ホツマツタヱ 現代語訳文の比較

ホツマツタヱ 現代語訳文の比較 

 ホツマツタヱの研究には、多くの研究者が全国に存在する。その中で、Webに掲載している研究者を捜すと、池田さん、高畠さん、今村さん、吉田さんなど多くの研究者がいる。

 その研究者も故松本善之助先生のホツマツタヱ再発見より始り、国会図書館に寄贈された本の経過を見ると、ホツマブームも一次に1997年~1999年、そして、二次に2016年~2019年とあったことがわかる。

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 そして、一次、二次ブームを支えている研究者は、故松本善之助先生、故鳥居さん、故鏑さん、池田さんであり、最近は池田さん、吉田さんの活躍がめざましい。但し、5冊以上の本を国会図書館に寄贈した氏名を集計した。

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 だが、正論なホツマ研究ばかりでなく、間違った説も見える。特出としては、故千葉説である。                                               まず、正論を述べると、『自然科学を元にした暦は、古代も現在も基準は太陽の運行である。そのため、「年齢」と「時の経過」が一致する。また、スス暦の鈴枝穂より換算した大きい穂の数字を紐解くと、スス暦は太陽の運行を基準としており、「1日を16穂に分け、後に2日を16穂に分け」で刻んでいた。江戸時代の「時の鐘」ならぬ、「日の穂」である。                                                                      

 それに対し彼の誤説では、ホツマツタヱのスス暦に記述される「謎の大きい数値は、「年齢」でなく「時の経過」の、この鈴枝穂でした。」(千葉氏の紙面より引用)と解釈していた。だが、昨今では、「ホツマツタヱの編纂年は不明」とするのが、ホツマ研究者の定説である。                                                              

 それでも『この定説を無視し、古代は不明なことが多い、また、年代を古くしたいとの野望から、スス暦の御世に書かれた秀真政傅記の編纂年を紀元前1718年(3730年前)と算出していた。それも、本人は真剣であり、彼の説が他の人の本「解き明かされる日本最古の歴史津波 (飯沼勇義著 鳥影社 2013)」にも引用されていた。』この本は、東北地方の津波の到来年代を研究された本であるが、曖昧な彼の説を引用していたのである。

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 これでは、笑うに笑えず可笑しいことになる。ホツマツタヱで判明している年代は、ホツマツタヱ本の最新写本が、江戸時代の安永4歳(1775年)であったことのみである。詳細は、ホームページの下部に掲載した。ご覧下さい。 

ホツマツタヱの活動状況がわかった所で、各研究者同士を比較すると面白い。 

 今回、ホツマツタヱの現代語訳について、各研究者の訳文を比較するため、各々研究者の資料をWebサイトより引用した。その結果、ホツマツタヱにも記述の「今世に残る 家々の 書もそれそれ 変わりある」と云われるように、現在の研究者の現代語訳も変りがある。その原因を突き詰めると、研究者が過去に影響を受けた書などをベースとして、現代語訳にホツマツタヱの現代語訳を投影していることがわかる。

 また、歴史書の観点よりホツマツタヱを見た場合、避けて通れないのが、古代暦である。だが、暦に関しては、過去の経験値は、役に立たないようである。古代暦を解読する勉学力は、ホツマの暦日を見た時に、「日読みは、毎日の繰り返し」と思い、分析し解読できると思うか否かであろう。だか、現在のホツマ研究者の大半は、「できない」意見であった。一例を述べると、

 植物のマサカキのため、植物に託した年数計算であるため、太陽暦との間には齟 齬を生じやすいと考え、現在人には理解が及び難い。

 この疑問に科学的な解答を与えることは不可能と考えている。即ち、スズ暦で現わされる大きな数値には宗教的な意味が込められており、科学万能の現代人感覚では理解困難と言わざるを得ないのである。現代と同じ太陽太陰暦を持っていた時代背景からして、この大きな数値は、宗教的な意味合いを加味して解釈しなければ思考の渋滞を免れない。

 文脈によってキアヱ暦は臨機応変に年、月、日の いずれかを指すということです。決して短絡的に断定できるものではありません。

 反面、アマテル神の年齢と思われる「百七十万の年」や「五十鈴」は信じられるとする研究者もいる。

 このように、ホツマツタヱ以外の知識を入れると、「まこと」のホツマツタヱの訳文と云えないことになる。あなたの目指す「ホツマツタヱの現代語訳」は、どちらになりますか。

ホツマツタヱの語訳の基本

 原文ヲシテの全語、全文章を余すことなく訳することを基本とする。又、ヲシテの難語はホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニに使用されている類似のヲシテの語句、全文章より訳することを基本とする。又、辞書、辞典は可とする。



★ホツマツタヱお述ぶ、現代語訳文の比較★

池田さん 

 Webには、「ホツマツタヱお述ぶ」の現代語訳は未掲載であった。                                                  彼のWebや本を見ると、解読するための暦の知識はほとんど皆無である。それは本居宣長と同じで、Webや本に原文を転記していることからもわかる。

高畠さん

 Webには、「ホツマツタヱお述ぶ」の現代語訳は未掲載であった。

今村さん

 [mixi]ホツマツタヱを述ぶ (現代語訳 今村聰夫) ←クリックしてPDFを見て下さい。

Webより一部引用。

『ホツマツタヱ』との出逢い・ホツマに出逢ったいきさつ 最初に読んだ時の印象や感動

 記紀の解説書や、古代日本に関する学者の著作を手当たり次第に読みましたが、欲求を満たすどころか、ほぼ同一時代に同一と言える朝廷の中で、二つの歴史書が 作られたことに対する疑問を呈する記紀学者が皆無であることに驚きを覚えました。

そうこうする内に、梅原猛氏の全集の中で「梅原日本学」と呼ばれる初期の著作に出会ったのです。私は古事記編纂の意図を見抜いた哲学者の思索に学び、これまで蓄積して来た疑 問点を整理し直して、次の結論を出しました。

「縄文人は日本語表記に適した文字を持ち、歴史書を作っていた」

中国から大挙渡来した帰化人(弥生人)が勢力を増して政権を掌握し弥生人主導で国政を動かすためには、漢訳した歴史記録を必要としたでしょう。それによって編まれたのが帝紀・旧事または天皇紀・国記だったと思います。

検証ホツマツタヱを見ると解読するための暦の知識は皆無であり、彼の知識の師匠である梅原猛氏を超えることができず、ホツマの暦を「宗教的な意味と考えており」原文を転記していることからでも推測ができる。

その後、驚くことなかれ“はじめてのホツマツタヱ ○の巻”を発売されたようで、その中には、紀元前の年代が記述されていると、Webが教えてくれた。ホツマの暦を「宗教的な意味と考えており」と述べておられた彼が、どうしたことか、記述されるのはいいが、考古学を無視した年代では、ホツマファンは元より、ホツマツタヱの偽書説を助長することに手を貸されていた。

吉田さん

 ホツマツタヱお述ぶ ←PDFの解説         

ホツマツタヱを精力的に研究され、原文と対比の解説文を公開されております。

特に、アマテル神の頃のスス暦や、神武天皇の頃より始まるアスス暦について、西暦年での解説は、他のホツマ研究者にも太刀打ちできない研究であろう。

また、ホツマ以外に国文学も研究されており、太陰太陽暦の採用を履中天皇元年と解読されていた。この意見は、日本で最初に述べた研究者であろう。詳しくは、彼のホームページが詳しい。 ⇒「ホツマツタヱ スス暦、アスス暦解読と解説本と論文するホツマ史学」をクリックしてご覧下さい。



他研究者

 今後、Webに掲載されていることを見つけ次第、掲載予定。(管理人)

 ・Webに掲載されている紙面などより、少しずつ論評を追加し掲載しております。



1~40アヤ

 今後、Webに掲載されていることを見つけ次第、掲載予定。(管理人) 

 やっと、1 アヤを公開できました。



1 アヤ



キツ(東西)の名とホムシ去るアヤ 現代語訳文の比較

池田さん

 キツのナとホムシさるアヤ ←PDFの解説         

ホツマツタヱを精力的に研究され1~40アヤ(綾)の解説文を公開されております。その中の1アヤです。前半に比べ後半の対比が原文を捜す時間がかかるようです。

また、ホームページには、『古事記』『日本書紀』の原書であるヲシテ文献(『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カク・ミハタ』)をもって、我が国の国学を再構築するべく歩んでおります。と記載されており、原文に対し正しい解説がなされているかの吟味も読者の責任かと思う。

吉田さん

 東西の名と穂虫去るアヤ ←PDFの解説         

語句の解説、ムラなく原文と対比され解説文を公開されております。

特に、1アヤの記述年代の時代考証力は、暦法の熟知以外に、不確定な記述の分析力には絶賛される。

 

吉田さんの本ご紹介

 ホツマツタヱ ホツマツタヱお述ぶ(奉呈文)~7アヤまでを解説された本を発売されておりました。(国会図書館にも寄贈あり。)その中にはホツマ研究者の誰もが明らかに出来てないホツマの暦、スス暦、アスス暦を解読し掲載されておりました。

 詳細は ←ワカ(和歌)姫~天の岩戸事件の解説をクリックしてご覧下さい。 



★ホツマツタヱの解読年代の比較★

世間では、ホツマツタヱを偽書とされるWebを目にする。 

 その主張は、現在の考古学等の年代に対し「はじめてのホツマツタヱ ○の巻」、「ホツマ辞典 - 漢字以前の世界へ」らに記載される年代についてである。その指摘の一部を抜粋すると、○神武東征、○ヤマトタケ、○銅鐸、○ニシノウミ 、○ニハリ、○馬、牛 、○ワニフネらの年代あった。そこで批判文を上段にご紹介し、また、ホツマ暦を研究されている吉田さんのHPより吉田説を抜粋し、比較のため、下段にご紹介する。

比較結果、吉田説は考古学の年代に対応したホツマ暦と西暦(換算値)であることがわかる。更に、ホツマに記述されるゾロ(イネ)の初見が、炭素14測定で求められた年代の範囲内であることも判明してきた。詳細は、下グラフの比較図をご覧下さい。

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最終更新日 令和元年七月八日  アドレス; https://hotumatutaye.xxxxxxxx.jp/   

ホツマツタヱ偽書運動家

 考古学上の年代と相違が見られるとの指摘あり。


○神武東征

080

 ホツマツタヱ信者は皇紀が歴史的に正しいって信じているから、神武天皇も紀元前7世紀代に実在していたって認識なんだよ。そうすると、神武東征は弥生時代前期に起こった戦いって事になるけど、当時はまだ金属器がほとんど普及していないから、神武天皇は石器で長髄彦と戦っていた事になるね。

今村聰夫“はじめてのホツマツタヱ 人の巻” かざひの文庫 2016年9月 p.24

吉田説

 神武(カンタケ)天皇が、橿原に都を開いたのが、アスス58年である。また、太陰太陽暦が採用された起点は履中天皇元年(399年)になる。そのため、それ以前の神武天皇までは太陰非太陽暦(2倍暦)の暦であった。このことより、神武天皇元年を計算すると、紀元前133年になる。

年サナトの抜粋

30ー13

トシサナト ハツヒサヤエニ ウマシマチ トクサタカラオ タテマツル アメノタネコハ 

        アスス                  西暦(換算)

30- 13  年サナト(58)  初日サヤエ(17)に 紀元前 133年



○ヤマトタケ

079

 古墳と言ったら『ホツマ辞典』って本でも、日本武尊の西征は古墳時代の出来事だった、みたいな事が書かれているよ。当たり前の話だけど、古墳時代は3世紀に始まるから、日本武尊が皇紀の年代に実在していたとしても古墳時代とはかすりもしないよ。ホツマツタヱ信者って、こういう妄想が多いんだよね。

池田満 “ホツマ辞典 - 漢字以前の世界へ” 展望社 1999年6月 p.132

吉田説

 ヤマトタケの生まれは、アスス789年4月(西暦234年)である。時代的には、3世紀の古墳時代に生まれた人になる。

ヤマトタケの抜粋

        アスス暦                 アスス  西暦

38-  1  時天鈴 七百八十八穂の フ(七)月十一日 788穂  紀元234年

38ー5  ヤマトタケが生まれる。  去年四月 景行1穂4月 799穂、

ウスハタニ モチハナナシテ フタゴウム ヱノナモチヒト オウスミコ トノナハナヒコ コウスミコ トモニイサミテ

40ー21

モモウタヒ ナカラメオトヂ カミトナル ナスコトナクテ イトナミス ウタハオハリエ

40- 98 時天鈴 八百四十三穂の 秋天日       843穂  紀元262年



○銅鐸 

070

 『はじめてのホツマツタヱ 人の巻』ニヨルと、弥生時代の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸の事が、ホツマツタヱには書かれているんだって。日本書紀の崇神紀「甘美御神 底宝御宝主」に対応した「ミソコタカラ ミカラヌシ」っていう記述が、39個の銅鐸(ミカラヌシ)を意味しているらしいよ。

今村聰夫 “はじめてのホツマツタヱ 人の巻” かざひの文庫 2016年9月 pp.128-130

074

『検証ほつまつたゑ』の記事だと、銅鐸が紀元前37年に埋められたって主張していたね。これはホツマツタヱの紀年法を独自研究で絶対年代に変換したものなんだけど、本当に合っているのかな。さっき、ホツマツタヱには馬と牛が登場するから、古墳時代以前には遡らないって言ったよね。

今村聰夫“ホツマツタヱと考古学”『検証ほつまつたゑ 通巻86号』 ホツマ出版会 2016年8月 pp.50-51

吉田説

 ホツマツタヱで「ミソコタカラ(三十九宝)」の言葉が登場するのは、 弥生時代の紀元181年頃(紀元2世紀)であった。それに対し日本史の「銅鐸」が使用された期間は、紀元前2世紀から紀元2世紀であると云われており、比較すると、銅鐸が失くなる紀元2世紀がホツマの時期と一致する。

ミソコタカラの抜粋

34ー60

ネミカガミ ミソコタカラノ ミカラヌシ タニミククリミ タマシヅカ ウマシミカミハ ミカラヌシヤモ

        アスス暦                  アスス 西暦

34- 28  四十八年 初十日オアエ(25)       668穂 紀元174年

34- 61  六十二年キナトの天フミ月 キミト(52)初 682穂 紀元181年



○ニシノウミ

086

 ホツマツタヱには古代の大阪平野に存在しないはずの大和川が出てきたけど、他にもホツマツタヱが成立したとされる紀元2世紀初頭には存在しない湖なんかも出てくるよ。富士山麓の湖に関する記述の中で、ニシノウミとヤマナカっていう名前が出てくるけど、これは西湖と山中湖の事だよね。

今村聰夫“はじめてのホツマツタヱ 地の巻” かざひの文庫 2016年5月 pp.158-159

087

 西湖はかつてニシノウミって呼ばれていたけど、平安時代の貞観大噴火で元の湖が分断されて、精進湖と共に形成されたんだよ。山中湖の起源は、1990年代に日本大学が行った調査によると、西暦100年頃の噴火で河川が堰き止められた事に始まって、最終的に延暦噴火の影響で今の姿になったんだって。

吉田説

 ヤマナカ、ニシノウミがホツマに登場するのは、24アヤの29鈴の御世である。西暦に換算すると、弥生時代の紀元前257年~紀元前257年になる。これは、本栖湖ができた時代を産業技術総合研究所が発表した「紀元前300年までの溶岩で塞がれてできた湖」の年代と一致する。

ヤマナカ、ニシノウミの抜粋

         スス暦                    西暦

24-  6  時二十九鈴 五百の一枝 三十八(穂)如月 朔日 紀元前257年

24ー39

ヨモオミテ スソノハヒロシ ミヅオウミ スソノタニセヨ タチカラオ ヤモニホラシム  ウミノナモ キハヤマナカト

24ー40

キネハアス ネハカワクチト ネツモトス ツハニシノウミ ツサキヨミ サハシビレウミ キサハスド ニハリノタミガ

24- 91  政、ホツマに整ひて 二万八千年経て 三十鈴   紀元前255年

吉田説 

 また、本栖湖ができたのは、毎日新聞のニュースでは、紀元前300年までの溶岩で塞がれてできた湖と記載していた。

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○ニハリ

091

 ホツマツタヱだと、記紀のニニギに対応するニニキネって人が灌漑を始めた事になっているよ。『はじめてのホツマツタヱ 地の巻』って本だと、紀元前1160年頃にニニキネが茨城県に宮を建てて、そこで灌漑を始めたんだって。紀元前12世紀代って、稲作が始まる弥生時代早期よりも前だよね。 

今村聰夫“はじめてのホツマツタヱ 地の巻”かざひの文庫 2016年5月 p.90今村聰夫 同書 pp.146-147

吉田説

 ニハリの言葉がホツマに登場するのは。25鈴であり、西暦に換算すると、弥生時代の紀元前298年頃になる。

ニハリの抜粋

        スス暦                     西暦

19B- 1  二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春の初日に   紀元前298年

19ーB6 ニニキネノ ミユキホヅマノ ニハリナル ノリノリメセハ オバシリガ ワサオウケタル タカヒコネ ヂミチハヤスク

20-  1  二十六鈴 十六枝四十一穂 年キヤエ 弥生    紀元前280年



○馬、牛 

064

 ホツマツタヱには馬と牛が登場するんだけど、『ホツマツタヱを読み解く』にはイザナギとイザナミが日本を統治していた約3000年前から、馬と牛が農耕で使われ始めたって書かれているよ。『はじめてのホツマツタヱ 地の巻』だと、それより後の時代を紀元前1200年って推定しているけどね。

池田満“『ホツマツタヱ』を読み解く - 日本の古代文字が語る縄文時代”展望社 2001年11月 p.67

今村聰夫“はじめてのホツマツタヱ 地の巻”かざひの文庫 2016年5月 pp.71-72

065

つまりホツマツタヱ信者は、縄文時代後期から晩期頃の日本では馬と牛が家畜として飼育されていたって認識している事になるよね。でも、通説だと日本で馬と牛が家畜として普及するのは古墳時代になってからだから、ホツマツタヱ信者の推定年代とは千年以上の違いがあるよ。

設楽博己“十二支になった動物たちの考古学” 新泉社 2015年12月 p.22 設楽博己 同書 p.90

吉田説

 ムマ(馬)の言葉が、ホツマツタヱに登場するのは、18アヤ7、18の25鈴の御世であり、前後のスス暦を西暦に換算すると、弥生時代の紀元前290年~紀元前289年頃のこととなる。

ムマの抜粋

        スス暦                 西暦

16-  1  二十五鈴 百枝二十八穂 年サミト   紀元前290年

18ー7

ヒトマロメ アカミヤニスヱ シテミスビ ミナモトヱラミ ツキノワト シラミヤニスヱ ウヌノテノ ウツロヰオムマ

18ー18

ウマトナシ ノリウシケレハ ウシオシテ タノアラスキヤ ニモツモノ カクゾミココロ ツクシモテ タミモヰヤスク

19B- 1  二十五鈴 百三十枝の 年サナト 春の初日に   紀元前289年



○ワニフネ 

062

 ホツマツタヱには、シマツヒコの孫がワニフネっていう帆船を作ったとも書かれていて、ニギハヤヒ神話に対応した話にもワニフネが出てくるの。『はじめてのホツマツタヱ 地の巻』って本だと、この話が紀元前1160年頃の出来事だって書いているけど、縄文時代の遺跡から帆船が出土した例は無いよ。

池田満“ホツマ辞典 - 漢字以前の世界へ”展望社 1999年6月 pp.223-224

今村聰夫“はじめてのホツマツタヱ 地の巻”かざひの文庫 2016年5月 pp.78-83

吉田説

 ワニフネの言葉をホツマより捜すと、20アヤの26鈴に初めて登場する。西暦換算すると、弥生時代の紀元前280年頃になる。

ワニフネの抜粋

        スス暦                    西暦

20-  1  二十六鈴 十六枝四十一穂 年キヤエ 弥生   紀元前280年

20ー21

ミコトノリ ナレトチカラト ハヤフネニ ユキテイワフネ 

ススムヘシ ヨリテミマコト タチカラオ ワニフネニノリ

21-  1  二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生初日      紀元前280年



★ホツマ学★

 世間では、ホツマの第一人者と自認されているようだが、質問すると"メロメロ"と云う話。

Webによれば、我修院さんのメール質問に対し答えたメールのようだ。

質問者: ガシュウイン

Sent: Wednesday, October 31, 2018 8:15 PM

むずかしいだかや

人が書いた本を理解するのはな。だか、考えてみ。

最近は説明責任とか、論理的に説明しろとかだかや 厳しいだや。

 そのためには、自分の書いたものは、読む人が論理的に理解できるように書くのもホツマだかや。彼はイトリやオノコロらを論理的に、ホツマ的に説明しとる。それも、ホームページに載っけとる。感心だがや。それもただでだよ。暦も自然科学と対比して説明しとる。このところを見ると、ホツマの第一人者だな。おそらくタダもんじゃないがや。 あんたは、イトリ、オノコロはなんと説明しとるかなあ。

回答者: ツル

Date: 2018/10/31, Wed 21:48

なるほどね。 そう言う感覚もあったかね。 また考えてみるね。

質問者: ガシュウイン

Sent: Saturday, November 03, 2018 10:33 AM

あらゃら !!

 また、考えちゅうかね。彼より20年も長くやっとれば、イトリやオノコロなんて、論理的に説明することしは、いちころだろうになも。

回答者: ツル

Date: 2018/11/4, Sun 07:45

すごいね、

 そんなに偉い人だったら、多くの読者に読んでもらえるよ! がんばったら良いよ。私なんかに話をしに来るまでも無いよね。

質問者: ガシュウイン

Sent: Sunday, November 04, 2018 5:57 PM

急に、しぼんだね。

なにがあったんじゃ!!

 ツルさまの得意なヲシテ言語学のイトリ、オノコロを論理的に教えてといっているだけなんじゃ。どうしたじゃ? 予想のツルさまの返事は、あの本見ろとくるもんと思っていたが。松本よしのすけをご存知であれば、解説すべきじゃ、なかろうか。俺だったら、彼のホームページを見てねと、説明するがも。だって、論理的だもの。彼の説明を要約するがや。

イトリ

 トリイが鳥居と説明が着くと、イトリは居鳥と解釈され、居る鳥は渡り鳥でなく、日本の古来種の鳥となる。ニイトリより朱色の居る鳥、シライトリより鶴の一種で、丹頂鶴がが考えられる。

現在、北海道に居る丹頂鶴は、本州に居たかを調べると、江戸時代に江戸湾の干潟に居た記述されていた。このことより、イトリは、丹頂鶴と解釈するのが有力説である。また、他の鶴は、渡りどりであり、該当しない。

オノコロ

 ホツマツタヱの文章に、ミオヤノココロ、オヤノココロとの言葉が記述されている。

この二つの言葉より、飛び飛びに選ぶと、オ・ノ・コ・ロ の言葉が隠れていることがわかる。ミオヤノココロは、天御祖神の心、オヤノココロは、御親の心と解釈される。すると、オノコロ島は、天御祖神の心の島となり、この八洲、ヤマトは、天御祖神が心して造ったの島と解釈するのが妥当と考える。イサナギ、イサナギの教えにも一致すると思われる。

 となるんじゃが、ツルさまは、共感、または、反論あるじゃろか。それに比べ、ツルさまのホームページよりイトリ、オノコロを抜粋すると、説明のブレは、大きいがや。また、ほどんど、感覚的だがや。これじゃ、返事がこないわけだがや。

抜粋の内容

イトリヤマ

  「ツキ・カツラギのイトリヤマ」との原文のまま。

ニ・イトリ

  赤いイトリ、大きな鳥

イトリヤマ

  詳細は未詳

イトリ

  大きな鳥

シラ・イトリ

  白い大きな鳥

オノコロ

 より良きように整い纏まる

オノコロ

 自ずからにしての生成

オノコロ

 自ずからに凝結して自立すること

 初めの「おのころ」とは、じつは、天地の始まりの時を表現した言葉でした。

おのころ

 自ずからに纏まる

彼に頭下げたら論理的な説明の仕方は教えるかも。

回答者;ツル

Date: 2018/11/4, Sun 18:59

 あなたはあなたで、そんなに偉いのなら、自分で読者を獲得したら? そういう事だ。世間は広いよ。解かる人もある筈だ。私なんぞに意見を求め事無いだろ?なんせ、あなたは偉いんだ。だから、自分でやってゆけよ、って、言っているんだ。

ツルさまとは、ホツマの第一人者で、ホツマ歴約80年らしい。(我修院さんの話)



★古典をホツマで説いた人の話★

駒形さんの解説 

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上の解説の言い回し文

『あをによし』は、奈良の枕詞です。

 それは『あなにやし』の変態であると結論しました。

 そして、"なんと麗しや"という意味になります。

 また、"なんと麗しや"の意味が、ホツマでは3文に「わなにやし」の形で出てきます。

 その文節は、「あな(甚)」+「にやし(熟し)」に分解されて説明されるようです。

筆者の評価 

 果して、この語句の分解判断が正しいか、意味的に正してのだろうかとの疑問がでました。

 そこで、各々語句を辞書より調べて、意味を比較して見ました。

 あな(甚)

 「甚」の読み名は、「あな」と読めるか?

 辞書の読みは、「いた」である。「あな」と読まない。

 意味⇒はなはだしく。ひどく。「―泣かば人知りぬべし」

 にやし(熟し)

 「熟し」の読み名は、「にやし」と読めるか?

 辞書の読みは、「こなし」である。「にやし」と読まない。

 意味⇒こなすこと。砕くこと。

まとめますと、 

 「あな(甚)」+「にやし(熟し)」の意味は、

   甚だしく砕くことで、"なんと麗しや"の意味らにならない。ようでした。



他研究者に対するご質問、解説コーナー

〇考古学年代と大幅に違うスス暦の検証暦

・Web指摘

・調査・検証

★ 「謎の大きい数値は「年齢」でなく「時の経過」の、この鈴枝穂でした。」(千葉氏の紙面より引用)  

 原因

 「歳」と「時の経過」は一致するのが暦である筈であるが、「謎の大きい数値は「年齢」でなく「時の経過」の、この鈴枝穂でした。」と本人も認めていた。(千葉氏の紙面より引用)。

 暦とは

  自然科学と季節、月、日が一致し、また、「干支が変わると日が動く」ことが証明できることを云う。特に、古代暦(太陰太陽暦)の解明には、季節、月名、月令などを加味する必要があるだろう。不一致の場合は、暦の解読とは言えない。

 掲載本

  試論、検証の範囲を脱し、新刊本に引用されていた。本「解き明かされる日本最古の歴史津波(飯沼勇義著 鳥影社 2013)」に引用紙面あり。

〇他研究者に対するご質問、解説コーナー

ホツマの意味は、正しいか?  

ホツマ辞典は、論文だった  

ホツマツタヱと日本書紀のどちらが古いのか - まとかなる やまと (fc2.com)・・論評追加  

検証ほつまつたゑ121号 ハタ考 その2 | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~ (ameblo.jp)・・論評追加 

〇疑問コーナー

 Webで次の「『検証ホツマツタヱ』の刊行には紆余曲折があり、平成26年初め、崩壊の危機に瀕した時」の文章を目にした。

 そこで、調べて見たが、初号~現在まての号数には「欠番」がないようです。

 何が問題だろうと関係者に問い合わせると、初代編集長⇒2代編集長には「メールでの引き継ぎ」だったようです。2代目も苦労されたようですが原稿を書くより「易しかった」とのこと。2代編集長⇒次の編集長が決まってなかった。発行人に問い合わせたところ「大丈夫ですよ。集団で編集・発行します。」とのメールての返事だったとか。検証ホツマツタヱを見ると、編集人は「ホツマ出版会編集部」になっていたとのことです。次の号は4代編集長。8号続けられ5代編集長に交代されているとか。

国会図書館の蔵書

 研究者が何回も論文を投稿し発行された雑誌であろうが、国会図書館の蔵書になると、1~84号まで一冊になる。そして、研究者名は一切、表にでない。これが、検証ホツマツタヱの現実であろう。また、SNSで掲載されても永遠の記録にはならないようだ。 

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単行本の発行のメリット

 費用は発生するが、研究者個人で本を製本し発売すると、国会図書館は「本名」、「作者名」を登録してくれるとのこと。  


〇他人が指摘した「崩壊の危機」

(1)検証ホツマツタヱ 四号で「ボツ」にされた原稿  

 慶長説では、「タ」の古語は「治」らしい。当時の編集長は故慶長さんに原稿をチエックさせて、原稿を「ボツ」にしたとのこと。だが、ホツマツタヱには、「タ」でも「助」の意味を含む用語が多数ある。下記は、ホツマツタヱの「タ」の文章である。読者の判断は?

その「タ」の文章を抜粋すると、

タスケシム、キミノタスケト、トミガタスケテタリタスクノリ、タミタスヲシエ

タスケオキ、ワレヲタスケテ、タネコガタスケ、ナンチタスケヨタスクルタミハ

タスカガミ、イエハタスケテ、ワレオタスケヨトモニタスケヨ

タスユエニ、ウツホハタスク、ミナタストキハ、タスケシニ

などの19個がある。

2002年9月18日付、『天成る道に 民おたす」についての一考察』 「第4号原稿」 


(2)ホツマ研究誌で、危うく危険な説に書き直されそうになった原稿(ボツ) 

 サカオリの所在地は、富士山の南か、北かの議論は存在するが、南北朝説は存在しない。

2001年9月23日付、「富士山とハラミサカオリ」

「ハラミの宮」南北両説について


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 今後、Webに掲載されていることを見つけ次第、掲載予定。(管理人)

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