三島大社のツミハと富士山の裾野に存在したハラの宮
祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見
平成27年6月2日年代更新
平成23年11月12日作成
ホツマツタヱ講座 ツミハ(積羽八重事代主神)が訪ねたハラの宮
~AI手法によりハラの宮の解析~
ホツマツタヱ研究家 吉田六雄
三嶋大社に祭られている積羽八重事代主神は、大物主の副として、西東の要の地である三島、ハラ、伊予を、大亀(舟)にて往来されていた。そしてその三島の所在地は、静岡県三島市の三嶋大社になる。伊予(注一)は今治市大三島に鎮座する大山祗神社になる。二つの神社は大山祗を祭る神社として、古代より現在の地に鎮座している。一方「ハラ」であるが、現在、ハラを名乗る神社も宮も存在しない。だが、ホツマツタヱには、「ハラ」「ハラミ」「ハラミヤ」と記述しており、富士山をハラミヤマと呼んでいたことから推定すると、富士山の周辺にあったと推定できるようだ。今回、積羽八重事代主神が、三島、ハラ、伊予に出かけていた記述に刺激されて、ツミハが訪ねたと云う「ハラ」の所在地について、ホツマツタヱより捜して見た。
そして、その捜査期間は約一ヶ月間にもなったが、残念ながら「ハラ」の所在地は不明であった。だが、ツミハが訪ねた「ハラ」は、ニニキネ、ウツギネ、ミシマミゾクイ等が治めた「ハラの宮」であり、この時は「オシクモ」が治めていたようだ。主観であるが、ハラミヤマの周辺で「ツミハ」を祭る神社があるとすれば、その地が「ツミハ」が訪れた「ハラ」の地と思いたい。なぜなら、三嶋大社には、既に、ツミハが祭られていることからも推定できるようだ。
(注一)ツミハが訪れた伊予
愛媛県今治市大三島に鎮座する大山祗神社、または、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する琴平宮(通称金比羅宮)のことか。琴平宮については、本文の最後の頁に詳しく(注六、七、八)に掲載した。
ハラの宮
ツミハが訪ねた「ハラ」について、「ハラ」の所在地を捜すと述べたが、ホツマツタヱには「ハラ」の言葉が数多くあり、「ハラ」の言葉の全貌が掴めない。そこで、ホツマツタヱの1アヤ(綾)~40アヤ(綾)までを、丹念に調べ上げることにした。調べて行くと「ハラ」関連の言葉が、次のように20個も発見された。なお、「ハラ」の言葉ではないが、ホツマツタヱの40アヤ(綾)3項に、「サカオリの 宮は昔の ハラの宮」の記述があるため、「サカオリ(宮)」も「ハラ」関連の言葉として調査項目に組み入れた。
【抽出されたハラ関連・言葉】
①ハラミヤマ、②アマノハラミ、③ハラミ、④オオヒヤマ、⑤ハラミノミヤ、⑥トシタ、⑦アマノハラ、⑧タカマノハラ、⑨サカオリノミヤ、⑩サカオリ、⑪サカオリミヤ、⑫ハラミオキミ、⑬ハラアサマミヤ、⑭ハラミヤ、⑮ハラ、⑯ハラミサカオリ、⑰ハラミノミコ、⑱ハラヤマ、⑲ハラミノヤマ、⑳スワサカオリ
ハラ、ハラ関連語とホツマ文(フミ)
それにしても、20個の「ハラ」関連の言葉から見て、如何したら「ツミハ」が訪れた「ハラ」を見つけることができるか。考えただけでも、「ドキドキ」「ハラハラ」の試行錯誤になりそうである。そこで「ツミハ」が訪れた「ハラ」を見つける方法として、まず、ホツマツタヱに記述順に、「ハラ」関連の言葉を並べて見る。その後、グループ毎に層別(注二)して見る。その結果、わかったことは、「ハラ」関連の言葉をA~Dの4つのグループに分けることが可能であるということだった。その仕分けの基準は、「ハラ」関連語に含まれる「新たなハラ関連語」の記述が、ある文(アヤ)から始まっていたことである。その「新たなハラ関連語」の始まりは、A:3・4アヤ(綾)、B:16アヤ(綾)、C:24アヤ(綾)、D:32アヤ(綾)であった。そして、ツミハが訪ねた「ハラ」の言葉は、紀元前257年頃から始まる、C(24アヤ(綾))グループに属していた。
新たなハラ関連語の仕分け、層別結果
A:三、四文から記述され始めたグループ(年代:紀元前330年頃)
①ハラミヤマ、②アマノハラミ、③ハラミ、④オオヒヤマ、⑤ハラミノミヤ、⑥トシタ、⑦アマノハラ
B:十六文に記述され始めたグループ(年代:紀元前290年頃)
⑧タカマノハラ
C:二十四文から記述され始めたグループ(年代:紀元前257年頃)
⑨サカオリノミヤ、⑩サカオリ、⑪サカオリミヤ、⑫ハラミオキミ、⑬ハラ
アサマミヤ、⑭ハラミヤ、⑮ハラ、⑯ハラミサカオリ、⑰ハラミノミコ
D:三十二文から記述され始めたグループ(年代:紀元72年頃)
⑱ハラヤマ、⑲ハラミノヤマ、⑳スワサカオリ
(注二)層別
統計調査などの際に、対象となる母集団を、いくつかの層に分けること。
新たなハラ関連語のホツマ解説
A:三、四文から記述され始めた新たな「ハラ」関連語
①ハラミヤマ
ハラミヤマ(富士山)のこと。
②アマノハラミ
ハラミヤマ、または富士山の裾野と思える。
③ハラミ
ハラミヤマ、または富士山の裾野と思える。
④オオヒヤマ
「故に、ハラミオ オオヒヤマ」のこと。
⑤ハラミノミヤ
ハラにあった宮と読める。
⑥トシタ
ミカサフミにて、「ヲヲヒヤマサノ トシタミヤ」がある。
⑦アマノハラ(注三)
ハラミヤマ、アマノハラ周辺にあったイサナギの居城(皇居)と思える。
(注三)ワカヒトの生れ
4文には(天の)ハラミヤマ、ハラ宮が、記述されており、この文の特出は、ワカヒトの生れであろう。そしてワカヒトが生れたことを立証するとしたら、「生れた年」、「生れた時の名前」そして「生れた場所」が記述されていることが必須であろう。そして記述を見ると、ワカヒトが生れの記述は、「生れ年・二十一鈴百二十五枝年キシヱ初日」があり、生れた時の「名前・ウヒルギ」があり、また生れた「場所(地名)・アマノハラ」があった。
四文、二十四、二十五
アレませる アマテル神ぞ
二十一鈴 百二十五枝
年キシヱ 初日ほのほの
四文、三十五、三十六
泣く皇子の 声聞きとれは
アナ嬉しい これより諸が
名お請いて 伯母より問えは
ウヒルギと 自ら答とふ
皇子の声
四文、三十九、四十
皇子養さんと
両神の 御心尽くす
アマノハラ 十六穂居ますも
一日とぞ
B:16アヤ(綾)に記述され始めた新たな「ハラ」関連語
⑧タカマノハラ
漢字では高天原と書き、天君が治めた場所と思える。
C:24アヤ(綾)から記述され始めた新たな「ハラ」関連語
⑨⑩⑪サカオリノミヤ、サカオリ、サカオリミヤ、サカオリ、ハラミサカオリのことか。
⑫ハラミオキミ
ハラミを治めた君と皇子のこと。
⑬ハラアサマミヤ(注四)
「君サカオリの造る名も ハラ浅間宮」のこと。
⑭ハラミヤ
ハラにあった宮と読める。
⑮ハラ
ハラミヤマ、または富士山の裾野と思える。
⑯ハラミサカオリ
「イミナ:ワカヒト 産ぶ宮は ハラミサカオリ」のこと。
⑰ハラミノミコ
ハラミを治めた君と皇子のこと。
(注四)ハラアサマミヤ
Aグループには、「ハラ宮」のことが多く記述されていたが、24アヤ(綾)からは、サカオリ(宮)、ハラミオキミ、ハラアサマミヤ、ハラミノミコが出現し、「君サカオリの造る名も ハラ浅間宮」と、新たにハラに浅間宮が作られたことから、君の世代交代がなされていることがわかる。
D:32文から記述され始めたグループ
⑱⑲ハラヤマ、ハラミノヤマ
ハラミヤマ(富士山)である。
⑳スワサカオリ(注五)
「スワハフリ」、「スワサカオリ」、「サカオリノミヤ」がある。
(注五)スワサカオリ
このグループは、ホツマツタヱの文章でも一番に難しい文(アヤ)と思っている。「スワサカオリ」が「スワ」と「サカオリ」に分かれるのか、それとも「スワ+サカオリ」なのか明確でないことが理由である。また「スワハフリ」の居所が「スワサカオリ」であるのかということも問題となる。
ツミハの正式な呼び名は、積羽八重事代主神であり、現在では三嶋大社に大山祇と祭られている神である。父はニニキネ(イミナ:キヨヒト)の天君を守る「右臣」であり、三代物主の「子守(コモリ)、イミナ:ミホヒコ」である。その父のミホヒコは、36人の子宝に恵まれて子守神の名を賜っている。長男は四代物主の職を引き継いだ「カンタチ」であり、ツミハは次男になる。ツミハは、ニニキネを守る役職の物主、副物主の次の事代主の要職を頂いており、通常はコトシロ、コトシロヌシと呼ばれている。また西東の要の地である三島、ハラ、伊予(阿波の息吹の宮)を、大亀(舟)で警護されるなど飛鳥の宮の大物主を補佐する事代主の要職にあり、このことからも三嶋大社に、ミゾクイと祭られているご由緒が明白になるようだ。
ハラの宮の検証
ホツマツタヱを読んで行くと、最初のハラの宮の記述は、3アヤ(綾)15になる。「ハラミノミヤにて、ウホヒルギが生れた(訳文)」と記述しており、ハラの宮は、ワカヒト(イミナ:ウホヒルギ)の産宮である。次の「ハラミノミヤ」の出現は、25アヤ(綾)5に「ムメヒトは ハラに留まり 政事」、25アヤ(綾)15になり、「ウツギネ(ムメヒトの末弟)は、ハラの宮に行き(訳文)」と記述していた。この二つの「ハラの宮」の間には、ワカヒト、オシヒト、キヨヒト、ムメヒト(ウツギネ)と、天君が交代している。その間の年は、約85年も経過していた。この期間の差を考えると、この二つの「ハラの宮」は、同じ「ハラの宮」であろうかとの疑問が生じる。そのことを考えながら、ホツマツタヱを読んで行くと、「ウホヒルギ」が生れた「ハラの宮」とは、別の「宮」のようである。名前が同じのため、同じ「ハラの宮」と思うが、違うようである。その根拠は、ホツマツタヱの24アヤ(綾)90に、キヨヒト(ニニキネ)が、アマテル神より賜った「ハラの大君」に由来する「宮の名」であるようだ。
二十四文、九十
大御神 ハラの大君と
名お賜ふ
また、6アヤ(綾)24にて、「遷さんと 思兼して 作らしむ なりて伊雑(宮)に 宮遷し」との記述があり、24アヤ(綾)当時では、既に「ウホヒルギのハラの宮」は、伊勢の伊雑に移っていたことになる。
だが、移動したはずの「ハラの宮」は、40アヤ(綾)3にて、「 サカオリの 宮は昔の ハラの宮」の記述に驚かされた。この「ハラの宮」の名前であるが、「ハラの宮」→「サカオリの宮」に名前が変わった後に、唯一、記述された「ハラの宮」の言葉であった。次の「サカオリの宮」については、Ⅳ項にて、検証して行くことになった。
40アヤ(綾)3に、「サカオリの 宮は昔の ハラの宮」の記述であると述べたが、では「ハラ宮からサカオリの宮には、いつ頃から変更されたのであろうか。」また、ホツマツタヱには、40アヤ(綾)3以外の早い時期に、この変更の記述があっただろうか。このように考えると、ホツマ研究者であれば、是非、「サカオリの宮」に名前が変更された時期を知りたいものだ。次の検証は、そのサカオリの宮になる。
最初のサカオリの検証
「サカオリの宮」の最初の記述は、ニニキネの「コヱ国ハラミ山の文」の24アヤ(綾)43、44になる。「ニニキネは、田の灌漑用の湖も、20年経つと湖底に砂等が溜まるため、浚えた方がいい」と、民に農業指導した後、「サカオリの 宮に入った(訳文)」との記述であった。この「ハラミの宮」の記述から「サカオリの宮」に変更に至るまでの期間は、紀元前約330年から約73年後のことであった。そして、このサカオリの宮のホツマツタヱへの「初、記述」になった時期は、八代目のオオヤマスミの御世であり、紀元前約257年頃であった。
二十四文、四十三、四十四
二十年に 浚えなせとて
サカオリの 宮に入ります
次のサカオリの検証
次の検証は、24アヤ(綾)69、70の記述である。それにしても「サカオリの宮」が、何処にあったのだろうか。次の文は、個々の研究者の読み方により、サカオリの宮の場所が違って来るようだ。
二十四文、六十九、七十
①興津浜 君喜びて
輿並べ 行く②大宮は
③ヤマスミの 道迎えして
④ミトコロに ⑤スワが御饗は
⑥須走で ⑦サカオリ宮に
入りまして
(校註)
①「興津浜」は、現在の静岡市清水区の興津浜になる。この興津浜は今でも、「清見潟・キヨミ潟」と呼ばれて、近くの地名も「清見」である。また清水は、キヨミの読みを、訓読みである。
②「大宮」は、サカオリ宮を指すと思われる。後に「ムメオオミヤ」の名も見える。
③「ヤマスミ」は、三嶋大社に祭られる八代目のオオヤマスミになる。
「ミトコロ」は、場所を指すと思④うが不明。なお、山中湖の近くに「三所」の旧地名が見える。
⑤「スワ」は、十文、三十二に、スワの語源がある。その記述は、「シナのウミ スワと云う時」である。また十五文、三十四に、「スワの神 信濃は寒く 鳥シシに 寒さ凌ぐと」の記述がある。この文でも、長野県の諏訪と読める。更に、三十二文、十三に「スワハフリ ハラ山の絵お 奉る」との記述がある。
⑥「須走で」。この解釈も「場所」と見るか、「動作」と見るからによって違って来る。本原稿は、江戸時代に写本された安總本を底本にしている。その安聡本では、「須走で」である。訳文は、「スワのハフリは、須走宮で、御饗(みあえ)を行った」との訳が自然であろう。それに対し、明治時代に写本された長弘本、長武本は「須走て」になっており、「すばやっこい」の意味に変わるようだ。その意味を入れて訳すると、「スワが御饗(みあえ)は すばやっこい」ではおかしいだろう。
⑦「サカオリ宮」。この文ではハラミに存在したサカオリか、スワに存在するサカオリか、または、スワハフリ氏が治めたサカオリなのか。
二十四文、百十一~百十三の検証
サカオリの検証の3番目は、24アヤ(綾)、111~113の記述である。この文では、①「香久の木植え マウラ神 世々橘の 君となる」の記述と、②「君サカオリの作る名も ハラ浅間宮」の記述である。ここで注目すべきは、「世々橘の君」と「君サカオリ」の「両君」が、同一人物であるか、否かである。「世々橘の君」の「君」は、文脈より、相模の小野のことで、8代オオヤマスミの五男の「マウラ」のことで問題ないだろう。だが、「君サカオリの作る名も ハラ浅間宮」の「君」は、「マウラ」ではないようだ。その理由であるが「ハラ浅間宮」は、浅間宮の名より富士山の裾野にある、現「駿河国一の宮、富士山本宮浅間大社」で、間違いないだろう。そうすると、ここで「君サカオリ」は、ニニキネ君であろうか。
二十四文、百十一~百十三
飛鳥川 オオヤマスミが
これ移し 相模の小野に
新田なし ①香久の木植え
マウラ神 世々橘の
君となる ②君サカオリの
作る名も ハラ浅間宮
装ひは 黄金飾り
三十二文、十九、二十の検証
この文章は第七代孝霊天皇が、ハラミ山を御幸された時の内容である。3月の中旬に、奈良の黒田を出発されて、香具山、賀茂、滋賀の多賀の宮、長野県の諏訪に立ち寄られて、サカオリの宮では、タケヒテルが御饗して待たれていた。恐らくこの夜は、楽しい宴が深夜まであったのだろうか。次の日、富士山の外輪山を三坂峠まで登られて、その後は下り坂道であり、一気に須走まで行かれた。そしてハラミ山の裾野(市)を巡られて、昔「ムメヒト君」が治めた「梅大宮」に入られて寛がれた。ここの「スワ」であるが、地名だろうか。また「スワ氏」を示す、氏名であろう。ただ、前述の24アヤ(綾)69、70を見ると、「スワが御饗は」と云っており、スワ氏と見た方がよいと思う。そうすると、前述の「長野県の諏訪に立ち寄られてサカオリの宮では、タケヒテルが御饗して、待たれていた。」の文章は、「長野県の諏訪に・・(略)・・タケヒテルが御饗して待たれていた。」の文は、「昔、スワ氏が治められたサカオリの宮では、後に主人となったタケヒテルが御饗の準備をして待たれていた。となる。
三十二文、十九、二十
弥生中 ハラミ山えと
御幸なる その道なりて
クロダより カグヤマ、カモヤ
タガの宮 スワサカオリの
タケヒテル 御饗して待つ
山登り 下る須走り
裾巡り 梅大宮に
入り居ます
裾巡り (後述談)
私は「裾巡り」の言葉を、ホツマツタヱの記述の通り、ハラミ山の全周の2合~5合目を「裾」とイメージし訳文して来た。ある日、富士山の周辺を電子地図見ていた。すると「裾」とは、今の「裾野市?」ではと思い留めた。「裾野市」は、須走と梅大宮の中間に位置する。このことで、ここの訳は「一気に須走まで行かれた。そしてハラミ山の裾野(市)を巡られて」と訳ができた。
三十九文、一、二の検証
39アヤ(綾)1、2の記述は、ヤマトタケのホツマ東国の平定である。第12代景行天皇の40年7月、東国のホツマ国が騒がしいため、「サカオリ」を治めていた「タケヒテル」は、奈良の日代宮に上洛されて平定をお願いされた。天皇は驚かれて、臣たちに向かって「ホツマ国を掠め取る奴がいる」と申された。この文の「サカオリ」は、ハラミにあったサカオリか、または、スワにあったサカオリか、ホツマツタヱには記述されてないが、「タケヒ」は、「タケヒテル」のことであり、32アヤ(綾)19、20には、「スワサカオリ」と記述しているため、ハラミサカオリでないことがわかる。
三十九文、一、二
マキムキの ヒシロの四十穂
セミナ月 ホヅマ騒わげば
サカオリの タケヒ登りて
御狩り乞う 君、諸集め
宣わく ホツマの夷
掠め取ると
四十文、三の検証
サカオリの最後の記述になるが、「サカオリの 宮は昔の ハラの宮」と、サカオリの宮のルーツが、ハラの宮であると記述されている。だが、この文章が記述されているため、「サカオリの宮」、「ハラの宮」、「ハラミの宮」、「ハラミサカオリ」に対し「スワサカオリ」のみが、所在地が違う宮と思われている。だが、現在に残る「酒折宮」は、「スワサカオリ」の地なのか、山梨県甲府市酒折に鎮座している。
四十文、三
君宣わく
サカオリの 宮は昔の
ハラの宮 なお永らえり
我が願ひ 移して姫と
楽しまん
ハラの宮、サカオリの宮について、調査して来たが、ツミハが訪ねた「ハラ」について、決定打が見つからないようである。そこで、前述したハラの宮、サカオリの宮について、アヤ(綾)と登場人物を表「ハラミの宮とサカヤリの宮」にして見た。更に、ツミハが訪ねた「ハラ」の文(アヤ)を表に追加して見た。
ここからは、編集者の主観であるが、表より見ると、ツミハが訪ねて「ハラ」は、ニニキネが作った「ハラの宮」であり、「ウツギネ」が治めた「ハラの宮」ではなかろうかと思う。その後、「ミシマミゾクイ」と「物部」が治めていた。そして「ツミハ」が「ハラの宮」を訪れた時には、「オシクモ」が治めいたようだ。この時に、「ツミハ」が「ハラの宮」を訪ねた可能性が高いようだ。その「オシクモ」は、後に「多賀の大君」の左臣となり天君に仕えた。 (紀元前224年頃)
二十七文、三
ミシマミゾクイ
ハラ宮に 百枝県の
物部と 豊かに治む
二十七文、九、十
これの先 姉タマネ姫
ハラ大君 妃にして
ミゾクイが イクタマは典待
イクヨリは 内待となれど
タマネ姫 クニテル宮と
タケテルと
(紀元前153年頃)
二十七文、六十六~八
これの先 ハラのオシクモ
召し上す 弟ヒタチは
若き故 阿波の事代
ハエる宮 同胞なれば
西東 通ひ勤めて
要占む 名もツミハヤエ
事代が 三島に至り
ハラに行き また三島より
伊予に行く 遂に因みて
ミゾクイの タマクシ姫も
孕む故
現在では「ハラの宮」の足跡はないが、もし、あるすれば、ハラミヤマ(富士山)の周辺に鎮座する神社で、かつ「積羽重事代主神」を祭っている神社が、ツミハが訪ねた「ハラ」でなかろうかと思う。もし、ホツマ研究者で発見された場合は、ご一報をお願いしたい。
(注六)伊予の比定
本文では、ツミハが訪れた「伊予」を「今治市大三島に鎮座する大山祗神社になる。」と記載したが、その元の資料は、祭神が「オオカマスミ」であることから「大山祗神社」と「三嶋大社」とを比定していた。
(注七)ツミハは、香川県の象頭山と三島を行き来した
私は原稿が出来上がるとホツマ研究の有志に、勝手に原稿を送付してご教授して戴いている。本原稿も例外ではない。そんな中、三嶋大社の祭神について「神社名鑑(神社本庁)」を見ていたところ、神社名鑑に記載の祭神の順位が、「事代主命」「大山祗命」の順になっていたのに気付いた。三嶋大社で戴いて「ご由緒」では、「大山祗」「積羽八重事代主」の順で、順序が違うなと思案していた。その思案中に、メールを拝見したところ、例会の川中(仮名)さんからのメールでした。その内容は、本原稿の「伊予」についてであった。「ツミハさんは、香川県の象頭山と三島を行き来したと思われます。」「オオモノヌシのミッションは、キミを守ることと、それ以上に国家鎮護だと考えます。」との内容でした。川中(仮名)さんのメールを読んだ瞬間、驚き「ワッ」と声を出すと、隣の家内が覗き込んで来た。その驚きは、「三嶋大社の祭神が、ヤマスミより、ツミハが先」であることを神社本庁の神社名鑑が、すでに認めていたことへ驚きである。たまたま「ツミハ」を考えていた時に、川中(仮名)さんより「ツミハ」の内容のメールを戴いたため、「以心伝心」と申しますか、四国での「ツミハ」の業績を教えてくれていた。この川中(仮名)さんのメールの内容を読者に、原文のまま伝えたく、次の通り記載しましたので、是非、読んで下さい。
(注八)伊予、ツミハ、琴平宮に関する川中(仮名)さんメール
川中(仮名)氏:僭越ながら私の観点では2点ほど、お伝えしたいことがあります。
まず一点目、ツミハさんは、香川県の象頭山と三島を行き来したと思われます。
二点目は、オオモノヌシのミッションは、キミを守ることと、それ以上に国家鎮護だと考えます。一点目を補足します。象頭山にはご存知琴平宮(通称金比羅さん)があります。元々、この場所はムツフナタマが鎮座しており、その神々を祭祀したのがツミハさんだったのです。なので、琴平宮の現ご祭神も大物主命です。この大物主は、ツミハさんのことなのです。因みに、ツミハさんには、ワニさんの下に優秀な嫡男がいました。ヰミナは、ナカヒコさんです。このナカヒコさんは、ハナキネさんの血が濃く、心優しかったので、土地の人々に非常に慕われていました。なので、土地に名前が残っており、仲多度郡がその名残です。これは、約一世紀前に那珂郡と多度郡が合併されて命名された地名なのです。
川中(仮名)氏:(また)那珂郡は、元々讃岐国の土地名ですが、伊予と讃岐の県境です。明治時代には、愛媛県に属していたこともあったようです。なので、大きな括りで那珂郡や象頭山を含めて伊予と言っても全く問題ないと思います。ただ、正確には現在の香川県であるということをご留意ください。
川中(仮名)氏:(更に)ツミハ一家の痕跡は、伊予よりもむしろ讃岐に豊富です。また、ツミハ一家がフナタマを祭祀していたからこそ、船に縁があり、ワニさんの名前は船の名前です。そして、ワニさんはムツフナタマに守られながら、祝福されながら、船上で誕生しています。丁度、熊野沖で産まれたように感じられます。以上、ご参考になれば幸甚でございます。
ハラの宮 (後述談)
ホツマ研究者の中に、故・鏑邦男氏が見える。鏑さんは自身の本「ほつまつたゑ(上・下巻)」の68頁、校註九において、「大山を富士山とする説もあり、・・(中略)・・訳注者は、相模の大山と考える。」としている。するとハラの宮は、大山の山麓にあったことになる。鏑さんの翻意は不明であるが、脱稿した後、昔「大山阿夫利神社」の参拝を思い出していた。ご祭神は、「大山祗大神、高おかみ神、大雷神」の三神。大雷神(おおいかずちかみ)は、「イカヅチ神」の名より、ニニキネと推定され、「ハラの大君」として大山に縁がある。八代目オオヤマスミは、ハラ、伊豆を治め、鏑さんが相模の大山をハラミ山と考えたことも頷けるようだ。
(編集後記)
最後になったが、今回の【ツミハが訪ねた「ハラ」】の原稿を作成するに当って、準備した資料は、次の「ホツマツタヱ文順、ハラ関連語表」であった。読書のご参考資料になれば、幸甚である。
(追伸)
本原稿は、検証ホツマツタエ58号用に平成23年11月12日作成したものです。この度、2015年3月11日付けの最新研究に基づき、スス暦、アスス暦を太陽暦・1倍暦の年代に置き換えさせて戴きました。あと、若干名の名称も、同時に変更してあります。ご了解願います。
(おわり)
ご質問、ご意見などを受け付けております。ご気軽にどうそ゛!!
ヤフーメールアドレス : woshite@ymail.ne.jp
最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。
あらすじ
Ⅰ、ハラに関するホツマの記述
Ⅱ、ツミハの人物像
Ⅲ、ハラの宮
Ⅳ、サカオリの宮
Ⅴ、ツミハが訪ねた「ハラ」の考察