと思われます。君の一行の前にあった雑木林の視界が、急に開けた南南西の方向を見ますと、遥か向こうに「マエヤマの アワミサキ」が見えて来ました。その風景をホツマツタエは、「八つ女お越えて マエ山の アワミサキ見て」と記述しておりました。

 だが、この「マエ山」と「アワミサキ」について、日本書紀には、「到八女県。則越藤山、以南望粟岬。」と記述しており、「マエ山」の記述が省略されておりました。このことからも日本書紀の編集者は、「マエ山」の地名、場所が不明だったようです。また「アワミサキ」も「粟岬」と漢字に変換しておりました。なお、日本書紀の藤山は、北方向の久留米市と南の八女市の中間に位置する町になるようです。

 



日本書紀(武田祐吉校注)の記述

 丁酉、到八女県、則越藤山、以南望粟岬、

訳文

 丁酉(七)の日、八女の県に至り、藤山を超えて、南の方栗岬を望(ほせ)りたまひき。

 



八つ女姫神 峰にあり

 八つ女お越えて、マエ山のアワミサキを見て、更に、景行天皇は、山の上より八女の地の畳畑を見られて、「麗わしが、国神がいるのか」と申された。八女の地神である「ミヌサルオウミ」は、即座に云うには、「八つ女姫神が峰に鎮座しております。」と申し上げました。  

 



検証(2)

八つ女お越えて マエ山の アワミサキ見ての検証

 マエ山は、日本書紀では消されているが、どこにある山か? またアワミサキは、漢字で栗岬と記述されていたが、これは正しいか?

 



一、マエ山とは、どこにある山か?

 20年前にホツマツタヱと出合った時より、「マエ山」は故郷の山のことではないかと思い続けておりました。

 



二、マエ山は、八女市より見えるか?

 この20年間、九州に関するホツマツタヱ伝説を捜しておりますが、2014年9月4日のこの日も、HPで探索しておりました。この日は、たまたま八女の周辺を探索しておりました。そこで、やっと、八女より「晴れた日には遠く有明海や島原半島も望むことができる」とのHPに出合ったのです。この出合いは、20年の思いが成就し、「やはり マエ山は、故郷の山のことであった」と感無量になった記憶があります。下記の写真には、島原半島は見えませんが、直接に電話で確認しますと、「秋の晴れた日は、遠くにぼんやりと見える」とのことで、HPに掲載の通りでした。また写真を撮影した場所も教えて頂きました。下記は、そのHPより抜粋した一部です。ご覧下さい。

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八女茶のポスターなどでよく目にしていた「八女中央大茶園」★

 ・・(前略)・・約65haの広大な敷地に緑のじゅうたんを敷きつめたような茶畑が広がるその風景は想像よりもはるかに素敵で、思わず歓声を上げてしまうほどでした!

 茶園の頂上には展望所があり、茶畑だけでなく八女市街や矢部川も見渡せ、晴れた日には遠く有明海や島原半島(含む雲仙岳、マエ山、アワミサキ)も望むことができる素晴らしいロケーションです。引用HPのアドレス http://ecruzakka.exblog.jp/21896560/

 



三、マエ山は、現在の眉山(マユヤマ)のことであった。

 故郷のマエ山について少しお話しますと、マエ山と云う名を知っている人は、ある地区の人のみと思います。なぜかと云えば、現在では、マエ山と云う名は、正式な山の名ではないからです。このマエ山の読み名は、今では方言というか、部落(比較的少数の民家が集まっている地区)の言葉であり、「マィヤマ」と発音します。イメージの漢字では、前山になります。

 だが、正式な名称は、眉山と書いて「マユヤマ」と発音します。この山の場所は、長崎県島原半島東部になり、雲仙岳(平成新山、普賢岳)の側火山になります。また熊本県側より見ますと、平成新山の手前になり、実質の前山に見えます。八女市(近接の写真は、長洲より撮影)の方向より見ると、雲仙岳の前の山だから、マエ山と名付けたのも頷けるようです。(この項の一部は、世界百科事典を引用しました。)

 



四、地図上の八女とマエ山の位置関係

 二つの位置関係は、八女市(黄色の⇒印)、マエ山(黄色の△印)を示しましたが、八女市より見たマエ山(黄色の△印)は、南南西~南西の方向になるようです。また水色の⇒印は、長洲町、下の緑色の⇒印はアワミサキ(現在の島原市有明町大三東)になります。

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五、熊本県長洲の船上より見たマエ山、アワミサキ、雲仙岳(平成新山、普賢岳)

 四項の地図において、長洲(水色⇒印)、アワミサキ(緑色⇒印)を表示しましたが、その長洲の船上より見た島原半島の風景写真を掲載しました。                                                                                 写真の左端がアワミサキ(大三東)、左側の山がマエ山(眉山)、そして中央が雲仙岳になります。

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五、最後になりますが、アワミサキは、現在の地名では「大三東」であった。

 アワミサキを、なぜ大三東と命名したかである。だが、この名称を付けた張本人は既に過去になっており、当時のことは不明のようです。そこで、アワミサキの命名を再考して見たいと思います。まず、漢字に置き直して見ますと、アワミサキ→淡三崎(アワミサキ)とも書けます。

 



【アワ】

 そこで、「淡」の読み方について、おうみ【近江・淡海】の知識を借用します。すると、淡は「オウ」とも読まれております。その「オウ」は、近代では「オオ」であり、「オオ」の漢字は「大」を当てているようです。例として、「オウカミ」は、「オオカミ」であり「大神」との記述になっております。このことから「アワ」を漢字に変換の過程から「オオ」、「大」に書かれるようです。

 



【ミ】

 三は、「ミ」の読み方で問題ないでしょう。

 



【サキ】

 崎は「サキ」であり、ヲシテの一音節で「サ」は南であり、「キ」は東になります。古代での「サキ」とは、南東の方向を云ったようです。また、太陽が登る方向を「サキ」とも読んでおり、東の方向も大きな意味では、「サキ」に含んだようです。このように判断しますと、「サキ」の漢字は、「岬」、「崎」、「東」、「先」が当てられます。

 上記のように各々について結果して来ましたが、景行天皇が「八つ女お越えて、マエ山のアワミサキを見て」のアワミサキは、現在の大三東で間違いないかと判断されるようです。現在の住所は、長崎県島原市有明町大三東に該当するようです。 

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