シラキ(新羅)皇子の来日時期

シラキ(新羅)皇子の来日時期



祝50周年記念事業 ホツマツタヱ再発見

 2020年1月13日

 ホツマツタヱ シラキ(新羅)皇子の来日時期の信憑性を問う

 ホツマツタヱ史学研究会  吉田六雄

1、三国史記の記述

 西 暦         三国史記の始祖、倭国の記述始め(抜粋)

 前57年         新羅本紀(第1代の始祖赫居世居干即位。)

 前37年          高句麗本紀(第1代始祖東明聖王即位。)

 前18年          百済本紀(第1代温〇王即位。)

  59年         新羅本紀(倭国と国交を結び互い使者を交換した)

  123年         新羅本紀(倭国と講和した。)

  158年         新羅本紀(開竹嶺が開通した。倭人が来り訪れた。)

  173年         新羅本紀(倭の女王卑弥呼(注1)が使者を来訪させた。)

2、ホツマツタヱの記述と考察年(1倍暦)

ホツマツタヱには、崇神、垂仁天皇の御世にシラキ(新羅)皇子が来日したとの記述がある。

アスス穂  御世  (紀年・2倍暦)  1倍暦   ホツマツタヱの記述(概略を抜粋)

 58年   初年   (前660年)  前133年   初代・タケヒト (神武)

621年   初年   (前97年)    151年   10代・ヰソニヱ (崇神)

659年   39年   (前78年)    170年   (ホツマ)シラキの君の阿子

678年   58年   (前69年)    179年   (ホツマ)シラキの国と仇起こり

689年   初年     (前29年)   185年   11代・ヰソサチ(垂仁)

776年   88年   (前20年)    228年   (ホツマ)シラキヒボコがひ孫

3、結論

 新羅の建国年は、紀元前57年である。(三国史記)それに対し新羅皇子の来日は、新羅が建国される遥か21年も前の紀元前78年であり、崇神天皇39年(アスス659年)のことであった。(ホツマツタヱ、日本書紀)この年数は、新羅で使用されていた太陽暦を基準とした太陰太陽暦に対しホツマ・アスス暦、書記暦は、自然科学の太陽暦を基準にしない太陰太陽暦であったことを表していた。そのため、両書の年代を学術的に隣国と比較する場合は困難であった。

 そこで、ホツマ・アスス暦、書記暦の紀年を、太陽暦を基準にした太陰太陽暦(1倍暦の起点は、100歳以上の天皇が不在になる西暦399年(注2)とする。)に置き換え、再度、新羅の建国、新羅と倭国の往来時期を調査して見た。その結果、ホツマツタヱでは、170年には新羅皇子が来日していた。新羅本紀の記述では、59年に倭国と国交を結び互い使者を交換、123年に倭国と講和したとの記述があった。 158年には倭人が来り訪れ、173年には倭の女王卑弥呼(注1)が使者を来訪させていた。このように、新羅と倭国、ホツマ国の往来は早くから行われていたことがわかってきた。筆者の欲として、新羅皇子の誰が来日したかを新羅本紀で調べたが、皇子の氏名が未記述で特定できなかった。

4、比較方法(記事、対象暦と年)

 ホツマツタヱに記述の新羅皇子らの記事と、三国史記の百済、高句麗、新羅に記述される倭国関連の記事とした。なお、ホツマツタヱのアスス暦の御世では高齢天皇が多い。そのため、過去にアスス暦を検証しており、その結果、自然科学(太陽暦)を基準にした太陰太陽暦(1倍暦)に対しアスス暦の紀年は2倍暦であったことが確認されていた。そこで、現アスス(2倍暦)年と自然科学年に換算したアスス暦(1倍暦)を併記した年表を作成し比較検証した。なお、百済、高句麗、新羅年は、三国史記(井上秀雄訳注)において西暦年に換算されているため、その記載年を使用した。また、三国史記の日食の発生時期について、NASAの日食カタログと比較検証した結果、概ね一致が確認された。

5、比較結果 (新羅らの年代、および、アスス暦、紀年に換算年)

 新羅本紀の年代が西暦年を基準に表示されているため、ホツマの記事より先に新羅の倭国関連の記事を抜粋すると、

(1)西暦59年以降に見られ、123年に倭国と講和した。

(2)158年に倭人が来り訪れた。

(3)173年に倭の女王卑弥呼(注1)が使者を来訪させた。」との記述が見られた。

このように、倭国と新羅の往来は、約123年以降において交流が多くなっていたことが判明する。

 それに対し、ホツマツタヱに記述される新羅皇子の来日年を、現アスス年、御世年、アススの紀年(2倍暦)、アススの1倍暦に換算して比較すると、崇神天皇~垂仁天皇の御世は、アススの1倍暦において、西暦約150年~西暦約230年頃になり、この頃の170年頃に新羅皇子は来日していたことが判明する。

アスス穂 御世     2倍暦年  1倍暦年 ホツマツタヱの記述

621年 初年       前97年   151年  10代・ヰソニヱ (崇神)

659年 39年       前78年   170年  ←(ホツマ)シラキの君の阿子(1倍暦)

678年 58年       前69年   179年  ←(ホツマ)シラキの国と仇起こり(1倍暦)

689年 初年       前29年   185年  11代・ヰソサチ (垂仁)

776年 88年       前20年   228年  ←(ホツマ)シラキヒボコがひ孫(1倍暦)

(余談)

ホツマツタヱに百済、高句麗のことが未記述のため、三国史記より倭国と百済、高句麗の往来時期を調べて見たが、ホツマツタヱの終焉の西暦262年までにおいて百済、高句麗本記には倭国の名は未記載であった。なお、百済が倭国と好を結んだのは397年のことであり、また、高句麗は400年以前では「倭国と交流した」との記載はなかった。

(注1)卑弥呼

(1)魏志倭人伝の卑弥呼の記述は景初二年(238)~正始八年(247)になる。だが、魏志倭人伝には日蝕の記述がなく、自然科学と対比することはできなかった。それに対し新羅本紀には、173年に「倭の女王卑弥呼が使者を来訪させた。」との記述である。それも新羅本紀には日蝕の多くの記述があり自然科学との一致が検証できた。なお、卑弥呼が173年~247年まで生息していたと仮定し、その期間を計算すると、74年となり同一人物の卑弥呼であったとも推定される。

(2)ヤマト姫 (箸墓古墳に埋葬されているヤマトモモソ姫のことでない。)

 ヤマト姫は、アマテル神の鎮座地を捜して行幸したされる皇女子である。そのヤマト姫の年代を1倍暦に換算して見ると、西暦190年(2世紀)~257年(3世紀)になる。それに対し卑弥呼は、三国史記で173年、魏志倭人伝で247年に記述されている。この記述を信頼すると、ヤマト姫と卑弥呼は同時代の人のようである。なお、箸墓古墳に埋葬されているヤマトモモソ姫は59年(1世紀)~155年(2世紀)頃の人であり、ヤマト姫より約102年~131年年も過去の人になる。(吉田説)

ヤマト姫と卑弥呼の比較

アスス暦 御世      西暦    1倍暦    ヤマト姫、卑弥呼の記事

             173年           新羅本紀(注1)

 700年 (12年)           190年    (ホツマ)生む皇子の名はヤマト姫 

             247年           魏志倭人伝(注1)

 833年 (45年)           257年    (ホツマ)病あらすヤマト姫咎め 

(注1)新羅本紀 (倭の女王卑弥呼が使者を来訪させた。)

(注1)魏志倭人伝 (正始八年、帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。)

(注2)2倍暦の終息年(吉田説)

 古代天皇の第16代の仁徳天皇までは、異常な高齢歳や在位年数が異常に長い天皇の御世になる。このことを裏付けるように、アスス暦の景行天皇の御世では2倍暦だった記述があり、また、応神天皇の出生も2倍暦で記述されていた。また、ホツマツタヱと日本書紀の春の記述では、明らかに2倍暦での表示があった。また、自然現象であるシラヌヒ(不知火)が季節とズレた旧暦5朔に現れた記述があった。このことより古代天皇の仁徳天皇までは2倍暦の御世であった。

 更に、シナ(支那)暦が正式に採用された頃の第33代推古天皇元年(592年)までの天皇において、年齢、生まれ年、天日嗣年、御世年数らを総合的に分析した結果、第17代履中天皇以降の天皇は、1倍暦の御世であった。

 なお、第21代雄略天皇の年齢については日本書紀では未記述であったが、先代旧事本紀には124歳まで長生きしたとの記述があった。だが、雄略天皇の御世は23年であり、雄略天皇が即位された歳は101歳に計算される。この歳では自然科学上では不可能と判断され、日本書紀の記述の如く年齢不詳とした。(吉田説)

6、年表による比較(概要)

 新羅皇子の来日時期について、ホツマツタヱ、日本書紀の紀年(2倍暦)と1倍暦と三国史記の新羅暦の年代検証

(1)ホツマツタヱ、日本書紀の紀年(2倍暦)の場合 

    詳細の比較年表は、別添資料(1)項をご覧下さい。

(2)ホツマツタヱ、日本書紀の紀年(1倍暦)の場合

    詳細の比較年表は、別添資料(2)項をご覧下さい。

 (以上)



添付資料

(1)ホツマツタヱ、日本書紀の紀年(2倍暦)の場合・・・従来説

 新羅国が前57年に建国されるが、その11年前~20年前の前69年~前78年にホツマ国に新羅皇子が来日していた記事になり、年代的に整合しなかった。これにより日本書紀の暦は、紀年と呼ばれる特別な暦であることが立証された。

     在位年数     識別:△印は、マイナス年を表す。

天鈴年 (御世年)修正天鈴年 紀年 三国史記年   代・天皇名 

  58年  76年       △659年          初代・タケヒト (神武)

 134年  36年       △580年         2代・ヤソキネ (綏靖)

 170年  38年       △547年         3代・シギヒト (安寧)

 208年  35年       △509年         4代・ヨシヒト (懿徳)

 243年  83年       △474年         5代・ミルヒト (孝昭)

 326年  102年       △392年           6代・ヲシヒト (孝安)

 428年  76年       △289年           7代・ネコヒコ (孝霊)

 504年  56年       △213年           8代・モトギネ (孝元)

 560年  61年       △156年           9代・フトヒヒ (開化)

 621年  68年        △96年          10代・ヰソニヱ (崇神)

 659年 (39年)       △77年     ←(ホツマ)シラキの君の阿子

 678年 (58年)       △68年     ←(ホツマ)シラキの国と仇起こり

                 前57年←新羅本紀(第1代の始祖赫居世居干即位。)

                 前37年←高句麗本紀(第1代始祖東明聖王即位。)

 689年  99年       △28年          11代・ヰソサチ (垂仁)

 776年 (88年)      △19年     ←(ホツマ)シラキヒボコがひ孫

                 前18年←百済本紀(第1代温〇王即位。)

                  59年←新羅本紀(倭国と国交を結び使者を交換した)

 788年  55(60)年     71年          12代・タリヒコ (景行)

                 123年←新羅本紀(倭国と講和した。)

 843年            126年         ・<アスス暦の終焉>

     60年  848年  130年           13代・成務天皇 

                 158年←新羅本紀(倭人が来り訪れた。)

                 173年←新羅本紀(倭の女王卑弥呼(注1)の使者が来訪)

     10年  908年  190年           14代・仲哀天皇 

                 193年←新羅本紀(倭人が大飢饉にみまわれ、食料を求め)

     69年  918年  200年             神功天皇 

                 208年←新羅本紀(倭人が国境を犯したので、)

                 214年←百済本紀(214年第5代肖古王薨去))

                 232年←新羅本紀(倭人が突然侵入して金城を包囲した。)

                 233年←新羅本紀(倭軍が東部の国境を犯した。)

                 248年←高句麗本紀(新羅が使者を派遣し国交を開いた)

                 249年←新羅本紀(倭人が〇弗〇の干老を殺した。)

     41年  987年  269年           15代・応神天皇

                 286年←百済本紀(使者を新羅に派遣し和親を要請した)

                 287年←新羅本紀(倭人が一礼部を襲い)

                 292年←新羅本紀(倭兵が沙道城を攻め陥そうとした。)

                 294年←新羅本紀(倭兵が侵入して長峯城を攻めたが、)

                 295年←新羅本紀(王曰く、倭人が我が国の城や村を襲う)

                 300年←新羅本紀(倭国と国使の交換をした。)

     89年  1028年  310年           16代・仁徳天皇

                 312年←新羅本紀(倭国王が使者を派遣し王子の花嫁を求

                    めて来たので阿〇の急利の娘を倭国におくった)

                 337年←百済本紀(新羅が使者を派遣し、来訪してきた)

                 344年←新羅本紀(倭国王が使者を派遣して、花嫁を求め

                    て来たが、娘はすでに嫁にいったとして辞退した。

                 346年←新羅本紀(倭軍が風島を襲い辺境地帯を犯す。)

                 364年←新羅本紀(倭兵が大挙して侵入いてきた。)

                 366年←百済本紀(使者を派遣し、新羅を訪問させた)

                 375年←百済本紀(375年第13代近肖古王薨去)

                 393年←新羅本紀(倭軍兵が侵入して金城を包囲し)

                 397年←百済本紀(王は倭国と好を結び)

      6年  1117年  399年(起点・注2)   17代・履中天皇

                 403年←百済本紀(倭国の使者がやってきた)

      5年  1123年  406年          18代・反正天皇

     42年  1128年  410年          19代・充恭天皇



(2)ホツマツタヱ、日本書紀の紀年(1倍暦)の場合・・・是正説

 新羅国が前57年に建国されるが、その後の59年頃より倭人が新羅を訪ねており、170年にホツマツタヱの新羅皇子の来日の記事が記述されている。また、この頃より新羅と倭国の往来が多くなっていた。

    在位年数       紀年(1倍暦)     識別:△印は、マイナス年を表す。

天鈴年 (御世年) 修正天鈴年 三国史記 代・天皇名

  58年  76年        △132年       初代・タケヒト (神武)

 134年  36年        △94年        2代・ヤソキネ (綏靖)

 170年  38年        △76年        3代・シギヒト (安寧)

 208年  35年        △57年        4代・ヨシヒト (懿徳)

                 前57年←新羅本紀(第1代の始祖赫居世居干即位。)

 243年  83年        △39年        5代・ミルヒト (孝昭)

                 前37年←高句麗本紀(第1代始祖東明聖王即位。)

                 前18年←百済本紀(第1代温〇王即位。)

 326年  102年          3年        6代・ヲシヒト (孝安)

 428年  76年         54年        7代・ネコヒコ (孝霊)

 438年 (10年)        59年    ←(ホツマ)三つ子生む名は皆ヤマトモモソ姫

                 9年←新羅本紀(倭国と国交を結び互い使者を交換した)

 504年  56年         92年        8代・モトギネ (孝元)

 560年  61年         120年        9代・フトヒヒ (開化)

                123年←新羅本紀(倭国と講和した。)

 621年  68年         151年        10代・ヰソニヱ (崇神)

 630年 (10年)        155年    ←(ホツマ)モモソ姫 箸に御ホドお突き罷る 

                158年←新羅本紀(開竹嶺が開通した。倭人が来り訪れた。)

 659年 (39年)        170年    ←(ホツマ)シラキの君の阿子

                173年←新羅本紀(倭の女王卑弥呼(注1)の使者が来訪。)

                179年    ←(ホツマ)ミマナ国 これ立ち初めぞ

 678年 (58年)        179年    ←(ホツマ)シラキの国と仇起こり

                185年    ←(ホツマ)ミマナの君 賜り

 689年  99年         185年        11代・ヰソサチ (垂仁)

 700年 (12年)        190年    ←(ホツマ)生む皇子の名はヤマト姫 

                193年←新羅本紀(倭人が大飢饉にみまわれ、食料を求め)

                200年←新羅本紀(加耶が講和を申し込ん来た)

                208年←新羅本紀(倭人が国境を犯したので、)

                214年←百済本紀(214年第5代肖古王薨去)

 776年 (88年)        228年    ←(ホツマ)シラキヒボコがひ孫

                232年←新羅本紀(倭人が突然侵入して金城を包囲した。)

                233年←新羅本紀(倭軍が東部の国境を犯した。)

 788年  55(60)年      234年        12代・タリヒコ (景行)

                247年←魏志倭人伝(正始八年、帯方郡太守の王が着任した。

                    倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と

                    和せず、倭の載斯烏越等を派遣して帯方郡に至り

                    戦争状態であることを説明した。

                248年←高句麗本紀(新羅が使者を派遣し国交を開いた)

                249年←新羅本紀(倭人が〇弗〇の干老を殺した。)

 833年 (45年)        257年    ←(ホツマ)病あらすヤマト姫咎め 

 843年             262年・・・・・・・<アスス暦の終焉>

     60年   848年    265年        13代・成務天皇 

                286年←百済本紀(使者を新羅に派遣し、和親を要請した)

                287年←新羅本紀(倭人が一礼部を襲い、)

                292年←新羅本紀(倭兵が沙道城を攻め陥そうとした。)

                294年←新羅本紀(倭兵が侵入して長峯城を攻めたが、)

                295年←新羅本紀(王曰く、倭人が我が国の城や村を襲う)

     10年   908年    295年        14代・仲哀天皇 

     69年   918年    300年           神功天皇

                300年←新羅本紀(倭国と国使の交換をした。)

                312 ←新羅本紀(倭国王が使者を派遣し王子の花嫁を求

                    めて来たので阿〇の急利の娘を倭国におくった)

     41年   987年    334年        15代・応神天皇 

                337年←百済本紀(新羅が使者を派遣し、来訪してきた)

                344年←新羅本紀(倭国王が使者を派遣して、花嫁を求め

                    て来たが、娘はすでに嫁にいったとして辞退した。

                346年←新羅本紀(倭軍が突然風島を襲い辺境地帯を犯す。)

     89年   1028年    355年        16代・仁徳天皇

                364年←新羅本紀(倭兵が大挙して侵入いてきた。)

                366年←百済本紀(使者を派遣し、新羅を訪問させた)

                375年←百済本紀(375年第13代近肖古王薨去)

                393年←新羅本紀(倭軍兵が侵入して金城を包囲し、)

                397年←百済本紀(王は倭国と好を結び)

      6年   1117年    399年(起点、注2) 17代・履中天皇

                403年←百済本紀(倭国の使者がやってきた)

      5年   1123年   406年        18代・反正天皇 

     42年   1128年   410年        19代・充恭天皇

                                      (以上)

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