日本書紀暦(2倍暦)では応神天皇は、仲哀天皇の子でなかった、意外!!
2019年12月27日 改5
第15代応神天皇は、誰の子か
日本書紀暦(2倍暦)では、応神天皇は仲哀天皇の子とならない
暦渡来後の是正暦の太陰太陽暦で見直すと応神天皇は仲哀天皇の子となる
ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
応神天皇の出処の見方
応神天皇は、母が妊まれてから453日後に生まれていた。(日本書紀より)
この日本書紀の記述に対し歴史家らは、多くの見方を下すであろう。ある者は、現在人の知識で人の妊み日数は、大凡266日前後であり偽りの記述と云う。ある者は、応神天皇の父君は第14代仲哀天皇でなく、竹内宿禰になると云う。
一方、天皇家系を信仰している歴史家らがいる。この者は、日本書紀の記述を信じ、昔の妊み日数は長かったと云う。他方、自然科学で観察している歴史家らがいる。この者は、453日を解析し古代日本は太陰非太陽暦(2倍暦)であったと云うであろう。
このように、同じ歴史の記述を見ても、現実派、体制派、探究派らに分かれる。そのため、日本の古代史を隣国と同じ暦の尺度に見直すとなると、議論が噛み合わず進展しないであろう。特に、自然科学に基づいた古代史の遡り年表の見直すことについては、これまで無視されて来た経緯があると聞いている。
このような歴史議論を目にされた読者は、どの意見を支持されるだろうか。
応神天皇
応神天皇とは
日本書紀によれば、「ホムタ(応神)天皇はタラシナカツヒコ(足仲彦、後の仲哀)天皇の第四子である。母はオキナガタラシ(気長足)姫と云った。天皇は、皇后が新羅を討った年の仲哀9年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれた。」と記述される。
応神天皇の誕生までの経緯
「仲哀天皇の2年春正月11日に、仲哀天皇はオキナガタラシ(気長足)姫を皇后に立てられた。仲哀天皇の8年秋9月5日になると、母(皇后)が初めて胎まれた。神の言を信じなかった天皇は、熊襲を討ったが勝つことができず戻ってこられた。仲哀天皇9年春2月5日に天皇は急に病気になり、翌(6)日に筑紫の橿日の宮で崩じられた。この年の10、11月に母の皇后は新羅の役に出かけ、新羅を降伏させて帰国された。この間、皇后は胎まれており、仲哀天皇9年12月14日にホムタ(応神)天皇を筑紫で生まれた」と、日本書紀は記述している。
(参考)
日数計算の参考資料
仲哀天皇の頃は旧暦であり、仲哀天皇9年の大小の月、閏年が不明である。そのため、日数計算には日本書紀暦日原典の仲哀、神功紀の暦日を参考にして計算した。
胎み~生まれまでの日数
具体的に、仲哀8年秋9月5日(妊娠)~仲哀9年12月14日(出産)までの各月の日数を引用し、次のように妊み日数を計算した。その結果、妊み日数453日になる。
計算表
仲哀天皇年
年 月 日 日数 年 月 日 日数 経過日数
8年 9月5日~30日 26日 9年 5月1日~30日 29日
8年 10月1日~30日 29日 9年 6月1日~30日 30日
8年 11月1日~30日 30日 9年 7月1日~30日 29日
8年 12月1日~30日 29日 9年 8月1日~30日 30日
9年 1月1日~30日 30日 9年 9月1日~30日 29日
9年 2月1日~30日 29日 9年 10月1日~30日 30日
9年 3月1日~30日 30日 9年 11月1日~30日 29日
9年 4月1日~30日 30日 9年 12月1日~14日 14日
計453日
妊み日数453日の意味
一般的な妊み月は、10月10日と云われる。ひと月を28日か、29日かと見るには、個人差がある。そのため、28日で計算すると、10月10日の経過日数は262日。29日では271日となる。平均で266日となる。
そこで、経過日数の453日を一般の妊み日数266日の平均月日数28.5日で割り算すると、15ヶ月と25日になる。通常の妊み日数は10月10日であるところから、応神天皇が生まれた時の皇后の妊み日数は、異常な妊み日数であったことになる。このため、仲哀天皇の実子でなく、トミ(臣)の竹内宿禰の子では、との異説が飛び交う元になる。
(蛇足)
超過する日数は186日になる。また、最後の1週間でお腹の子は茶碗一杯分の体重が増加すると云われる。そのため、オーバーの186日での体重増加は、186日×一食約110gとして、20.460kgの増加となる。
「仲哀天皇がなくなる直前に妊んだ」との仮定
仲哀天皇9年春2月5日(病気)前に、「皇后が妊娠された」と仮定すると、生まれるまでの経過日数は、304日と計算され、月の平均日数28.5日で割り算すると、10ヶ月と18日に計算され、38日遅い出産となる。まあ、古代のことであり、こんなこともあるかと考えると仲哀天皇の実子となる。だが、仲哀天皇8年秋9月5日の記述に、「母(皇后)が初めて胎まれた。」との記述があり、この仮定も妥当性を欠く。
世間に流布する応神天皇の出生説
応神天皇の父親を特定する場合でも、妊み日数の453日が物言うことになる。だが、今までの453日の解釈は、「皇后が妊まれたが、新羅への遠征時に産み月が来ないようにと、妊まれたお腹に大きい石を巻かれ、帰国されてから応神天皇を生まれた。」と流布されている。寧ろ、お腹に石を巻くとなると、お腹を冷やすことになり流産し易いと思われる。
皇后の妊み日数と自然科学
前述の皇后の妊み日数453日を、冷静に判断すると、自然科学の尺度で表されてないと断定される。(吉田説)
況して、当事者の神功皇后の神上がり100歳、応神天皇が110歳と日本書紀は記述しており、自然科学の世界では有り得ない歳であった。この歳の事実より神功皇后、応神天皇の頃の暦は、2倍暦であったことが推定され、それに伴って、皇后の妊み日数も2倍に計算され、453日になっていたと推定される。そこで、妊み日数453日を2倍暦⇒1倍暦に変換し表示すると、7ヶ月と26日になり、早産でもあった。
神功皇后、応神天皇の御世と2倍暦
これまで、「ホツマツタヱのアスス暦、日本書紀暦より、古代天皇の16代(除く神功皇后)以前の天皇までは、2倍暦であった」、そして、第17代天皇より2倍暦が終焉していたことを発表して来た。1そのため、神功皇后、応神天皇は、14代の皇后、15代目の天皇のため、2倍暦の範囲内であった。
天皇の精子・血統から判断される正統性
応神天皇は仲哀天皇の子でない
応神天皇が453日後に生まれたとの日本書紀の記述を現在の生理学で見ると、精子・血統が繋がらず、仲哀天皇の子でないことになる。
応神天皇が、仲哀天皇の血統である条件
子供は生理学上10月10日前後で生まれる。そのため、応神天皇が453日後に生まれたとの記述を自然科学の世界、生理学上に変換すると、453日後⇒266日(7ヶ月と26日)に計算される。この説が支持されると仲哀天皇の精子・血統は繋がり、応神天皇は正真正銘の仲哀天皇の実子であったことになる。
だが、この意見を支持するとなると、古代の遡り年表が大きく変更されるため、体制派からは無視される傾向になる。
更に、無視を続けるとデメリットが発生する。それは、「応神天皇が453日後に生まれた」ことを支持したことになり、仲哀天皇と応神天皇の血統が断絶していたことを意味する。また、その後の天皇は神武天皇の血統でないことになる。
将来の国民の選択として、二者択一になるが、(1)神話が含まれる不安定な日本史年表をとるか、(2)天皇の血統、正統性をとるか。いずれは、国民主権の元、世界の潮流より見た歴史性の議論を始めることになるだろう。
(おわり)
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