ホツマツタヱ 神話時代の暦 スス暦の解説

ホツマツタヱ 神話時代の暦 スス暦の解説

 ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄

概要   

 スス暦(和暦)の名称は、マサカキの苗をスス苗と呼ぶことに由来する。このスス暦の暦は、ホツマツタヱに記載される二つの暦の内の一つの暦になる。スス暦の初年は、神代の四代のウビチニ、スビチニの頃になり、暦の終焉年はタケヒト(神武天皇)の即位前のスス暦の50鈴、または、50鈴1000枝20穂の年になる。

 概ね、スス暦の経過年数は、神武天皇の初年以前に2,940,020~3,000,020穂(年)も存在した。この史実に類するスス暦の穂の記述は、多くの国書である1288年の倭姫命世紀、1343年編纂の神皇正統記、1426年編纂の本朝皇胤昭運録にも掲載されるが、シナ(支那)より暦が伝来したため注目されなくなっていた。だが、忘れていけないのは、紀年暦で770年~780年、太陽暦換算で385年~390年も存在していたことである。

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日本の暦の常識とスス暦との関係

 日本には「暦がない」とするのが、一般常識である。だが、江戸時代、昭和の時代に再発見されたホツマツタヱには、神代編にスス暦の暦が記述され、また、タケヒト(神武天皇)の御世以降には、アスス暦と云う暦が記載されていた。

スス暦の暦日

(1)ホツマ・ヱト

 ヱトは、キツオサネの5音、アミヤシナウの6音、ヱトの2音の組み合わせにより、ヱトの60穂が成立つ。シナ(支那)渡来の干支と同じ60である。

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(2)年、穂の記述の仕方

 年、穂は、同じ意味であるが、ホツマツタヱの一行の文字数により制限され、上行の五調、または、下行の七調の文字数の空き文字数が、二文字の場合は「年」、一文字の場合は「穂」を当てていた。空き文字数がない場合は、省略される。

(3)スス暦の鈴枝穂の数え起点

・枝、穂の数え起点

 28アヤ5には、「三咫の天枝 なれば二ヱト キアヱより 枝と穂と数ゑ」と記述しており、この文を詳細に述べると、『穂の数は順位番号1~60までの60になり、穂の数えが60で一巡し、次のヱトの数えが二順目のキアヱ(順位番号1)になると1枝に位上がする。そして、この数え方で「枝と穂とを数ゑて行く』と記述している。そのため、最初は1穂であり、1枝1穂が最初でないと記述している。

・鈴の数え起点

 鈴の経過年の数え起点は、近代と同じ「翌日起算」であった。このことを証明するように、ホツマの4アヤ6、7には、「真榊の 六万に尽きて 植え継ぎは 二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に 鑑みれど」と記述している。この「百二十万七千 五百二十」を鈴枝穂に換算し証明して見ると20鈴125枝20穂になる。だが、4アヤ6、7の文はあくまで、「21の鈴の 年すでに」と記述しているところから、スス暦の起算鈴の起点は、近代の考えの0鈴でなく、+1鈴の考えであったことになる。この方法は、経過日数を計算する方法の「翌日起算の考え方」に類似していた。そのため、鈴枝穂の最初の数え起点は、1鈴1穂になる。

(4)年、穂の意味

 スス暦の年・年の意味は、近代の年と違い、基本的にはホツマツタヱ・ヱトの60分の1のことを云う。

 このことは、近代の天皇と皇太子の年の差(a項)に対しスス暦当時のアマテル神と皇子オシヒトの年の差(b項)に現れており、二つを比較すると、近代の差が約30年に対しスス暦当時の差が240,627年となり、同じ年、穂でも大きく単位が違うことがわかる。

比較

  a、近代の親子の年の差は、約30年と云われる。

  b、スス暦当時の神と皇子の年の差は、240,627年になる。

比較の根拠

 アマテル神の生まれ時

   4- 24  二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日ほのぼの 

 オシヒトの世の日嗣時

  19B- 1  二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のはつひ(初日)に

 但し、アスス暦では、近代の年の2倍の年の単位として使用されていた。

スス暦の暦日の抜粋

 近代の暦は、「干支が動くと日が変わる」と云われる。そして、近代の暦の最小単位は、一日である。スス暦当時も同じだったか否かを調査するため、ホツマツタヱの全文よりスス暦の暦日の記述を抜粋した。

 アヤ番号-行名   スス暦の年代(鈴、枝、穂、月、日、月相など) 

 4-  4  五百継ぎの マサカキも植えゑ  

 4-  6  マサカキの 六万(穂、年)に尽きて                     

 4-  7  二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に

 4- 18  三日の後

 4- 23  十月に生まず 年月お

 4- 24  心痛めて 九十六月    

28-  8  植ゑ継ぎの 二十一の鈴の 百枝後

 4- 24  二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ はつひ(初日)ほのぼの 

28- 11  時二十一鈴 百二十五枝 三十一(穂)キシヱの 初日の出

 4- 31  やや初秋の 望の日に   

 4- 39  天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ

 6-  1  二十一鈴 百二十六枝 年サナト 弥生朔日 日の大和 新宮造り

 6- 10  これを暦の うりふ月

 6- 14  八万年経て 二十二鈴 五百五枝初に

 6- 22  ネナト弥生の 望よりぞ う(卯)月の望に 

 7-  9  天の巡り 三百六十たび(度)お  瓊矛法

 7- 57  天の巡りの 日蝕お 見るマサカニの 中凝り 生むソサノオは

 7- 58  女はつきしほ(月経)の 後三日に 清く麻妃      

 8-  1  民も豊かに 二十三万 二千三百八十の 二年お

 8-  2  今年二十四の 拆鈴を 二十五の鈴に 植ゑ替えて

 9- 18  時の姿や 八年振り

 9- 19  シムの幹 三千日はさまで    

10-  1  二十五鈴 九十三枝年の サアヱ夏

10-  6  へつらい媚びて 三年まで  

10- 16  八穂たまゆらと

10- 45  茅の輪に糺す みな(六)月や 

11-  1  二十五鈴 百枝十一穂に

11-  6  君はこぞ(去年)

11- 17  千々の春秋  

13-  5  初三日に 寒川浴びる

13- 28  年にきなか(寸半)の 六万穂木

13- 33  二代ムスピの 百万ほぎ(穂木・祝ぎ)

13- 33  今タマキネも 八万年 

14- 32  身ひたしに ひとひ(一日)も安き

15- 22  ハ(8)月はつひ(初日)に なる初穂  豊国主ら 奉る

15- 33  ふ(二)月中 清白食えよ

15- 35  これもみか(三日) 清菜に消せよ 水鳥お 食えば二十一日    

15- 40   われ見る鈴木 千枝四度 わが身も今年 二十四万 

16-  1  二十五鈴 百枝二十八穂 年サミト

16- 90  もしも十二子を 生む母は 月の位ぞ

18- 15  マサカキお 植ゑて数うる 六十年の すわ枝も六百に

18- 15  十枝終ゑ 六万年千枝に 尽き枯るる 

18- 15  植ゑ継ぎ五百の 後の初 五百継ぎ天の マサカキお

18- 16  マサカキも二十の 余る頃  

19B- 1  二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のはつひ(初日)に

19B-22  は(八)月望 さつき(五月)ゐつか(五日)の 言祝の

19B-26  二荒神と きさらシヱ(二月○シヱ)  

20-  1  二十六鈴 十六枝四十一穂 年キヤヱ 弥生

21-  1  二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生はつひ(初日)

21-  4  木お伐るは キヤヱの日吉し

21- 46  かつ山入りは ツヱ、サヱぞ キ、オの二は忌む ヱトに十六   

21- 56  ヱトの末 八七五隠ろ日

21- 60  ヱトの穂により 月守る

21- 64  これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて

21- 66  民治まりて 六万年(27鈴)筑波の宮に 遷ります また六万年

21- 67  六万年(28鈴) 経てまたもとの 新治宮

22- 20  ヱトのむそか(六十日)に もりあまる 八七五隠ろ日

23-  3  神の世は ます万年の 寿も 

23-  4  ウビチニの世は 厳かに 飾る心の 寿も 百万歳ぞ 

23- 35  十二よみを着る 月の数

23- 96  世お考えば 年すでに 十二万八千も あれば極

24-  1  年すでに 三鈴二千五十

24-  6  時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月 ついたち(朔日)

24- 43  及ぶ三万民 二十年に 浚えなせとて

24- 61  みな(六)月はつひ(初日)

24- 91  政ホツマに整ひて 二万八千(穂・年)経て 三十鈴の 暦なす頃

24- 92  世々豊かに 八万(31鈴)年経て 

24-114  なお豊かにて 十万(32鈴)年 瑞穂のぼれば   

25-  1  三十二鈴 二十三穂ツウヱ ウ(4)月はつ(初) 別雷の

25-  3  御神に 朝夕仕え 祀らしむ 十万(33鈴)年経て  

25- 12  桧杉の種 植えしむ 十年になりて

25- 14  豊かなる年 三万経る 時に筑紫の

25- 50  桃雛木 まぐばい後の みか(三日)の日の   

25- 54  さつき(五月)の望の 春祝い

25- 56  豊賑わいて 六万(34鈴)年 経ても阿蘇国

25- 58  ここにも六万(35鈴) 年お経て

25- 60  筑紫宮 豊かに肥えて 民安く ここにも六万(36鈴) 年お経て         

26-  1  三十六鈴 三十四枝三十八(穂) やよい(弥生)望 別雷の

26-  2  ハラミ山 なりて三十万(穂・年) 民お治す

26-  3  別雷の 神となる 三十一万年 治むれば

26- 11  故、長らえて 十四鈴の 

26- 13  う(4)月望より なそゐか(七十五日)は 

26- 18  弟タケズミと みな(6)月の 

26- 31  なそゐか(七十五日)に養す

27-  5  ふ(7)月弓張(七日) 伊勢結び 

27- 18  ギミ睦まじく 八百日振り 筑紫の十八と 四十五万 年経て治む         

27- 22  時四十二鈴 八百五十枝 極年ネウト は(8)月四日

27- 23  君の喪祀り よそや(四十八日)済み  

27- 31  キアト夏 御位なりて

27- 38  しか去る時に 勅り 冬至る日に 大祭り

27- 40  民豊か 拆鈴なせば 植え継て 七鈴及べど なお豊か  

27- 41  四十九の鈴の 九百十一枝 初穂キアヱの はつみ(初三)日に

27- 43  時にアマキミ(天君) われ思う 十三鈴老いて 種あらじ  

27- 47  妊み得て そゐ月(十五月)に生む

27- 48  これの先 カモタケズミと 磯依と 十三鈴までも

27- 49  生みて後 養して齢 十四鈴に 

27- 72  治むるは 八万に誰か またえらん

27- 81  皇子タケヒトは 歳ゐつつ(五つつ)

27- 83  十年に民も 賑ひて 万歳歌ふ     

27- 89  ヱト六十内に 妻入れて 世嗣おなせよ

27- 89  タケヒトは 歳十五なれば わが代わり

27- 93  皇子喪お勤め 四十八済む  

28-  3  宮の真榊 天枝千枝に 拆鈴となる

28-  4  植え継ぎの 五百(本)に至れば 三百ハカリ(億) 万年満ちて

28-  4  五百(本)継ぎの 天のマサカキ

28-  4  年の穂の 十年には五寸

28-  5  六十年に 三咫伸ぶヱトの 一周り 明くる年なる

28-  5  三咫の天枝 なれば二ヱト キアヱより 枝と穂と数ゑ

28-  6  一枝六十(穂)

28-  6  十枝六百年

28-  6  百枝は六千(穂)

28-  6  千枝に六万(穂)お  

28-  6  天守の 一周りづつ 暦なる

28-  6  故、千枝の年 種植ゑて 明くれは生ゆる マサカキお

28-  8  植ゑ継ぎの 二十一の鈴の 百枝後 

28- 11時二十一鈴 百二十五枝 三十一(穂)キシヱの はつひ(初日)の出

28- 14  天の宮にて 道学ぶ 三十穂に知し

28- 15  十二の局に

28- 17  二十五万年

28- 22  皇子オシヒトも 三十万は 治めて  

28- 24  新治宮 新田開きて 民治む 十八万年に 事終えて

28- 25  磯輪上秀真 顕るる 三十万(穂、年)経れば

28- 26  別雷の 天君と 六十万(穂、年)治む

28- 29  親に仕ふる 民お賞ぢ 十八万(穂、年)治め

28- 30  六十万(穂、年)治め

28- 31  時に四十万(穂、年)

28- 32  また三十万(穂、年)

28- 33  宇治の宮居に 二万穂経る 

28- 33  時に五十鈴 宮に生ヱ

28- 34  わが命 天が知らすと 八百神お   

28- 36  苦きを食みて 百七十三万 二千五百年お 永らえて

28- 51  アマテル神の 内つ宮 八百つか(仕)ふ神  

28- 53  六万年 経て去年尽きる 拆鈴ぞ

28- 54  二十六の鈴お われ植ゑて 後の二十五も 勅り

28- 57  マサカキの ニ枝三枝十枝 かつて無く  

28- 62  主問ふ 拆鈴れ二十(穂、年) 伸び如何に

28- 63  鈴木は齢 二十年の 伸びもこの木の 天の命

28- 65  天鈴に極め 二十一穂の キナヱの春は アメフタヱ 天鈴暦と

28- 76  噛まんと 百五十万穂 蝦夷白龍の  

28- 82  天鈴三十三穂 春日神 百五十六万 二十も五(穂、年)なり

28- 88  きさらぎ(如月)そひか(十一日)

28- 88  四十八(日)喪入り

28- 88  フトマニ見れば 五六の三 鏡ゑゑなる

28- 88  今我一人 受けざると 千々にぞうやむ

28-109  天鈴五十穂 かんな(10)月 八十四万三千 四十八(穂)なり

28-109  この年ワニヒコ 百の八(歳) 

28-110  妹五十鈴は 十お五つ(歳)

28-110  共に喪に入り 四十八(日)のち

28-110  社に置くは 五歳児の為か

29-  3  御祖アマキミ(天君) 筑紫治す 十年治めて

29-  6  君歳四十五 物語り

29-  6  日高見生みて 百ハカリ(億)万輪穂    

29-  9  道開きて 光重ぬる 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで

29- 12  天鈴キミヱ(51穂)の かんなみか(十月三日)天御子自ら

29- 16  (天鈴キミト52穂) 弥生には 吉備高島宮に

29- 16  中国の 政り治めて 三年坐す  

29- 17  天鈴五十五穂 きさらぎ(如月)や

29- 46  ね(11)月弓張(七日)

29- 66  め(10)月のふそか(二十日) 祀る大美和 神奈備ぞ

36- 25  (717穂)五十鈴川 二百八万穂の

39- 53  天照らす神 暦成し ・・・・ 百七十九 万三千続く

(注記)

  暦日の原文は、オシテ(文字)である。 ( )内は編者の訳を示す。


スス暦当時にも存在したスス暦一日の抜粋

(1) 長さの単位としての「ひとひ(一日)」

 4- 39  天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ

14- 32  身ひたしに ひとひ(一日)も安き 

21- 64  これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて

(2) 鈴枝穂と月、はつひ(初日)、ついたち(朔日)との関係性を示す記述

 4- 24  二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ はつひ(初日)ほのぼの 

19B- 1  二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のはつひ(初日)に

21-  1  二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生はつひ(初日)

24-  6  時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月 ついたち(朔日)

28- 11  時二十一鈴 百二十五枝 三十一(穂)キシヱの はつひ(初日)

スス暦の一日の論点

 スス暦は「ヱト」で鈴枝穂が成り立っているため問題ない。苦労するのは、どのような「ひとひ(一日)」、「一日の長さ」が隠れていたかであった。

ひとひ(一日)の抜粋

(1)4- 39  天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ

 a、この文の十六穂を近代の16年と訳すると、「16年一日の如し」になる。だが、この文は、諺の「十年一日の如し」と同じような解釈であろうか。だが、この説を覆すように、前述の(3)年、穂の意味の項で説明したが、親子の年の差が近代とスス暦とでは大きく違っていた。このことから、16穂を近代の16年の訳は誤訳となった。

 b、吉田説として、穂をホツマ・ヱト表上で「キアヱ1」より「次のヱト起算」で16進めた穂の「サヤヱ17穂」とすると、一日がヱトの16穂で刻まれていたことになる。そして、○アヱより○ヤヱの法則で説明が付く。これが吉田が提唱する「古代の時計説」である。

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(2)21- 64  これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて

 a、この文のアヱ、ヤヱは、ホツマ・ヱトの下二桁の○アヱ、○ヤヱの略である。また、五日と中五日を混同し使用する人がいる。同じ意味と訳しても良いだろうか。そこで、吉田説の数え方として、ホツマ・ヱト表上を5進めた穂が○アヱから○ヤヱとすると、○ヤヱを通過し ○ヤトまで進み成立しない。

 b、そこで、吉田説の数え方を適用し、○アヱから○ヤヱまで進めた穂が、中五日とすると五日を「次のヱト起算」で40穂進み、40穂を五日で割り算すると、一日の穂は式 40穂÷5日で、一日が8穂となる。他、4、16、28、53穂進んだ場合は、一日の穂が整数にならず。(不採用)

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  また、(1)項の一日16穂と穂の単位を揃えるため、8穂を16穂にすると16穂は、二日になる。このことから「これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて」の御世である21アヤ(21鈴)以降は、4アヤ(27鈴)のアマテル神の御世に対し同じ年、穂の経過数でも、倍の二日に数えられていた。(2倍暦の根拠)

(3)2倍暦の再現

 経過年、穂に対し一日の穂数、および、一年の経過日数で割り算し、そして、月日を求め、一日十六穂の御世、一日八穂の御世を月日、季節ほ検証して見た。すると、二つの説の暦法が存在し、いずれも正しいことが再現した。

 検証結果  

 ・21鈴~26鈴までは、一日十六穂で計算した月日の方が、記述の月に近い。

 ・27鈴~50鈴までは、反対に一日八穂で計算した月日の方が、記述の月に近い。

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結論 

・この結果、スス暦は、二つの暦法で作られていたことが判明する。

・このことより、スス暦を太陽暦に換算することが可能となった。

(4)スス暦を太陽暦へ換算する

  一日の長さの単位は、スス暦の当時と近代は同じのため、スス暦を太陽暦で計算するには、スス暦の鈴枝穂を穂に換算し、この値を一年365.3422日、一月30.445183日で割り算し、絶対値から近代の年月日に換算すると良い。

 a、鈴枝穂⇒穂への換算式

 二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ

 (式)=(21-1)×6,0000穂+125枝×ヱトの60+キシヱ31)=1,207,531穂

 b、穂⇒日への換算式

 (式1)= 1,207,531穂 ÷ 一日16穂 ÷ 一年365.2422日(~26鈴999枝)

 (式2)= 1,207,531穂 ÷ 二日16穂 ÷ 一年365.2422日(27鈴 1枝~)

 (式1)= 206.631893850163日

 (式2)= 103.315946925081日 

 c、日⇒年月日への換算式

   計算した日を太陽暦の年月日への換算は、現在の算数のため省略する。

(5)暦の接続

   ホツマツタヱのスス暦、アスス暦の年代を西暦年に接続する。

   (接続の仕方は、別に説明済のため省略する。)

(6)神代、天皇の年代のスス暦、アスス暦と太陽暦の対照年表

  暦の検証は、アマテル神~タケヒト(神武天皇)~33代推古天皇まで実施済。

  (注記)月日の再現性

 ・スス暦において、1日16穂、1日8穂では、月の再現性は高い。

 ・但し、スス暦、アスス暦でも、2倍暦⇒1倍暦に換算した場合は、月は再現しない。考えられる原因として、アスス暦、日本書紀暦も暦法に一致する年月日であるが、人間の歳の数だけが自然科学と一致しない。そのため原因不明で再現せず。

 

☆スス暦 年表 紀元前535年~紀元前151年 神代の年代 

 暦の再検証

 ・「原因不明で再現せず」と諦めていたが、2022年11月5日に再度、検証した。すると、スス暦、27鈴~、2倍暦(オリジナル)⇒1倍暦に変更後において、月のホツマ記述に対し1年361日において、月数の誤差±2日以内で再現した。この結果、元のスス暦では、1、2倍暦の暦法が運用されていたことが確認された。

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☆アスス暦 年表  紀元前150年~紀元399年  初期天皇の年代 

 (注記)アスス暦、日本書紀暦は、基本的は2倍暦であった。

  ・裏付けるように、奇数年のみに春の記述あり。偶数年には春の記述がない。

  ・そのため、偶数年の正月、1月は、7月に表示される。

  ・旧暦八朔に現れる不知火が、景行18穂は旧暦五朔に記述あり。

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参考文献

 ・ホツマツタヱ復刻本(和仁估安聡)

 ・ほつまつたゑ上下(鏑邦男)

 ・倭姫命世紀(1288年)

 ・神皇正統記(1343年)

 ・本朝皇胤昭運録(1426年)

                                  (以上)



Q:ご質問できますか。

Q: もう少し、スス暦、アスス暦に記述される「穂(ホ)」について、解説をお願いします。(名古屋のホツマ読者より)

スス暦の穂について

設問_1:アマテル神の年齢 百七十三万二千五百歳

    あなたは、この歳を信じますか? 答えは、わけわからん。

スス暦のトシの意味とホツマツタヱの記述の違い

ホツマ文は五七調のため、文字数が制限される。

 ・二文字「OK」の場合は、トシ(年、歳)

 ・二文字「NG」の場合は、ホ(穂)

  だが、年と穂は同じ意味であった。

スス暦のトシと近代のトシの違い

 ・百七十三万二千五百歳まで、長生きしない。

  このことより、トシの意味はホツマと近代では違った。

スス暦のトシとは、

 ホツマ・ヱト60分の1のことである。

 スストシ(60000穂)、ヱトシ(60穂)の記述からもわかる。

スス暦の一日の単位

 一日をホツマ・ヱトで刻んでいた。

 ・一日を十六穂(1 ~26鈴)⇒ アマテル神、オシホミの御世

 ・二日を十六穂(27~50鈴)⇒ ニニキネ~フキアワセズ御世

  同じ穂数でも、経過日数が、一日、二日と違うことがわかる。

  そのため、スス暦の後半は2倍暦となっていた。

  一説には、スス暦を改訂したため、アスス暦も2倍暦になった。

スス暦と太陽暦の互換性

 ・スス暦の1日の穂数が判明すると、スス暦の百七十三万二千五百歳を1日の穂数(16穂、または、32穂)、および、1年の365.2422日で除法すると、太陽暦の年代になることがわかる。

 ・2段階計算例⇒アマテル神の年齢が、約82~85歳


アスス暦の穂について

設年_2:神武天皇の崩御は127歳

    あなたは、この歳まで生きられますか? 答えは、NO,ですね。

原因

 暦法は「干支が動くと、日が変わる」暦であったが、歳が127歳になり、太陽暦の1年が循環する暦でない、太陰非太陽暦(2倍暦)であった。

1年の循環暦でない根拠

 ・旧暦八朔に現れる不知火が、旧暦五朔の記述(ホツマ、書紀)2分の1暦で、旧暦7月27日が計算され、ほぼ八朔が再現する。

 ・春の記述が奇数年のみ(ホツマ)、日本書紀は全年に春の記述。

 ・ヤマトタケの母の妊み期間が21ヶ月(ホツマ)、書紀に記述なし。

 ・儀鳳暦で満月を再現させると2分の1暦の方が、再現率が2倍に高い(ホツマ)。 日本書紀には、望(満月)の記述なし。  

改暦有無の調査結果

 日本書紀には改暦された記述はないが、天皇の生まれ日、立皇太子日、即位日、および、薨御日を初代天皇より32代天皇まで調べると、第17代履中天皇元年(399年)より近代の太陰太陽暦に改暦されていることが判明する。なお、15代天皇の御世に文字が伝来していた。

歳の変化

 前の16人の平均崩御歳104歳に対し17代~33代の平均は64歳。四割減し近代の歳に近く、改暦されていた形跡があった。

日本史の見直し

 上記の結果より、遡り年表の起点を紀元399年として作成した。神武天皇の崩御歳約64歳、アマテル神約82~85歳

(ご参考)

紀年の神武天皇崩御歳127歳、スス暦アマテル神約173万歳の日本人の常識も国際的には、通用しなくなりました。


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