ホツマツタヱ史学研究会 吉田六雄
概要
スス暦(和暦)の名称は、マサカキの苗をスス苗と呼ぶことに由来する。このスス暦の暦は、ホツマツタヱに記載される二つの暦の内の一つの暦になる。スス暦の初年は、神代の四代のウビチニ、スビチニの頃になり、暦の終焉年はタケヒト(神武天皇)の即位前のスス暦の50鈴、または、50鈴1000枝20穂の年になる。
概ね、スス暦の経過年数は、神武天皇の初年以前に2,940,020~3,000,020穂(年)も存在した。この史実に類するスス暦の穂の記述は、多くの国書である1288年の倭姫命世紀、1343年編纂の神皇正統記、1426年編纂の本朝皇胤昭運録にも掲載されるが、シナ(支那)より暦が伝来したため注目されなくなっていた。だが、忘れていけないのは、紀年暦で770年~780年、太陽暦換算で385年~390年も存在していたことである。
NEW 必読 !! 最下部で「 スス暦、アスス暦の穂(ホ)について 」 解説しております。
日本の暦の常識とスス暦との関係
日本には「暦がない」とするのが、一般常識である。だが、江戸時代、昭和の時代に再発見されたホツマツタヱには、神代編にスス暦の暦が記述され、また、タケヒト(神武天皇)の御世以降には、アスス暦と云う暦が記載されていた。
スス暦の暦日
(1)ホツマ・ヱト
ヱトは、キツオサネの5音、アミヤシナウの6音、ヱトの2音の組み合わせにより、ヱトの60穂が成立つ。シナ(支那)渡来の干支と同じ60である。
(2)年、穂の記述の仕方
年、穂は、同じ意味であるが、ホツマツタヱの一行の文字数により制限され、上行の五調、または、下行の七調の文字数の空き文字数が、二文字の場合は「年」、一文字の場合は「穂」を当てていた。空き文字数がない場合は、省略される。
(3)スス暦の鈴枝穂の数え起点
・枝、穂の数え起点
28アヤ5には、「三咫の天枝 なれば二ヱト キアヱより 枝と穂と数ゑ」と記述しており、この文を詳細に述べると、『穂の数は順位番号1~60までの60になり、穂の数えが60で一巡し、次のヱトの数えが二順目のキアヱ(順位番号1)になると1枝に位上がする。そして、この数え方で「枝と穂とを数ゑて行く』と記述している。そのため、最初は1穂であり、1枝1穂が最初でないと記述している。
・鈴の数え起点
鈴の経過年の数え起点は、近代と同じ「翌日起算」であった。このことを証明するように、ホツマの4アヤ6、7には、「真榊の 六万に尽きて 植え継ぎは 二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に 鑑みれど」と記述している。この「百二十万七千 五百二十」を鈴枝穂に換算し証明して見ると20鈴125枝20穂になる。だが、4アヤ6、7の文はあくまで、「21の鈴の 年すでに」と記述しているところから、スス暦の起算鈴の起点は、近代の考えの0鈴でなく、+1鈴の考えであったことになる。この方法は、経過日数を計算する方法の「翌日起算の考え方」に類似していた。そのため、鈴枝穂の最初の数え起点は、1鈴1穂になる。
(4)年、穂の意味
スス暦の年・年の意味は、近代の年と違い、基本的にはホツマツタヱ・ヱトの60分の1のことを云う。
このことは、近代の天皇と皇太子の年の差(a項)に対しスス暦当時のアマテル神と皇子オシヒトの年の差(b項)に現れており、二つを比較すると、近代の差が約30年に対しスス暦当時の差が240,627年となり、同じ年、穂でも大きく単位が違うことがわかる。
比較
a、近代の親子の年の差は、約30年と云われる。
b、スス暦当時の神と皇子の年の差は、240,627年になる。
比較の根拠
アマテル神の生まれ時
4- 24 二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日ほのぼの
オシヒトの世の日嗣時
19B- 1 二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のはつひ(初日)に
但し、アスス暦では、近代の年の2倍の年の単位として使用されていた。
スス暦の暦日の抜粋
近代の暦は、「干支が動くと日が変わる」と云われる。そして、近代の暦の最小単位は、一日である。スス暦当時も同じだったか否かを調査するため、ホツマツタヱの全文よりスス暦の暦日の記述を抜粋した。
アヤ番号-行名 スス暦の年代(鈴、枝、穂、月、日、月相など)
4- 4 五百継ぎの マサカキも植えゑ
4- 6 マサカキの 六万(穂、年)に尽きて
4- 7 二十一の鈴の 年すでに 百二十万七千 五百二十に
4- 18 三日の後
4- 23 十月に生まず 年月お
4- 24 心痛めて 九十六月
28- 8 植ゑ継ぎの 二十一の鈴の 百枝後
4- 24 二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ はつひ(初日)ほのぼの
28- 11 時二十一鈴 百二十五枝 三十一(穂)キシヱの 初日の出
4- 31 やや初秋の 望の日に
4- 39 天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ
6- 1 二十一鈴 百二十六枝 年サナト 弥生朔日 日の大和 新宮造り
6- 10 これを暦の うりふ月
6- 14 八万年経て 二十二鈴 五百五枝初に
6- 22 ネナト弥生の 望よりぞ う(卯)月の望に
7- 9 天の巡り 三百六十たび(度)お 瓊矛法
7- 57 天の巡りの 日蝕お 見るマサカニの 中凝り 生むソサノオは
7- 58 女はつきしほ(月経)の 後三日に 清く麻妃
8- 1 民も豊かに 二十三万 二千三百八十の 二年お
8- 2 今年二十四の 拆鈴を 二十五の鈴に 植ゑ替えて
9- 18 時の姿や 八年振り
9- 19 シムの幹 三千日はさまで
10- 1 二十五鈴 九十三枝年の サアヱ夏
10- 6 へつらい媚びて 三年まで
10- 16 八穂たまゆらと
10- 45 茅の輪に糺す みな(六)月や
11- 1 二十五鈴 百枝十一穂に
11- 6 君はこぞ(去年)
11- 17 千々の春秋
13- 5 初三日に 寒川浴びる
13- 28 年にきなか(寸半)の 六万穂木
13- 33 二代ムスピの 百万ほぎ(穂木・祝ぎ)
13- 33 今タマキネも 八万年
14- 32 身ひたしに ひとひ(一日)も安き
15- 22 ハ(8)月はつひ(初日)に なる初穂 豊国主ら 奉る
15- 33 ふ(二)月中 清白食えよ
15- 35 これもみか(三日) 清菜に消せよ 水鳥お 食えば二十一日
15- 40 われ見る鈴木 千枝四度 わが身も今年 二十四万
16- 1 二十五鈴 百枝二十八穂 年サミト
16- 90 もしも十二子を 生む母は 月の位ぞ
18- 15 マサカキお 植ゑて数うる 六十年の すわ枝も六百に
18- 15 十枝終ゑ 六万年千枝に 尽き枯るる
18- 15 植ゑ継ぎ五百の 後の初 五百継ぎ天の マサカキお
18- 16 マサカキも二十の 余る頃
19B- 1 二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のはつひ(初日)に
19B-22 は(八)月望 さつき(五月)ゐつか(五日)の 言祝の
19B-26 二荒神と きさらシヱ(二月○シヱ)
20- 1 二十六鈴 十六枝四十一穂 年キヤヱ 弥生
21- 1 二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生はつひ(初日)
21- 4 木お伐るは キヤヱの日吉し
21- 46 かつ山入りは ツヱ、サヱぞ キ、オの二は忌む ヱトに十六
21- 56 ヱトの末 八七五隠ろ日
21- 60 ヱトの穂により 月守る
21- 64 これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて
21- 66 民治まりて 六万年(27鈴)筑波の宮に 遷ります また六万年
21- 67 六万年(28鈴) 経てまたもとの 新治宮
22- 20 ヱトのむそか(六十日)に もりあまる 八七五隠ろ日
23- 3 神の世は ます万年の 寿も
23- 4 ウビチニの世は 厳かに 飾る心の 寿も 百万歳ぞ
23- 35 十二よみを着る 月の数
23- 96 世お考えば 年すでに 十二万八千も あれば極
24- 1 年すでに 三鈴二千五十
24- 6 時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月 ついたち(朔日)
24- 43 及ぶ三万民 二十年に 浚えなせとて
24- 61 みな(六)月はつひ(初日)
24- 91 政ホツマに整ひて 二万八千(穂・年)経て 三十鈴の 暦なす頃
24- 92 世々豊かに 八万(31鈴)年経て
24-114 なお豊かにて 十万(32鈴)年 瑞穂のぼれば
25- 1 三十二鈴 二十三穂ツウヱ ウ(4)月はつ(初) 別雷の
25- 3 御神に 朝夕仕え 祀らしむ 十万(33鈴)年経て
25- 12 桧杉の種 植えしむ 十年になりて
25- 14 豊かなる年 三万経る 時に筑紫の
25- 50 桃雛木 まぐばい後の みか(三日)の日の
25- 54 さつき(五月)の望の 春祝い
25- 56 豊賑わいて 六万(34鈴)年 経ても阿蘇国
25- 58 ここにも六万(35鈴) 年お経て
25- 60 筑紫宮 豊かに肥えて 民安く ここにも六万(36鈴) 年お経て
26- 1 三十六鈴 三十四枝三十八(穂) やよい(弥生)望 別雷の
26- 2 ハラミ山 なりて三十万(穂・年) 民お治す
26- 3 別雷の 神となる 三十一万年 治むれば
26- 11 故、長らえて 十四鈴の
26- 13 う(4)月望より なそゐか(七十五日)は
26- 18 弟タケズミと みな(6)月の
26- 31 なそゐか(七十五日)に養す
27- 5 ふ(7)月弓張(七日) 伊勢結び
27- 18 ギミ睦まじく 八百日振り 筑紫の十八と 四十五万 年経て治む
27- 22 時四十二鈴 八百五十枝 極年ネウト は(8)月四日
27- 23 君の喪祀り よそや(四十八日)済み
27- 31 キアト夏 御位なりて
27- 38 しか去る時に 勅り 冬至る日に 大祭り
27- 40 民豊か 拆鈴なせば 植え継て 七鈴及べど なお豊か
27- 41 四十九の鈴の 九百十一枝 初穂キアヱの はつみ(初三)日に
27- 43 時にアマキミ(天君) われ思う 十三鈴老いて 種あらじ
27- 47 妊み得て そゐ月(十五月)に生む
27- 48 これの先 カモタケズミと 磯依と 十三鈴までも
27- 49 生みて後 養して齢 十四鈴に
27- 72 治むるは 八万に誰か またえらん
27- 81 皇子タケヒトは 歳ゐつつ(五つつ)
27- 83 十年に民も 賑ひて 万歳歌ふ
27- 89 ヱト六十内に 妻入れて 世嗣おなせよ
27- 89 タケヒトは 歳十五なれば わが代わり
27- 93 皇子喪お勤め 四十八済む
28- 3 宮の真榊 天枝千枝に 拆鈴となる
28- 4 植え継ぎの 五百(本)に至れば 三百ハカリ(億) 万年満ちて
28- 4 五百(本)継ぎの 天のマサカキ
28- 4 年の穂の 十年には五寸
28- 5 六十年に 三咫伸ぶヱトの 一周り 明くる年なる
28- 5 三咫の天枝 なれば二ヱト キアヱより 枝と穂と数ゑ
28- 6 一枝六十(穂)
28- 6 十枝六百年
28- 6 百枝は六千(穂)
28- 6 千枝に六万(穂)お
28- 6 天守の 一周りづつ 暦なる
28- 6 故、千枝の年 種植ゑて 明くれは生ゆる マサカキお
28- 8 植ゑ継ぎの 二十一の鈴の 百枝後
28- 11時二十一鈴 百二十五枝 三十一(穂)キシヱの はつひ(初日)の出
28- 14 天の宮にて 道学ぶ 三十穂に知し
28- 15 十二の局に
28- 17 二十五万年
28- 22 皇子オシヒトも 三十万は 治めて
28- 24 新治宮 新田開きて 民治む 十八万年に 事終えて
28- 25 磯輪上秀真 顕るる 三十万(穂、年)経れば
28- 26 別雷の 天君と 六十万(穂、年)治む
28- 29 親に仕ふる 民お賞ぢ 十八万(穂、年)治め
28- 30 六十万(穂、年)治め
28- 31 時に四十万(穂、年)
28- 32 また三十万(穂、年)
28- 33 宇治の宮居に 二万穂経る
28- 33 時に五十鈴 宮に生ヱ
28- 34 わが命 天が知らすと 八百神お
28- 36 苦きを食みて 百七十三万 二千五百年お 永らえて
28- 51 アマテル神の 内つ宮 八百つか(仕)ふ神
28- 53 六万年 経て去年尽きる 拆鈴ぞ
28- 54 二十六の鈴お われ植ゑて 後の二十五も 勅り
28- 57 マサカキの ニ枝三枝十枝 かつて無く
28- 62 主問ふ 拆鈴れ二十(穂、年) 伸び如何に
28- 63 鈴木は齢 二十年の 伸びもこの木の 天の命
28- 65 天鈴に極め 二十一穂の キナヱの春は アメフタヱ 天鈴暦と
28- 76 噛まんと 百五十万穂 蝦夷白龍の
28- 82 天鈴三十三穂 春日神 百五十六万 二十も五(穂、年)なり
28- 88 きさらぎ(如月)そひか(十一日)
28- 88 四十八(日)喪入り
28- 88 フトマニ見れば 五六の三 鏡ゑゑなる
28- 88 今我一人 受けざると 千々にぞうやむ
28-109 天鈴五十穂 かんな(10)月 八十四万三千 四十八(穂)なり
28-109 この年ワニヒコ 百の八(歳)
28-110 妹五十鈴は 十お五つ(歳)
28-110 共に喪に入り 四十八(日)のち
28-110 社に置くは 五歳児の為か
29- 3 御祖アマキミ(天君) 筑紫治す 十年治めて
29- 6 君歳四十五 物語り
29- 6 日高見生みて 百ハカリ(億)万輪穂
29- 9 道開きて 光重ぬる 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで
29- 12 天鈴キミヱ(51穂)の かんなみか(十月三日)天御子自ら
29- 16 (天鈴キミト52穂) 弥生には 吉備高島宮に
29- 16 中国の 政り治めて 三年坐す
29- 17 天鈴五十五穂 きさらぎ(如月)や
29- 46 ね(11)月弓張(七日)
29- 66 め(10)月のふそか(二十日) 祀る大美和 神奈備ぞ
36- 25 (717穂)五十鈴川 二百八万穂の
39- 53 天照らす神 暦成し ・・・・ 百七十九 万三千続く
(注記)
暦日の原文は、オシテ(文字)である。 ( )内は編者の訳を示す。
スス暦当時にも存在したスス暦一日の抜粋
(1) 長さの単位としての「ひとひ(一日)」
4- 39 天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ
14- 32 身ひたしに ひとひ(一日)も安き
21- 64 これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて
(2) 鈴枝穂と月、はつひ(初日)、ついたち(朔日)との関係性を示す記述
4- 24 二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ はつひ(初日)ほのぼの
19B- 1 二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春のはつひ(初日)に
21- 1 二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生はつひ(初日)
24- 6 時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月 ついたち(朔日)
28- 11 時二十一鈴 百二十五枝 三十一(穂)キシヱの はつひ(初日)
スス暦の一日の論点
スス暦は「ヱト」で鈴枝穂が成り立っているため問題ない。苦労するのは、どのような「ひとひ(一日)」、「一日の長さ」が隠れていたかであった。
ひとひ(一日)の抜粋
(1)4- 39 天の原 十六穂居ますも ひとひ(一日)とぞ
a、この文の十六穂を近代の16年と訳すると、「16年一日の如し」になる。だが、この文は、諺の「十年一日の如し」と同じような解釈であろうか。だが、この説を覆すように、前述の(3)年、穂の意味の項で説明したが、親子の年の差が近代とスス暦とでは大きく違っていた。このことから、16穂を近代の16年の訳は誤訳となった。
b、吉田説として、穂をホツマ・ヱト表上で「キアヱ1」より「次のヱト起算」で16進めた穂の「サヤヱ17穂」とすると、一日がヱトの16穂で刻まれていたことになる。そして、○アヱより○ヤヱの法則で説明が付く。これが吉田が提唱する「古代の時計説」である。
(2)21- 64 これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて
a、この文のアヱ、ヤヱは、ホツマ・ヱトの下二桁の○アヱ、○ヤヱの略である。また、五日と中五日を混同し使用する人がいる。同じ意味と訳しても良いだろうか。そこで、吉田説の数え方として、ホツマ・ヱト表上を5進めた穂が○アヱから○ヤヱとすると、○ヤヱを通過し ○ヤトまで進み成立しない。
b、そこで、吉田説の数え方を適用し、○アヱから○ヤヱまで進めた穂が、中五日とすると五日を「次のヱト起算」で40穂進み、40穂を五日で割り算すると、一日の穂は式 40穂÷5日で、一日が8穂となる。他、4、16、28、53穂進んだ場合は、一日の穂が整数にならず。(不採用)
また、(1)項の一日16穂と穂の単位を揃えるため、8穂を16穂にすると16穂は、二日になる。このことから「これにより アヱよりヤヱの 中五日 守お離れて」の御世である21アヤ(21鈴)以降は、4アヤ(27鈴)のアマテル神の御世に対し同じ年、穂の経過数でも、倍の二日に数えられていた。(2倍暦の根拠)
(3)2倍暦の再現
経過年、穂に対し一日の穂数、および、一年の経過日数で割り算し、そして、月日を求め、一日十六穂の御世、一日八穂の御世を月日、季節ほ検証して見た。すると、二つの説の暦法が存在し、いずれも正しいことが再現した。
検証結果
・21鈴~26鈴までは、一日十六穂で計算した月日の方が、記述の月に近い。
・27鈴~50鈴までは、反対に一日八穂で計算した月日の方が、記述の月に近い。
結論
・この結果、スス暦は、二つの暦法で作られていたことが判明する。
・このことより、スス暦を太陽暦に換算することが可能となった。
(4)スス暦を太陽暦へ換算する
一日の長さの単位は、スス暦の当時と近代は同じのため、スス暦を太陽暦で計算するには、スス暦の鈴枝穂を穂に換算し、この値を一年365.3422日、一月30.445183日で割り算し、絶対値から近代の年月日に換算すると良い。
a、鈴枝穂⇒穂への換算式
二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ
(式)=(21-1)×6,0000穂+125枝×ヱトの60+キシヱ31)=1,207,531穂
b、穂⇒日への換算式
(式1)= 1,207,531穂 ÷ 一日16穂 ÷ 一年365.2422日(~26鈴999枝)
(式2)= 1,207,531穂 ÷ 二日16穂 ÷ 一年365.2422日(27鈴 1枝~)
(式1)= 206.631893850163日
(式2)= 103.315946925081日
c、日⇒年月日への換算式
計算した日を太陽暦の年月日への換算は、現在の算数のため省略する。
(5)暦の接続
ホツマツタヱのスス暦、アスス暦の年代を西暦年に接続する。
(接続の仕方は、別に説明済のため省略する。)
(6)神代、天皇の年代のスス暦、アスス暦と太陽暦の対照年表
暦の検証は、アマテル神~タケヒト(神武天皇)~33代推古天皇まで実施済。
(注記)月日の再現性
・スス暦において、1日16穂、1日8穂では、月の再現性は高い。
・但し、スス暦、アスス暦でも、2倍暦⇒1倍暦に換算した場合は、月は再現しない。考えられる原因として、アスス暦、日本書紀暦も暦法に一致する年月日であるが、人間の歳の数だけが自然科学と一致しない。そのため原因不明で再現せず。
☆スス暦 年表 紀元前535年~紀元前151年 神代の年代
暦の再検証
・「原因不明で再現せず」と諦めていたが、2022年11月5日に再度、検証した。すると、スス暦、27鈴~、2倍暦(オリジナル)⇒1倍暦に変更後において、月のホツマ記述に対し1年361日において、月数の誤差±2日以内で再現した。この結果、元のスス暦では、1、2倍暦の暦法が運用されていたことが確認された。
☆アスス暦 年表 紀元前150年~紀元399年 初期天皇の年代
(注記)アスス暦、日本書紀暦は、基本的は2倍暦であった。
・裏付けるように、奇数年のみに春の記述あり。偶数年には春の記述がない。
・そのため、偶数年の正月、1月は、7月に表示される。
・旧暦八朔に現れる不知火が、景行18穂は旧暦五朔に記述あり。
参考文献
・ホツマツタヱ復刻本(和仁估安聡)
・ほつまつたゑ上下(鏑邦男)
・倭姫命世紀(1288年)
・神皇正統記(1343年)
・本朝皇胤昭運録(1426年)
(以上)
Q:ご質問できますか。
Q: もう少し、スス暦、アスス暦に記述される「穂(ホ)」について、解説をお願いします。(名古屋のホツマ読者より)
スス暦の穂について
設問_1:アマテル神の年齢 百七十三万二千五百歳
あなたは、この歳を信じますか? 答えは、わけわからん。
スス暦のトシの意味とホツマツタヱの記述の違い
ホツマ文は五七調のため、文字数が制限される。
・二文字「OK」の場合は、トシ(年、歳)
・二文字「NG」の場合は、ホ(穂)
だが、年と穂は同じ意味であった。
スス暦のトシと近代のトシの違い
・百七十三万二千五百歳まで、長生きしない。
このことより、トシの意味はホツマと近代では違った。
スス暦のトシとは、
ホツマ・ヱト60分の1のことである。
スストシ(60000穂)、ヱトシ(60穂)の記述からもわかる。
スス暦の一日の単位
一日をホツマ・ヱトで刻んでいた。
・一日を十六穂(1 ~26鈴)⇒ アマテル神、オシホミの御世
・二日を十六穂(27~50鈴)⇒ ニニキネ~フキアワセズ御世
同じ穂数でも、経過日数が、一日、二日と違うことがわかる。
そのため、スス暦の後半は2倍暦となっていた。
一説には、スス暦を改訂したため、アスス暦も2倍暦になった。
スス暦と太陽暦の互換性
・スス暦の1日の穂数が判明すると、スス暦の百七十三万二千五百歳を1日の穂数(16穂、または、32穂)、および、1年の365.2422日で除法すると、太陽暦の年代になることがわかる。
・2段階計算例⇒アマテル神の年齢が、約82~85歳
アスス暦の穂について
設年_2:神武天皇の崩御は127歳
あなたは、この歳まで生きられますか? 答えは、NO,ですね。
原因
暦法は「干支が動くと、日が変わる」暦であったが、歳が127歳になり、太陽暦の1年が循環する暦でない、太陰非太陽暦(2倍暦)であった。
1年の循環暦でない根拠
・旧暦八朔に現れる不知火が、旧暦五朔の記述(ホツマ、書紀)2分の1暦で、旧暦7月27日が計算され、ほぼ八朔が再現する。
・春の記述が奇数年のみ(ホツマ)、日本書紀は全年に春の記述。
・ヤマトタケの母の妊み期間が21ヶ月(ホツマ)、書紀に記述なし。
・儀鳳暦で満月を再現させると2分の1暦の方が、再現率が2倍に高い(ホツマ)。 日本書紀には、望(満月)の記述なし。
改暦有無の調査結果
日本書紀には改暦された記述はないが、天皇の生まれ日、立皇太子日、即位日、および、薨御日を初代天皇より32代天皇まで調べると、第17代履中天皇元年(399年)より近代の太陰太陽暦に改暦されていることが判明する。なお、15代天皇の御世に文字が伝来していた。
歳の変化
前の16人の平均崩御歳104歳に対し17代~33代の平均は64歳。四割減し近代の歳に近く、改暦されていた形跡があった。
日本史の見直し
上記の結果より、遡り年表の起点を紀元399年として作成した。神武天皇の崩御歳約64歳、アマテル神約82~85歳
(ご参考)
紀年の神武天皇崩御歳127歳、スス暦アマテル神約173万歳の日本人の常識も国際的には、通用しなくなりました。
ご質問、ご意見などを受け付けております。ご気軽にどうそ゛!!
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最後まで ご愛読して戴き ありがとう ごさいました。